第3回 道徳授業を終えて

1組 自己肯定感を高める

私は今回の道徳の授業をお聞きして、自分の自己肯定感の低さがよく分かりました。でも小学校低学年の時は、むしろいろんなことに先走ったり、自信満々に物事を言ったりしていたのを少し覚えています。私が今のように、自信のないネガティブな性格になったのは、色々な理由がありますが、一番は市内の陸上大会だと思います。私は人よりもすこしだけ運動が得意で、小学校で陸上部に入り、それなりに頑張ってきました。この市内の陸上大会でもきっと良い成績を残せると思っていました。ですが実際、他の選手を見ていると自分とはレベルが違う程速くて、私は安易な気持ちでその陸上大会に来てしまったことをとても後悔しました。そして、その大会以降、私は自分と誰かを比べて評価する癖を持ってしまいました。でも今回の授業で先生が「欠点も自分の個性であり、あっても良いのだ」とおっしゃってくださいました。私はその言葉がとても胸に刺さりました。たしかに、人と自分の何かを比べて何になるのでしょう。人と比べて自分の方が低くても、弱くても、それを欠点と捉えず、個性だと捉えた方が前向きに生きられると思います。考えてみると、自己肯定感が低いと周囲からの評価やその時々の状況に一喜一憂してしまい、感情の変化が激しくなり、常に周囲の目におびえながら行動してしまいます。このことによって、手にした何かしらのチャンスを逃してしまうことがあります。それに対し、自己肯定感が高い人は状況や他者の評価に振り回されず、常に平常心を保てます。だからどんなときにも訪れるチャンスを掴むことができます。私は、何事にも自信を持って他人と比べず、むしろ自分の可能性を決めつけずに、知っていく・理解していくことを目標として、自己肯定感を少しずつ高めていきたいと思います。

        

2組 命の尊さを知る

 私は今回の授業で、命の尊さというものを知ることができました。先生が話してくださったお話の中で一番心に残ったのは、東日本大震災のことです。ある女の子が津波で家族全員死んでしまったにもかかわらず、お年寄りのために食料や水を届けたという話です。私なら絶対にそんなことできないし、まず家族全員が死んでしまったことを受け入れられないと思います。また地震の後に行われた、被災地での卒業式の答辞の言葉、「命の大切さを知るには大きすぎる代償でした。」にも心を揺さぶられました。いつ災害や事件、事故に巻き込まれて、大切な人がいなくなってしまうかわかりません。日頃から当たり前のことに感謝して大切な人たちに感謝を伝えていこうと思います。
 事前課題の時には自分の名前の由来を聞くことができました。様々な意味が込められていて、びっくりしたし、うれしかったです。私が生まれたときの話では、父と母が自分のことをすごく大切に思っていることを知って感動しました。それなのに、私は父と母のことをいつも大切に思っているとはいえないかもしれません。いることが当たり前になっているからだと思います。でも、これらの話を聞いてやっぱり感謝を伝えることは大事だなと思いました。「ありがとう」は漢字で書いて「有り難う」です。「ありがとう」は、当たり前のことはいつなくなるか分からないから感謝を伝えるための大切な言葉だと思いました。私は、当たり前のことがなくなったときにもっとこうしておけばよかったなと後悔なんてしたくありません。そのためには日ごろから「ありがとう」をいうのと大切にされた分大切にする、ということが大事だと思います。家族や友人を大切にして暮らして生きていこうと思います。命の重みについて教えてくださり、ありがとうございました。

          

 

  

