1組 社会科見学に参加して |
小学校6年生の時の校外学習でも、国立歴史民俗博物館へ行きましたが、その時はまだ歴史についてあまり知らなかったので、わからないことがたくさんありまし
た
。一年間、受験勉強の中で歴史を学び、今回再び来てみると、あのときわからなかったその時代その時代の文化の変化や政治の変化に気づく
ことができました。 |
1組 社会科見学に参加して |
まずはじめに訪れたのは歴博でした。第三展示室では入り口に江戸図屏風があり、その大きさと美しさ、栄えた江戸の町に圧倒されました。いかに徳川家光の時代が華やかであったのかを垣間見ることができ、第三展示室へ入った瞬間にまるで江戸時代に入り込んだようでした。第三展示室で最も興味があったのは農業や学問の発展でした。私は将来東京大学で農学部に入り、動植物について学びたいと考えています。だから農業や顕微鏡の発明は興味をそそられました。農業は、足踏み式の水車などの道具が使われるようになり、四季農耕図屏風から、老若男女が協力して働き、人々の顔に笑みがこぼれていたことから、苦労しながらも仕事を楽しんでいるように思えました。また顕微鏡が発明され、小さな昆虫や、雪の結晶のスケッチがとても細かく、今の時代から見ても正確な図であることに驚きました。また医学も大きく発達したのは江戸時代でした。今まで写真でしか見たことがなかった解体人形の実物を見て、人間の体のつくりがほぼ正確になったことが見て取れました。これからの農業が江戸時代のように明るくなるような研究をしたいと思いました。 次は佐原と伊能忠敬記念館でした。佐原の町は、本当に絵やドラマで見たような江戸の町並みが広がり、本当に 感動しました。そんな街並みを歩いて記念館へ行きました。伊能忠敬がどのような人物だったのかをガイドさんの説明を聞きながら知ることができました。伊能忠敬は商才があり、20年で年収を三倍以上に増やしました。そして忠敬が50歳になったとき測量を学び、全国を測量し始めました。私は伊能図の大きさと正確さに改めて驚かされました。ガイドの方が教えてくださったことの中に、「伊能家の家訓」のことがありました。一つ目は正直になること、二つ目は目上の人だけでなく、目下の人も軽んじないこと、三つ目は人と争いをするなということでした。しかし、忠敬は意外にも争いが絶えなかったというエピソードを聞き、忠敬は自分の信念を曲げないからこそ日本地図を書くことができたのではないかと思いました。私は佐原の街を見ながら、伊能忠敬のように強い意志を持ち、夢を叶えようと思いました。今回の社会科見学は驚きと発見の連続で、先人から多くのことを学び、これからの自分の人生計画を具体化することができました。 |
2組 社会科見学に参加して |
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2組 社会科見学に参加して |
まず国立歴史民俗博物館では、いろいろな時代の文化や暮らし、民族文化などを学びました。人々の暮らしが、細かく、家の中の様子まで丁寧に作り込まれていた模型は、本物をそのまま小さくしたような感じがしました。来年度の紫峰祭では私たちも模型を作り、
見学者にそれぞれの時代のことをもっと理解してもらいたいと思います。 民族の展示で印象に残ったのは宇出律あばれ祭りの映像です。なぜ、あばれ祭りでは御輿を叩きつけたり、川に投げたりするのだろうと疑問に思いました。調べてみるとあばれ祭りでは、神様 は御輿が壊されれば壊されるほど喜ぶということで行っているそうです。私は映像を見て、実際にどんな雰囲気なのか直接見に行きたいと思います。 次に、佐原では江戸時代の町並みが再現されていました。江戸時代にタイムスリップしたような気分になりました。事前学習での映像で見た、じゃあじゃあ橋 の下を実際に水が流れている様子を自分の目で見るという貴重な体験をしました。まさに、知識が経験としてとらえられる瞬間でした。 伊能忠敬が約30年住んでいたとされる旧宅にも行きました。伊能忠敬がどのように生活していたのかを垣間見ることができたような気がします。その後、伊能忠敬記念館に
行きました。そこでは、伊能忠敬が日本地図を完成させるまでの様子や、実際に測量のために使用した器具も展示されており、伊能忠敬の偉大さに気づかされる場所でした。伊能忠敬は単に一言で片付けられるような人ではありません。日本人として必ず
