大蔵流狂言を鑑賞して



 

医科コース

狂言とは古来幾人の演者たちが紡いできた日本の伝統文化です。そう考えるとどうしても重苦しく、解しがたいものというイメージが私の中にありました。しかし、今回の公演のおかげでその考えは払拭されました。能と狂言の違いがあまり分からなかったのですが、演者さんの解説でより分かりやすく理解でき、狂言にもたくさんの流派があることに日本文化の歴史の深さを感じました。その上、小道具が少なく場面転換がやりやすいことなど楽しみやすい喜劇だったためとても興味深く、狂言の世界観を楽しむことができました。実際狂言を鑑賞した時、演者さんの演技に引き込まれ思わず息をのむほどの驚きを経験しました。ひとつひとつの演技に力が入っており歩き方、声色、動作の細かいこだわりや特徴を知り、狂言の難しさを身をもって感じました。今回の様な古典文学を観るだけでなく、体験する機会を得たおかげで、日本文化に親しむことができました。私たちはこの素晴らしい日本の伝統文化を後世に伝え、残していかなければならないと感じました。

 

 



東大コース

 今回、狂言を観させていただきましたが、これは人生初の体験でした。それは狂言を観ること自体が初めてという意味であると同時に、それを観て抱いた感情が人生で初めてのものだったということでもあります。
 僕は以前、今回同様、学校の行事の一つとして能を観させていただいた経験がありました。しかし、内容が難しいということと、僕の古語の学習が今と比べて発展途上であったことでどのような話なのか理解できずに終わってしまいました。しかし、それと比べて今回の狂言は話の内容も分かりやすく、僕の古語への理解は成長しており、分からない部分があったとしても動きである程度推測できました。どのような話か理解ができ、とても面白いと感じることができました。
 狂言はコメディーだということで笑えるような場面が多数あり、「楽しい!」「面白い!」という感情を抱きました。しかし、それだけではなく趣深く思えてきたのです。それは昔の人はこういうものを観て笑っていたのだなという関心や、自分が昔の人と同じ体験をして楽しんでいるのだという不思議さから来るものでした。これらの感情を抱いたのは人生で初めてで、自分が大人になったような気がしました。
 このように、今回の行事は僕に様々な人生初をもたらし、とても有意義な機会となりました。



 



難関コース

今回の「棒しばり」という狂言を観て、狂言は特別難しいものではなく、初見でも楽しむことが出来るとても興味深い日本の文化であると思いました。先ず、公演の初めに能と狂言の違いについて教えていただきました。能とは、平家物語、源氏物語、伊勢物語などを題材にしたもので、能管、小鼓、大鼓の三つの楽器を用いるそうです。それに対し、狂言は楽器を使わずに謡い【うたい】で劇をします。狂言は「笑いの芸術物」であり、最後は「笑い止め」で終わるため、海外では「侍コント」と呼ばれていると知りました。また、説明の中で背景に使われている屏風の絵が何故松であるのかについてききました。室町時代では、松は神様とされていたため、神様の前で劇をしていることになるそうです。私は、ただ背景に松が合うから使っているのだと思っていました。劇の中では、お酒を飲むための器、腕を固定するための棒しか使われていませんでした。数少ない物だけで情景や心情を演じる狂言の役者さんの表現力に引き込まれました。狂言の所作から、昔の人達も私達とおなじように感じ笑い楽しんでいたことに親しみを感じました。今回狂言の面白さだけでなく、能と狂言の歴史、役者さんの表現の力を知り、日本の伝統芸能として末永く続いてほしいと思いました。ほかの狂言も見てみたいと思います。とても素敵な一時間を過ごせて良かったです。

 



難関コース

今回大蔵流狂言を鑑賞して今の私たちが話している言葉と大きく異なっている部分と共通している部分があるということを感じました。共通している言葉があるので今の私達でも物語の内容が理解することができて楽しむことができるので、室町時代に完成してから今までずっと受け継がれてきたものなのだなと思いました。また理解できる言葉は今も多少の違いはあっても同じような意味で使われてきたのだなと思いました。また私は狂言の劇の中に出てきた言葉の中で私達が使っていない言葉はどうして使われなくなり、あるいはどうやって変化していったのか気になったので調べてみたいと思いました。また表現の仕方一つ一つでも笑い方や泣き方、怒り方、驚き方など台詞を口にしていなくてもそれぞれの感情を伝えることができるということを学びました。この感情を分かりやすく伝える技術によって観ている人達を惹きつけて、作品の世界観を作っていると思いました。また使っている道具や服も高価なもので一つ一つ発注し、細部にまで拘っているものを使っていてやはり伝統芸能としての誇りを持って演技をしているのだなと思いました。今回私は初めて狂言を鑑賞して、沢山の発見や疑問がありました。それらの発見や疑問を振り返り、これからの学校生活に活かしていけるようにしたいです。



