社会科見学を振り返って〜2018.10.17. 富岡製糸場〜

私達は1017日水曜日に、群馬県にある富岡製糸場を見学してきました。まず現地について一番最初に目に入ったのは、赤い煉瓦作りが特徴的な、東置繭所です。その名の通り、生糸の原料となる繭を貯めておく倉庫で、なんと長さは104メートルもあります。倉庫は東置繭所を含め2つあり、1年間に使う量の繭が保存されていたそうです。工女さんたちがどれだけ大変な思いをして多くの生糸を作っていたのか想像することができます。一方で食事が出て、病院もある富岡製糸場は、当時の工女さんたちにとっては、とても恵まれた環境だったそうです。さらに、富岡製糸場では、勉強をしたり、裁縫を習ったりすることができたそうです。明治時代に作られた建物がこうして今でも保存されているのは、富岡製糸場の建物に、トラス構造やアーチの要石、十字形に組まれた木材など、建物を丈夫にするための工夫がたくさん施されているからで、これらも、明治時代になって西洋の文化がたくさん伝わってきた証拠だと思います。 


僕は、富岡製糸場に行き、日本がかつてどれだけの量に生糸を輸出していたのかがわかりました。繭を保管する巨大な倉が2つもあり、繭から糸を取るための機械もたくさんあったため、とても驚きました。これらの機械や、建物の建築様式は、当時の日本からしたらとても進んでいたので、文明開化で欧米から入ってきた文化を感じ取ることができました。それに加え、明治5年に始まってから約145年たったいまでも建物がきれいなままでいたので、そこも驚きました。富岡製糸場は、昭和62年に稼働を停止するまでの115年間、日本の製糸産業に大きく貢献していたため、日本人はこれをきれいに保存しておきたいのだろうと思いました。僕は、このような日本史に大きく貢献した建物にいくことができ、とても嬉しかったです。以前から行きたいとも思っていたので、なおさらでした。これからは、日本史に貢献した建物や、偉人の記念館にいき、日本のことをもっと知りたいです。そして、今後の日本史に貢献し、たくさんの人に良い影響を与えられるような人間になりたいと思います。 


 今回の校外学習に参加して、養蚕業が明治時代の日本の工業を発展させた理由を2つを学びました。
 1つ目は、お雇い外国人を数名雇い、富岡製糸場をほぼ外国の技術で作ったからだと思います。富岡製糸場はフランスなど外国の技術をいろいろな場面で活用しています。江戸時代の日本は鎖国していたため、明治時代初期は工業面や農業面など様々な面で外国より遅れていました。そこで、明治政府は外国から数名のお雇い外国人を招き、外国の技術と日本の技術を合わせて富岡製糸場を建てました。例えば、フランスのレンガ職人が日本の瓦職人にレンガの焼き方や積み方を教え、日本の土で日本の瓦職人が作るなどでした。
 2つ目は、富岡製糸場が日本初の工女の育成を兼ねた工場だったからです。当時、富岡製糸場に全国各地から有力者の子女が集まり、そこで学んだことを地元に帰ってから広めていたそうです。この仕組みが日本全国の工業を発展させる大きな要因だそうです。
 
私は、日本が外国、また地元の人たちが協力し合えたことが日本を発展させたと知り、驚きました。 


 今回、私は社会科見学で富岡製糸場に行きました。施設の中ではボランティアの方に案内していただきました。富岡製糸場で働く女性は厳しい環境で強制労働させられているイメージがありましたが、実際はそんなことはなく利益よりも人材育成を目標としていた素晴らしい場所であったことがわかりました。労働時間も今とあまり変わりませんでした。富岡製糸場を作ったポール・ブリュナさんの月給が当時の日本の大臣よりも高い金額だったことを知り、とても驚きました。お雇い外国人はとても良い待遇を受けていたのだなと感じました。他にも当時の裏話や世界遺産を維持するためにいらないものも壊せないこと、レンガの色が違うことの理由など自分たちだけでは絶対にわからなかったたくさんのことをボランティアの方に教えていただきました。教科書で勉強するだけなのと実際に見て学ぶのではやはり全然違うのだなと感じました。これからは教科書で見るだけでなく、色々なものを実際に自分の目で見たいと思いました。