詳しく知っておかなければならない人だと思います。彼が日本地図を作っていなかったら、しばらく日本地図というものができていなかったと言っても過言ではありません。そしてその地図の正確さには驚かされるばかりです。私たちは伊能忠敬という人を忘れてはいけません。日本地図を完成させようとしたこと、技術の正確さ、日本人としてのプライド、偉大な歴史は私たちの誇りです。 |
3組 社会科見学に参加して |
歴史民俗博物館では教科書で学んだだけで、イメージが曖昧だった
もののイメージがはっきりしました。私が印象的だったのは銅鐸です。銅鐸は祭りの時などに使うということは知っていましたが、
どんな音がするのかはわかりませんでした。実際鳴らしてみると、思った以上に高音で、鳴らし方も揺らして鳴らすことがわかりました。もう一つ印象的だったのが縄文時代や弥生時代の女性の身長が私よりも小さかったことです。
身長が高くない私ですが、昔の人から見れば普通くらいか少し大きいくらいということが分かりました。 伊能忠敬記念館では伊能忠敬がどれだけ素晴らしい人か改めて知ることができました。伊能忠敬は日本で初めて正確な地図を作ったことで有名ですが、他にも皆に尊敬されるような業績をたくさん残しました。たとえば伊能忠敬が家の商売を立て直したことと、天明の大飢饉では自ら稼いだお金で地域の人達を助けたことです。収入を増やすのは頭が良く、商売上手で、地域の人からの信頼があったからこ そできたことでしょう。人との信頼関係を築くのはそんなに簡単なことではありません。自分の稼いだお金を惜しまず、地域に貢献したからこそ可能だったのでしょう。そういう姿勢を見習いたいと思います。 佐原の街並みについては、昔と変わらない建物がたくさんありました。伊能忠敬の家や近くにある橋は少し手が加えられていましたが、それでも昔の面影を残しているそうです。あれほど多くの建物を残せたのは地域の人たちが協力して守ったからこそなのだそうです。伊能忠敬の家も火事で燃えそうになった時も、近所の人達が一生懸命消火活動をしてくれたおかげで奇跡的に無事だったそうです。地域の人の団結力や伊能忠敬に対する感謝の気持ちは本当に大きかったのだと感動しました。また、近く の橋では十八歩で歩くと伊能忠敬と同じ歩幅だよと言われ、実際歩いてみました。一回目は失敗してしままいましたが、二回目は成功しました。歩幅で測量する方法は、地図のずれもやはり発生してしまうので大変だったに違いありません。今回の社会科見学で学んだことを今後の学習に役立てたいと思います。 |
3組 社会科見学に参加して |
「国立歴史民俗博物館」で
は第一展示室から第六展示室の六つに分かれ、日本の歴史やその時代の人々の生活の様子が展示されていました。私が見学した第二展示室には、大きく精密に作られている模型が幾つかありました。その模型は家の中の家具まで
作られており、模型を見ているだけでその時代の人々の服装や暮らしを読み取ることができました。 伊能忠敬は日本地図を完成に導いた人で、その地図は大型のもので二百十四枚にもなります。測量は徒歩で行われたため決して簡単なものではありません。また、その測量をするための知識を身につけることも大変なことだと思います。伊能忠敬の、測量をするために一生懸命勉強する努力と歩いて地図を作ろうとする行動力、そして何年も測量し続ける忍耐力を見習 いたいと思いました。佐原の町では地域の人々が佐原の町を守っていくために自分の家の外観を町の風景に合わせたり、昔から続くお店を引き継 いだりすることで、協力し合っているということが分かりました。社会科見学を通じて、たくさんのことを学びました。それらのことを今後の学習や人生に役立てていきたいと思います。 |
4組 日本の文化と私の未来 |
小学生の時にも一度来たことがある国立歴史民俗博物館では、以前と同じようにワークシートを渡されてそれを埋めるという作業がありましたが、小学生の時は頭にあまり入りませんでした。しかし今回訪れてみると前回来た場所とはまるで