3組 友人の多様性を受容する

 私は今回の授業を受けて、平野先生と同じように、非常に多様性について悩まされました。私が一番初めに考えたことは、「すべての多様性を受け入れる」ということについてです。例えば、コロナウイルス対策の一貫であるマスクの着用をするかしないかの有無です。電車の中などで、何かの理由でマスクをしていない人に対して、「なぜマスクをしていないのだ」と責めたてる人がいると聞きます。それを言う人にとっては、コロナウイルスが広まってはいけないという思いで言ったのかもしれませんが、マスクをしていなかった人にも、それなりの事情があるのかもしれません。他国の中では、「マスクをしない権利も欲しい」と反発する運動がありました。マスクをするもしないも、それは人それぞれの考えがあり、ある意味での多様性ではあります。また、そのことに対して、不快に感じる人もいれば、別に良いと考える人もいる。これも多様性です。どこからどこまでが多様性で、どこが無秩序・わがままなのかを隔てるのは難しいと感じました。私は、授業の中で出てきた超個人主義社会は到来すると思います。むしろ、もう既に始まっているのかもしれません。自分がこう思ったらそれは皆にとっても当たり前。あるいは、自分の考えが自分にとって正しい。だから、正しいことと違う考えは間違っているんだ。という考え方をする人は、まだたくさんいるのではないでしょうか。
 私は幼い頃、周りの人と違う感覚を持っていたために、理解してもらえなかったり、誤解されてしまうことがあったので、そのことはよくわかります。しかし、他人を受け入れすぎたことで、多様性・個性を潰されたり、ストレスを感じたりするのでは意味がないと思います。三浦優希さんの「干渉しすぎず、あるがままでいることが多様性」というご意見に感銘を受けました。超個人主義社会でも、無理して他人に意見を合わせるわけでもない、程よいバランスが大切なのだと思えました。私は先生のお話の中で出てきた、エンパシーについて、とても興味をひかれました。私は江戸川学園取手小学校から上がってきた一貫生なので、小学校の頃から「七つの習慣」の学習をずっと続けてきました。「相手を理解してから自分が理解される」ということも学んでいました。小学校では、たった一言で簡単に説明されていたのに、それを身につけることがとても大変だと知り、驚きました。私は今でも、相手の気持ちをよく考えずに発言してしまい、後で後悔することが多々あるので、これから知識や経験を積んで、エンパシーを身につけ、相手と互いに理解しあえるようになりたいと思いました。他者と喜怒哀楽の感情を共有することはとても重要だと感じました。今回の授業では、これからの学校生活の中でも必要になってくる知識を新たに取り入れることができ、とてもためになりました。この授業で得たものを忘れずに、これからの社会で生活をしていきたいです。金子みすゞさんの「わたしと小鳥とすずと」の詩にもある通り、人間の繁栄にも力を貸した多様性は、この先もなくてはならないものなので、超個人主義社会が広がりつつある現代、互いを尊重しあうことを、私たちからすすめていけるよう、江戸取中での充実した毎日を大切にしていきたいと思います。


4組 自由と責任

 私は今回の話を聴いて、「自由」とは難しいものだと思いました。なぜなら漠然としてみえるのに、所々細かくルールが決められているところもあるし、自由なはずなのに義務や道徳心というものを考えなければならないからです。そもそも私は自由というのはルールにも何にも縛られることなく何をしてもいい代わりに、全責任は自分で負わなければならない、というものだと思っていました。しかしそれには限度があって、他人を傷つけるようなことは、他人の自由を傷つけ邪魔することになってしまうからいけないのだと思っています。それは、道徳的な意味では絶対やってはいけないことなのは当然だけれど、あくまでも自分の自由について追及するなら他人を傷つける行為や迷惑をかける行為は、結局自分の自由さえもを邪魔してくるからです。また、責任というのも難しいものだと思います。自分が失敗をして責任を取るとき、どこまですれば私は責任を取れたことになるのだろうと考えてしまうからです。
 今、学級委員長をやらせていただいていて、その上で自由と責任という言葉について考えていると、自分には委員長としてこのクラスを良くする義務があるだろうと日ごろから思っています。でも、このクラスのことをどうやって良くできるかはまだ考え中で、自分の行動に自由があるからかえってどうしていいか分からなくて流されてしまうことが多いです。クラスメイトから指摘を受けて初めて気づけたことや、副委員長がいつの間にかやってくれていたことなど、至らないところがいっぱいあるのになかなか直すことができません。私の前にはいつもたくさんの選択肢があって、バスで目の前の女性に席を譲ろうか、迷惑だったらどうしよう、と考えていたり、いつも一歩踏み出せなくて、誰かの後ろをついていったり、背中を押してもらってようやく一歩踏み出せることばかりで、ふがいないと思います。今日の話を聴いて、それは自分に与えられる自由と、それに伴う責任からの逃げではないかと思ったからこそ、これからは少しずつでも、自分の持つ「自由」は自分で守れるよう努力したいです。

                     