今までの私にとって富岡製糸場のイメージは、世界遺産になった製糸工場というだけでした。しかし今回の社会科見学のおかげで、私は富岡製糸場の奥深い歴史を学ぶことができました。 私がまず1番驚いたのは、富岡製糸場はポール・ブリュナの力なくしてここまで発展することはなかったということです。ポール・ブリュナは製糸場の設立指導者として雇われたフランス人です。彼の当時のお給料は、当時の内閣総理大臣とほぼ同じでした。それだけ彼は日本に必要とされていたのです。当時、日本はまだ治外法権がなく諸外国に対して不利な立場でした。そのためブリュナの他に雇われた4人のフランス人は日本を馬鹿にしていたからか、無断欠勤を繰り返し、遂にクビになってしまいます。そして、母国フランスに帰るお金を明治政府に払わせました。このように日本を馬鹿にして辞めていったフランス人がいる中、ブリュナは富岡製糸場に尽力しました。 また、ブリュナは工女たちが技術を高めれば効率が上がり儲かると考えていたため、工女たちをとても大事にしていました。だから、作業時間は平均7時間45分で、製糸場内に病院があります。私は、工女といえば過重労働の印象が強かったのでとても驚きました。 また、私はその工女たちの強い意志にも驚かせられました。工女は15歳から25歳までの女の子で、1年から3年の間雇ってもらえます。北は北海道、南は沖縄から富岡製糸場までたくさんの女の子が歩いてやって来たそうです。なぜたくさんの距離を歩いてまでやって来るのかというと、それは村の代表として技術を自分の農村に持ち帰るためです。ですから女の子たちはとても真剣に働きました。そのため、富岡製糸場は日本で1番の生産量を誇りました。このように、富岡製糸場は学校的な役割も果たしており、最先端の技術を女の子たちに学ばせ地方を発展させることも富岡製糸場がつくられた目的でした。 富岡製糸場はとても工夫を凝らして建てられています。日本は湿気が多いので湿気対策として床が高くなっていたり、風を通すため窓がたくさんついています。さらに、コロニアル様式やトラス構造など当時の西洋の最新技術が取り入れられています。また、富岡製糸場は木骨煉瓦造りと呼ばれる西洋の建築方法でできていますが、屋根は日本瓦を使うなど日本と西洋の技術が融合してできているのも魅力の一つです。 富岡製糸場は、これまで富裕層しか手に入れることができなかった絹を一般大衆化させました。とても素晴らしいことだと思います。日本の産業遺産、富岡製糸場の魅力を学ぶことができて本当に良かったです。 


 僕は、この社会科見学に参加して、多くの学びがあり、とても楽しかったです。学んだことの中で、僕は富岡製糸場の技術の凄さについてとても印象に残りました。また、家族で一回来たことがありましたが、その時以上に多くのことを学ぶことが出来、富岡製糸場が世界遺産に選ばれたと納得できる素晴らしさを改めて実感しました。僕がすごいと思ったことは、建物の建築の構造です。例えば、窓には秘密が隠されていることがわかりました。東置繭所や西置繭所の白い窓は、繭のカビ防止で乾燥させるために設置されていたり、操糸所には越屋根があったり、生糸を作る際に使用するお湯の湯気の逃げ道になっています。他にも、建築方法は、西洋の技術を取り入れています。主な建物は、木骨煉瓦造という作りで、柱や梁などの骨組みを木材で、壁は煉瓦で作られていました。また、煉瓦は、長い面と短い面を交互に並べるフランス積みが用いられ、接着方法は、日本の昔ながらの漆喰を用いるといった、日本と西洋の組み合わせもありました。富岡製糸場の建築技術は、これだけではありませんが、これだけでも十分すごいと僕は思います。なぜなら、当時の最新の技術を用いていたからです。僕は、学ぶことが多かった富岡製糸場に来れて良かったと思います。これからも、富岡製糸場や他の世界遺産について調べたりしていきたいと思います。


 私はなぜ建物に窓が多いのか知ることが出来ました。理由は、蒸気を抜くためだそうです。それを越屋根と言います。また白塗りになっているのは湿気防止のためだからです。中にも柱が使われていないのは場所を広くとり大きな機械を入れさせるためでありその代わりに天井がトラス構造になっていて工夫されていることを知りました。いままで映像や写真でしか見てこなかったけれど実際に見ると大きくてレンガの作りも間近で見ると作りが良く見えました。女工館の屋根の裏の作りも複雑になっていることを直接見て確かめることが出来ました。実際に建物の中に入ってみて感じたことは何年か前はここに本当に人が働いて生糸が作られていたと考えるとすごく不思議に感じました。今まで教科書で見てきた長い機会が目の前にあって使い方も何もわかりませんでしたが感動しました。世界遺産を見たのは初めてでこんなに近くにあるのであればもっと沢山世界遺産を見てみたいと思いました。今まで見たことあるのは富岡製糸場と萩の反射炉だけですが自分は富士山に訪れてみたいです。


 私は、今日初めて富岡製糸場に行きました。 まず、最初に感じたのは、行く前は、富岡製糸場には工場しかないと思っていましたが、食堂や病院、宿舎などの施設が充実していて驚きました。 また、病院には外国人の医師が常に居て、しかも、工女達の病院代や食費は全て工場が支払うなど、手厚い待遇であったことがわかりました。 歴史の授業では、昔は女性に対して長時間労働をさせたり低賃金で働かせていた工場が数多くあったと学んでいましたが、富岡製糸場では、一切そんなことがなく、あくまで生糸の品質向上と技術の習得に力を入れていていたことを知り、政府がどれだけ力を注いでいたかがよくわかりました。 また、お雇外国人である、フランス人のポール・ブリュナの月給が750円と当時としてはとても高額だったことにも、政府の富岡製糸場への期待値が高かったことが分かります。 また、ガイドさんが止まれという標識がもう必要ないのにあるのは、史跡に登録された当時の状態を保たなくてはいけないため、そのままの状態にしているとおっしゃっているのを聞き、富岡製糸場の世界文化遺産としての凄さが表れていると思いました。また、富岡製糸場は100数十年前の建物であるのにも関わらず世界遺産に登録されているのは、それほど、富岡製糸場が昔の状態のままで大切に保存されていることがわかりました。 今回、実際に富岡製糸場に行ってみて、当時のままの状態の建物や機械、詳しい歴史を実際に見て学び、富岡製糸場の凄さを実感しました。 今後は、他の世界遺産についても、実際に行って学んでみたいと思いました。