印象が違ったように感じました。前より細かい所に目が行き、時間が全然足りませんでした。これが「時間が経つと、物や話を違った視点で見ることができる。」ということなのかと思いながら見学しました。 伊能忠敬記念館では、ガイド役である90歳のお祖父さんにいろいろと説明して頂きました。その情報があまりに多いので、一生懸命聞いていてもメモが取り切れない程でした。途中にあったジャージャー橋(樋橋)の水が流れる所を見たり、忠敬と同じように、橋を18歩で歩いて測ってみたり、実際に行かないとできない体験を味わいました。伊能忠敬記念館では、彼がどれ程の強い気持ちで日本を測量したのか……。その思いがひしひしと伝わってくるようでした。生半可な気持ちでは挑むことすらできない日本測量を、自ら始めた伊能忠敬。どんなきっかけで始めたのかはわかりませんが、普通の人々の10倍や20倍もの努力を積み重ねてい たことが伝わってきました。 |
4組 社会科見学に参加して |
今回、一番印象に残ったことは「伝統」の大切さです。国立歴史民俗博物館では日本の文化について知ることができました。私の班は第四展示室を中心に見学しました。ここで感じたことは時代の流れによって文化はどんどん発展し、伝統として継承されていくということです。今の日本は多くの
ものが機械化されていますが、昔は何でも手作りで試行錯誤しながら生活していたという事実を改めて実感しました。伝統を継承することでより多くの人とつながることができます。そしてその伝統がより多くの人に愛されることになっていけば、そこには好循環が生まれるはずです。それを一番感じたのは宇出津あばれ祭りでした。この祭りは八坂神社の夏の祭礼で、名前通りにあばれて神輿を川に投げるのが特徴です。祭りが今なお続いている秘訣は、伝統の大切さを人々がよく理解していることにあるのではないかと思いました。 伊能忠敬と佐原についての見学では佐原という街に伝統を感じました。四組の案内をしてくださった方は「佐原は伝統があり、多くの宝物がある素晴らしい 街です。」と元気よくおっしゃっていました。 佐原は重要無形文化財や日本の音風景百選になっていますが、それは多くの人々に支えられているからです。実際に行ってみて、佐原も江戸のように栄えていたのだろうなと感じました。また佐原の 街の人々についてもう一つ感じたことは、伊能忠敬をとても尊敬し 、誇りに思っていることです。百選に選ばれた樋橋の長さを測ったというエピソードや忠敬の家、記念館は、佐原の街や人々とと深く結びついています。これはとてもすばらしいことです。最後に、伊能忠敬から学んだことは、大きな夢に向かって小さな努力を積み上げることの大切さです。忠敬は小さい頃から星が好きで、地球の大きさを測りたいという偉大な夢を持っていました。そのような夢をかなえることができたのは、毎日のように星を丁寧に計測して地道に努力した結果 です。校長先生の伊能忠敬の講話でも感銘を受けましたが、実際に目の当たりにし、さらにそう思いました。今回私が忠敬から学んだ、あきらめずに努力するという姿勢を見習 い、私も将来なりたい自分になれるように一生懸命勉強をしようと思いました。 |
5組 社会科見学に参加して |
佐原市は古く美しい街並みのある市で歴史的な建物が多くあります。その
中でも私は東京駅によく似たとてもきれいな建物に興味を持ち、調べてみると三菱銀行佐原支店旧本館でした。私の身の回りには、そういった建物があまりないと思っていましたが、母に聞いてみると
よく知らないだけで歴史的な建物はいくつかあるとのことです。今後、休みを利用して自分の住んでいる場所の歴史的建造物や美術館などをめぐることで地域理解を深めたいと思います。 |
5組 社会科見学に参加して |
社会科見学を通して感じたことは、地元の人々の多くが、自分達の住んでいる街に誇りを持ち、街の素晴らしさを、次の世代へ
伝えていこうとしていることです。そして古くからの伝統、文化が廃れないようにしたいと心から思っていることです。佐原の街は小野川の舟運を軸として発展した商都であり、交易都市でした。これは地図を見てもわかります。利根川や小野川
以外にも水路がたくさん張り巡らされていて、商家の前には舟を留められる場所もあります。重要伝統的建造物群保存地区では、県指定文化財が八件もあるそうです。これは、街の人々が伝統的な歴史のある佐原の街並みを守り続けてきたからです。その一人であるガイドのおじ