5組 文化の多様性

 今回の道徳の授業で私が学んだことは3つあります。
 一つ目は、「衣」・「食」・「住」のジャンルの中でも、日本には、とても多くの文化があるということです。例えば「食」だとしたら川床料理や婚礼料理、精進料理などがありますが、婚礼料理には必ず鯛を出す、精進料理は肉や魚を使ってはいけないというような、昔の人が一生懸命考えた理由も日本人の思いやりという文化の1つだと思います。そして私は「方言」も日本の文化の一つではないかと思います。理由は地方ごとに種類があっても全て人間が自分たちの手でつくり上げてきたものだからです。授業中には思いつきませんでしたが、日本の文化は考えてみると、とてもたくさんあることがわかりました。
 二つ目は、文化を守ることの大切さです。私は、なぜ文化を守らなければいけないかを考えたところ、その文化に適していた環境だからその文化ができたわけで、もしもその文化が一度なくなってしまったらもう取り戻すことが出来なくなってしまうからではないかと考えました。私が直接文化を守るということが出来なくても、図書館で本をたくさん読み、たくさんの文化を知り、他の人にも伝えられるようになれればいいなと思いました。 
 三つ目は、昔の人もとても文化を大切にしていたということです。日本の古い文化は短歌や俳句、茶道や書道などがありますが、短歌は七世紀後半〜八世紀後半からあったそうです。ですから十四世紀ほど続いていることになります。私は十四世紀も短歌という文化が無くならなかったことに、とても驚いてしまいました。これも、日本人が頑張って文化を色々な人々に伝えてきたという証拠だと思います。
今回の道徳の授業で、「文化は大切なものであり、昔の人の知識や知恵がたくさん詰まっているものなので、守らなければならない」ということを学びました。私も昔の人が行ってきたように、今後色々な人々に日本の文化を伝えていきたいです。
               

6組 社会の一員として

 私も授業の最初に山田先生がおっしゃっていたように、この授業では大人になった時に必要となるものを話されるのかと思っていましたが、実際は全く違いました。「社会」というものの意味、人との関わりの拡大、人の生活の仕方等の多様性についてなど、今まであまり深く考えてこなかったことを授業内で考えました。
 「社会」とは、人が関わり合っている場のことを指します。先生は、私達が関わっている社会の中で最も小さいものは家族であり、それは、私達が生まれる前からできていたとおっしゃっていました。私も先生の考えの通り、家族という社会は私が生まれる前からできていたと思います。私の母は、私が生まれる前、男の子の名前のみ考えていたらしいです。これは多くの家庭に当てはまるかと思います。自分が成長していくにつれて、社会がどんどん大きくなっていくことも、とても納得がいきました。
 私も最近までは小学生でしたが、あの小学校の生徒のほとんどは学校の周辺から通学していて、他の区から通学する子はいないほど、それぞれの家庭に大きな違いはありませんでした。中学生になり、私の中でも社会はかなり拡大したと感じています。小学生の頃は、みんな住んでいる場所がほとんど同じで、徒歩通学でした。また、全校生徒は四百人ほどでしたが、江戸取は、ほとんどの生徒が電車通学、他の市からの人はもちろん、私のように他県から通学している人もいます。生徒数も中一だけでも三百人以上います。そのため、自分が好きな芸能人や、番組など、共有できることは以前より減りました。それでもまだ社会は小さな方で、好きな漫画の話やアニメの話など共有できることはまだまだあります。これが大学や、職場など、本格的に大人になってくると、社会は小学生から中学生になった時よりさらに拡大して、自分と共通した趣味を持つ人はごく一部になると思います。そこからさらに拡大するかもしれない社会の中で、人の生き方の多様性を理解することはとても大事なことです。
 けれども、拡大していく社会の中、多くの人と出会って触れ合って生きていくのは、情報に溢れている世界のニュースを全く見ない私には至難の業です。恐らく今のまま社会が拡大していって大人になると、誰ともコミュニケーションをすることができない、触れ合って理解し合うことができない大人になってしまうでしょう。そうならないために今、さまざまなことに興味や関心を持って、大勢の人と触れ合う必要があると思います。
 先週、総合学習の課題で、興味関心があることについて本を読んで調べるというものがあったため、本屋で本を探しましたが、そもそも自分が何に興味があるかについてよく分かっていない上、それについての本があるかも分からなかったため、結局父が選んだ本を読むこととなりました。本当は自分で選んで調べなければいけないのですが、今の私は自分自身についての理解と主体性に欠けています。主体性や自己理解は人生を歩んでいく中で特に必要となるものです。そのほか、社会に出てから必要になるものは、誠実、謙虚、行動力、思考力、想像力など、ほとんどが積極的な行動が要求されるものばかりであることが分かります。今あげた例の中でも私に欠けているものは多々あります。このようなことを考えていると、改めて自分はまだまだ子供だということに気づかされます。今は世間知らずの私ですが、さらに拡大していく社会の中での人々との触れ合いによって、日々成長していきたいと感じた授業でした。