 
 



難関コース

 狂言とは、室町時代、猿楽から発展した日本芸能で、能と共に時代を超えて発展を遂げ、日本人の文化的価値として今日まで伝えられてきました。そんな格式ある日本の伝統舞踊ではあっても、如何せん、我々の様な中高生からしてみれば私生活とはかけ離れた形骸であり、瀰漫するサブカルチャーのなかに消失するに如くはないと、そう思っていました。
 しかし、今回の講演を通じて日本舞踊の奥行に痛感させられましたし、民族の共通認識に自己の感性が到達したと自覚する契機でありました。
 披露された講演は「棒縛」という演目で、滑稽に満ちた喜劇でありました。というのも、これは能楽の成り立ちに由来しますが、元来、神話や歴史が主に扱われる能において、その合間に実演されるのが狂言の本来の成り立ちであります。令和の世にこれを観ていますと、恰も説話の断片のようであり、奥ゆかしく感じます。 
 「幽玄」という価値を引き出す要因は、役者の演技と舞台装置にあると思います。舞台は背後の鏡板に松が一本、役者も最低限の小道具しか持つことが許されません。しかるに、その極限まで無駄を省いた舞台であるからこそ、私達には「形骸」としてではなく、「いのち」として受容することが可能であると思います。
 他方、役者の演技は、終始一貫、非常にキレがあり、洗練されていました。限られた空間、すなわち、容易に動けない舞台において、喜怒哀楽が表現されるのは、全てが計算された上で成立しているのではないでしょうか。とくに、あの「笑ひ」こそ、狂言の所以であるといわざるを得ません。 
 役者の言葉、それから動き方に関しても感心する所が多くありました。700年にわたり上演された芸能ならではだとおもいました。一連の仕草や動作、自分はあの丁寧な様子を観ていて日本の礼節に連なるに相違ないと、そう確信しました。
 私は狂言を通じて、日本人の奥ゆかしさを「再発見」しました。今後とも、自国文化に接触することで、過去の精神との連続性を恢復したいと思う所存であります。

 

 

 


難関コース

 今回の大蔵流狂言では、とても素晴らしいものを見ることができました。僕は以前にも大蔵流狂言の今回と同じ演目のものを見たことがあるのですが、何度見ても面白く感じられます。狂言独特の声の出し方や動きには、毎度感服させられますし、内容も伝統を受け継いだ古き良き物です。このような伝統を受け継ぐ人や、それを鑑賞する人は年々減っており、日本の重要な文化が廃れようとしている今日この頃、是非この狂言は後世にまで受け継がれてほしいと切に思いました。同じ内容のものを見たことがあるので狂言の内容自体にこれといって感想は無いのですが、今回それよりも印象に残ったのは皆さんのトークでした。慣れているのか、すらすらと面白い言葉を連発して、最初から最後まで飽きずに見ることが出きました。狂言の紹介は分かり易く、ついつい真似したくなるものばかり、最後の質問にも臨機応変に対応しており、お金の話をしているときは思わず吹き出してしまいました。皆さんお話をされるのが好きなようで、一人がしゃべってももう一人がすぐにしゃべってしまうなど、あのかみ合わない感じさえもおもしろかったです。こういう人たちがいるから、狂言は今日まで生きているのだなあと思いました。狂言の形態は古いものを受け継ぎ、それでいて現代にも通じるようなトークでつなぐ、狂言を広めるための工夫を凝らしていることを感じられました。今回の演目は現代人に通じやすく、今一番有名な演目となっていますが、この一つだけでも、狂言独特の色々な技法を学べました。歩き方、笑い方、移動や動き、プロのものを見れたことは、人生にとって重要な糧になったと思います。今回講演をしてくださった大蔵流の皆様、僕たちに笑いと知識を、どうもありがとうございました。