いさんは、自分の街をとても誇りに思っていて、私達にとても熱心に佐原や伊能忠敬について教えてくださいました。そして、佐原は「江戸にない江戸」であるということを何度もおっしゃいました。「江戸にない江戸」というのは、「佐原は江戸と変わらないほど栄えていた街である」ということです。ガイドのおじ
いさんは今年で九十歳だとおっしゃっていました。伊能忠敬は
九十歳まで生きました。このガイドおじいさんは、「自分の地元の素晴らしい歴史上の人物と、同じくらい長く生きたい
」と思ってこれまで生きてきたとおっしゃっていました。私はガイドのおじいさんのように目標を持って、その目標を達成できるように努力していく人になりたいです。 私の夢は、書道教室の先生です。書道は、大昔、中国から伝わり、今も受け継がれている文化です。近年では、他の海外の人々にも親しまれています。書道といえば弘法大師、つまり空海です。弘法大師は、嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられています。弘法大師はもっと日本に仏教を広めないといけないと思い、苦労して唐に渡り、仏教をより深く学びました。これは日本の地図を作りたいと思い、高橋至時先生に天文暦学の勉強を教わった伊能忠敬に似ています。私も弘法大師や伊能忠敬のように努力して夢を実現させたいと思います。書道は古くからの日本の伝統です。私は これからの若い世代にも気軽に、身近に、書道に親しみを持ってもらいたいと思っています。自分の気持ちが伝わるよう、「半紙に墨で字を書 く」ことの素晴らしさを次の世代へと伝えていきたいと思いました。 |
6組 佐原と伊能忠敬 |
小野川を渡る忠敬橋付近は、まるで過去へタイムスリップしたようでした。京都や奈良のような古都ではなく、こんな身近に国指定重要文化財があることをはじめて知りました。その中でも三菱館がモダンですばらしく、印象的でした。建築は大正三年、今から100年以上も前です。この茶色のレンガの美しい建物は、古くささは感じません。三菱館は東京駅が作られた数年後に建築されたため、雰囲気が似ているのだそうです。私のイメージする明治・大正時代は木造平屋建ての、どこか
暗い感じの家屋がまばらに点在するといったものだったので、この三菱館は意外でした。人々は着物姿で、電気も普及し始めたばかりの生活だったはずなのに、こんなにも西洋技術を取り入れた、時代の最先端をいくようなビルが建築されたことは実に驚きでした。その他の千葉県有形文化財に指定されている建物は黒い瓦の木造建築でした。けれども想像していたような古びた貧弱なものではありませんでした。どれも重厚感があり、普段見かける日本家屋とはまったく異なります。それぞれ細部にまで「日本人らしい」趣向が凝らされ、日本にもすばらしい技術や文化があったことを実感しました。 伊能忠敬記念館でもやはり日本人らしい地道さと正確さを見ることができました。千葉県出身の大きな商家の当主でもあった伊能忠敬は商才をふるっただけでなく、天文暦学を学び続け、49歳で江戸へ上京、55歳を過ぎてから「伊能図」を完成させようと全国測量を開始します。何歳になっても夢を追い続け、努力を惜しまなかったその姿はまさに尊敬に値します。残念なことに「大日本治海輿地全図」の完成を待たずに亡くなってしまいましたが、その後、遺志を継いだ弟子達が見事に完成させました。その地図は実際に見てみると、正確であるというだけでなく、何より実に美しいものでした。数多くの測量器具も展示されていましたが、それらを使ってこの美しく繊細な地図を完成させた伊能忠敬やその弟子達に改めて大きな感銘を受けました。 |
6組 社会科見学に参加して |
今までは、伊能忠敬という名を聞いても日本地図を作った人としか認識していませんでした。その日本地図を実際に見て、現在使われている地図とあまり違いがな
いことがわかりました。伊能忠敬は若い頃から地図の勉強をしていたと思っていましたが、初めは暦の研究をしていたそうです。その時、江戸で教わっていた先生
は忠敬よりもずっと年下だったそうです。年下の言うことを無視する人は今でもいるのに、年下の人に