                    

7組 ルールについて考える

 今回、道徳の授業で考えたことは、私達子供は基本のルールがいつの間にか身に付いているが間違ったことも身に付けているのではないか、ということです。そもそも、何故私達子供は基本のルールが身に付くのか、その理由の一つとして「親に教わった」ということが挙げられると思います。しかし、親が知らないルールもたくさんあります。そのようなルールはスーパーに買い物に行く時や電車の中、学校などにいる大人達を見て覚えているのだと私は思います。いつの間にか身に付いているルール。その中にも間違って覚えているルールがあり、ルールを間違って覚えてしまっている原因には大人が関係していると思います。私達子供は大人を手本として日々、生活しています。あくまで私の予想ですが、この世にはいくつかのルールを間違って覚えている大人がたくさんいて、そしてルールを間違って覚えている大人を見た子供がそれを真似て間違ったルールを覚えてしまうのだと思います。したがって、正直に言うとしっかりと決まっている成分律よりも何があっていて何が間違いなのかあやふやな不文律の方が恐いです。不文律は自分が合っていると思っていることが他の人にとっては間違っていることで、互いに自分の意見を尊重し合い、トラブルが起こってしまう可能性があるのでトラブルが起こる前から改善策を立てておけるようにしたいです。
 授業で青野先生が一人の時はきちんとルールを守ることが出来るが友達など数人の人といる時はルールを破ってしまうとおっしゃっていましたが、私は違うと思います。数人の人といる時は、青野先生がおっしゃったようにやってはいけないと分かっていても他の皆がやっていて自分もやらなければ「仲間外れにされてしまう」、「皆に嫌われてしまう」と恐れ流れ的にやってしまうことが多いと思いますが、数人の人といる時と同様一人の時も破ってしまうと思います。一人でいる時だと周りに人がいないため「やってもどうせバレない」と思い込んでしまいつい破ってしまうことが私も時々あります。しかし、授業の最後に青野先生がおっしゃっていた「ルールは思いやり」と聞いてこれからは一人でいる時も数人でいる時もルールを破らず、常に周りの人に迷惑していないか気を配り、勉強しやすく誰もが快適に過ごすことが出来る環境を作っていきたいです。

               
8組 国際社会に生きる

 私は国際化していくことに良いことしかないと思っていたけれど、民族や宗教、言語などの違いによってのすれ違いが起きてしまうということを知って、国際社会で生きていくためには工夫してメリットとデメリットをしっかりと考えていかないといけないのだなと感じました。また、このような授業のように話し合いやお互いの意見を交換して、様々な視点から見ることが大切だと思いました。
 まずメリットは、文化を共有したり技術を取り入れることで、経済を発展させたり異文化を学んで楽しむことが出来たりしますが、その一方で文化が薄れてしまったり差別が生まれてしまうというデメリットも考えられます。それを踏まえ、国際化を図ることには一人一人の意識や、異文化理解をしようという姿勢が大事だと気づきました。でも、異文化交流や技術を取り入れるというのは、前提として世界共通言語である英語は最低限でも話せる必要があると感じました。それを考えて、今まで以上に英語はネイティブの方と会話して聞き取れて話せるようになりたいと感じるようになりました。そのため、中学一年生のこの段階から英語の学習には特に力を入れていきたいです。そして、国際化を進めるためには自国に自信を持ち、自国はどのような国なのかを知ることや、これからの時代に合わせて受け継がれていく生活スタイルも、今までの伝統だけでなく考える必要があると思いました。以上のことを踏まえ、世界には色々な国があり、文化も多様化している時代で、来年には東京オリンピックも開催されるので、より一層、文化を否定せずに、自分の中での普通を捨てて、様々な人を受け入れ、理解出来るように今まで以上に意識して生活しようと思いました。