謙虚に学ぶその姿勢はすばらしいと思いました。 私は国立歴史民俗博物館で、第4展示室を見学しました。そこには興味深いものがたくさんありました。昔から妖怪はいると 信じられていて、河童の手の化石や、ミイラなどが展示されていました。また、「間引き」ということを知りました。貧しい家庭に生まれた子や親の厄年に生まれ た子は捨ててしまうことを「間引き」といいますが、間引きのことを「返す」「戻す」などといって、それをはばかる心情は薄かったようです。親の厄年だから子供を捨てるというの は、誰かに拾ってもらうことで厄から逃れられると信じられていたそうです。今まで写真でしか見たことがないこと、知識としてただ知っているだけだったことを実際に見ることができ、より知識 が正確になりました。 |
7組 社会科見学に参加して |
社会科見学で一番印象に残ったのは佐原の町並みです。実際に行ってみて、地域の人たちの佐原の町を大切に思う気持ちがよく伝わりました。未だに明治時代や大正時代に建築されたものが残っており、それを守って次世代に伝えていこうとすることはすばらしいことだと思います。散策した時は、自分が江戸時代や明治時代にタイムスリップしたような気持ちでした。伊能忠敬の旧宅
では伊能忠敬がすぐそこにいるような感じがしました。「伊能忠敬はここに座ったのかな。ここを歩いたのかな。」など想像すると、ワクワクした気分になりました。伊能忠敬の住居を見学できるなんて、今、とても貴重な経験をしているのだなと実感しました。
また佐原の町は川によって発達したこと、川はとても大切な交通手段であったことをガイドさんから教えていただきました。 佐原には数々の有形文化財に選ばれている建造物や、国指定史跡である伊能忠敬の旧宅、そしてジャージャー橋と呼ばれて親しまれ
ている、「残しておきたい日本の音風景100選」に選ばれた樋橋など、たくさん大切なものが残っています。私は佐原がとても好きになりました。私たちは佐原の町並みを守
らなければなりません。
国立歴史民俗博物館では、平安時代が好きな私は第二展示室を見学しました。受験の時に何の興味も持たずに暗記していた事柄や名前の奥に、多くの意味があったことを知りましした。十二単は十二枚布を重ねているわけではないことも初めて知り、自分がただ単語を知っているだけの人間だったような感じがしてすこし恥ずかしくなりました。何の関係もないと思っていた出来事と出来事 、人と人とが、実は関係があるのだと分かったりすることがあります。「知る」ということは、自分を大きく変えてくれる、成長させてくれることだと思いました。短い時間でしたが、たいへん内容の濃い1日となりました。佐原にも博物館にも、今度は家族と一緒に行きたいと思いました。 |
7組 社会科見学に参加して
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社会科見学に参加するにあたって、事前学習ワークシートに佐原の町並みや伊能忠敬について調べたことを記入しましたが、実際に行ってみると予想以上に新しい発見をすることができました。
佐原の町並みの中心には水路があり、「佐原は水運で栄えてた都市」であることを自分の目で確かめることができました。また、佐原の建物には格子戸が付いている昔風のものが多くあり、とても風情がありました。伊能忠敬の旧宅に行き、家の中の様子を見ることができました。 次に伊能忠敬記念館に行きました。ここで伊能忠敬の家は「米と酒を造っていた」商家だったということを初めて知りました。忠敬の家には酒蔵が三つあり、その商売にも情熱を傾けていたのだと感じました。その甲斐あっ て20年で収入を4倍近く増やしたということを知り、「商売上手な 伊能忠敬」という側面も知ることができました。地図作りに使った道具についてガイドさんから説明していただき、昔も距離や方位や角度を正確に測ることができたことがわかりました。地図作りの裏側では、「地球の大きさを測る」という地図作りと同じくらいの壮大な計画を進めていたということも知りました。この計画は「世界の暦がずれているのはなぜ か。」という疑問から始まっ たものだそうです。 最歴史民俗博物館では第六展示室の「現代」に行きました。戦時中の様子の展示では、兵役が義務化されていたという資料を見て、「家族の方は、とても悲しかっただろうな」と思い 、悲しい気持ちになりました。太平洋戦争中の様子を映像で見ましたが、どれも胸が痛んで、特に海戦の映像では、爆破されていく戦艦の乗組員が次々と命を落としていく様子が想像され、胸が詰まる思いでした。「こんなにアメリカに攻撃されているけれど、いったいどれくらいの軍事力の差があったのだろう。」という疑問が以前からありましたが、調べてみると、開戦時、アメリカの軍艦は日本の1.5倍 くらいであったのが、終戦時には5倍近くにまで差が開いてしまったということでした。この事実から、僕は「開戦当初はよい情勢だったので、戦争に突き進んでしま ったが、勝利する確信があったために、敗戦色が濃厚になっても、後戻りをしてはならないような空気ができあがってしまったのではないか。」と思いました。 |
8組 社会科見学に参加して |
社会科見学では特に佐原の街並みが印象に残り、興味を持ちました。伊能忠敬記念館に行く途中、「東京バンドワゴン」という看板のかかったお店のような建物があり、気になったので家に帰って調べてみたところ、2013年に放送されていた「東京バンドワゴン」というテレビドラマのロケーションに使われた場所でした。それは歴史を感じさせる外観で、その建物が佐原の街並みから浮くことなく、佐原は街ごとタイムスリップしてしまったような面白い感覚を私に与えました。
佐原は伊能忠敬を尊敬し、大切にしている街です。橋の欄干の端の部分には測量をする際に使用する道具の一つで、星の南中高度を測るための道具でもある「象限儀」がデザインされていました。どの建物も格子戸になっていましたが、その理由は「佐原では道路に面している見物の部分は景観を守るために日本家屋風にしている
」とガイドさんからうかがいました。昔の人が作った街並みを守るために、後から入ってきた新しい住人も協力しているからこそ、美しい
景観が保たれていると思うと佐原の町の面白さがぐっと増したような気がします。 |
8組 社会科見学に参加して |
歴史民俗博物館、伊能忠敬記念館、佐原の街歩きで様々なことを学びました。歴史民俗博物館では教科書で習った歴史の実物やその他の関連事項などを実際に確かめることができました。銅鐸の大きさやその音色、古墳の内部の様子、土器の模様や形も近くで見ることができました。重点的に見学した「現代」では
、ただ重いということしか知らなかった鉄砲を実際に持ってみて、当時の兵士の大変さがわかりました。また、兵士の食事の量が
意外に多く、豪華に思えました。千人針には銃弾が当たらないようにという祈りが込められていることは知っていましたが、今回はじめて実物を見ることができました。千人針には五銭玉、十銭玉を縫い付けられていて死線(四銭)、苦戦(九銭)を越えろという意味が込められてい
たそうです。他にも戦時中に物資が不足している時の陶器でつくられた一銭玉がありました。僕は戦時中にできた一銭玉を二種類持っています。そのうち後にできたものは前にできたものよりも金属の質が悪く、大きさも小さめです。これらができた年は一年しか違いません。ものが急速に足りなくなり始めたから質が落ちたのです。今回見たお金はそれよりもっと物が足りなくなって材料が金属ですらなくなった時代のものでした。 伊能忠敬記念館では伊能忠敬の偉大さが分かりました。ガイドさんの話では忠敬は55歳から17年間歩き続け、その間に当時の平均寿命を越えたそうです。ただでさえ日本全国歩くのは並大抵なことではありません。そこに忠敬が地図作りかけた情熱が感じられました。本当の目的は地球の正確な大きさを知ることであるにも関わらず、蝦夷に行く名目の地図作りに時間を費やしたところには彼の執念を感じました。ガイドさんは地図の中にある黒い線のように連なっているものは全部村の名前だと説明してくださいました。海岸線も少しずつの直線で描いてありました。そのことから少しずつコツコツと地図を作っていたことが伝わってきました。 佐原は聞いた通り、昔の町の面影が残っている町でした。中心を流れる川には今も舟つき場が残され、その川に沿って昔ながらの家が立ち並び、風情がありました。また、消火栓が木箱の中に入っていたり、クリーニング店の看板が木でできていたりして、違和感を抱かせないように工夫されているものもあり、景観に配慮していることがわかりました。僕は社会科見学に参加してまだまだ見たりないと感じています。特に歴史民俗博物館ではもう少し時間をかけて見たい展示がたくさんあ りました。近いうちに友達ともう一度歴史民俗博物館や佐原の町に行くつもりです。 |