常光徹先生講演会の感想

1組

 私が通っていた小学校では、小学校の森の入口にある卒業生たちの名前が彫られた石板のどこそこを押して、石板のそばにある木とその支え棒の間の狭い隙間をくぐりぬけると、その森はただの森から「トトロの森」に変わって、トトロが見えるようになるという話がありました。私が入学するかなり前からあったのですが、今でもその「トトロの森」の話は残っているようです。常光先生のお話を伺って、このような小規模な地域で起こっているようなことが、日本のさまざまな地域、また世界各地で、伝統・習慣という形で古くから語り継がれ現存していることから、人間の文化のつながりの壮大さを感じました。霊柩車と親指のお話、くしゃみのお話、ものもらいのお話、伝承などについて無知だった私には、先生のお話は全部が新鮮に感じられました。昔の人々には現代の人々とはまた違った世界観があり、その中で長い間生活を営んで来たのだということを知り、ずっと昔から日本で行われてきたことはとても神秘的だなと思いました。
 日本の伝統は私が知らないだけで、恐らくもっとたくさんあるのだと思います。その一つ一つに何らかの考えや意味があって為されたものであるから、調べてみればきっと非常に面白いと思います。また一つ新しいことに興味をもちました。学校の怪談にも興味があるので、先生の著書を読んでみたいと思います。

 常光徹先生の講演を聞いて大変勉強になりました。また、お話を聞くことで自分の住んでいる土地について考える機会になりました。
 旅客機が発達し、ネットワークが充実し、ありとあらゆる分野で世界との結びつきが強くなっています。成功をおさめるためには世界中で活躍する必要があるため、英語が話せる、海外の暮らし、マナーを理解できるよう皆が努力しています。日本全体でのグローバル化が叫ばれている今、常光先生のおっしゃる当たり前の日常に存在する日本独特の考え方を大切にすることはとても新鮮に感じられました。これまで自分は、日本文化といえば、寺、舞子さん、歌舞伎など、普段なかなか見ることの出来ない高級なものというイメージがありました。日本食といえども回転寿司から日本の奥ゆかしい文化を感じることは難しく、それを感じることの出来る寿司屋は決して安いわけではないからです。ですから霊柩車などの話を聞くことで、日本の奥ゆかしい文化または考え方が実はいろいろなところにあり、自分が見逃しているだけであることに気づかされ、大変勉強になりました。
 自分の住んでいる土地には沼があり、その沼にまつわる話を小・中学校のとき聞いたことを思い出します。確かにその話には、日本の奥ゆかしい文化が表れていました。その沼にまつわる話が今も多くの公立学校に話されていることを聞くと、このようにして日本の古きよき伝統が語りつがれていくのだなと感じます。自分の育った土地に誇りを持てます。
 グローバル化がさけばれているなか、常光徹先生の話をお聞きすることで、日本の文化に立ち直り、日本人として高い精神性を学ぶことが出来ました。

2組

 私は今回の常光徹先生の講演をお聞きし、おそらく生まれて初めて日本人の民俗性について知りました。今までこの民俗性について意識してこなかったのは、民俗性というものが抽象的でかつ潜在的なものだと考えていたからだと思います。
 常光徹先生の講話の中で最も印象強く残ったのは「おまじない」についてです。どうしてこのテーマかというと、私自身が「どうしてそのようなことをするのだろう」と不思議に思っていたからです。また、おまじないから連想して、所謂「おばあちゃんの知恵袋」が思いつきましたおばあちゃんのは「身近にあるものを用いて問題に対処する」というものですが、例えば「風邪を引いたら首に葱を巻く」や江戸時代まで遡れば「傷口に酒を吹き付ける」などといったものがあります。このような行動が生まれた時代の日本にはまだ科学の概念はほとんどなかったにも関わらず、これらの行動は科学の理論にかなっているのです。これを思い出し、私は日本人のポテンシャル、すなわち民俗性の高さを感じました。
 民俗学は文献ではなく口伝えの民族の伝統文化・伝承文化を研究することでその民族の歴史を解明していく学問です。これには宗教概念、つまり非科学的なものが絡んできますが、それを科学的に解明するという面白さを感じることができました。常光徹先生、御講話有難うございます。

 今回僕は常光徹先生の講演会を聞いて今まで馴染みのなかった「民俗学」への理解を深めることができました。僕は今、理系の勉強をしていて文系の学問についての知識はほとんどわかっていませんでした。またきっと難しい学問なのだろうとも考えていました。しかし。講演会に参加して民俗学はとてもわかりやすく、また興味のある学問だと感じ、小学校の頃に図書館で熱心に読んでいた内容であるとも感じました。
 そこで今回特に興味を持ったのは「くしゃみ」という言葉の起源です。考えてみると日本語には多くの言葉があり、また今までに何千回も言っていたにもかかあらず「なぜくしゃみと言うのか」と言葉の起源については深くは考えたことがありませんでした。しかしくしゃみをする時の声にちなんでつけたのだろうなどと考えてみたり、実際は僕が全く予想していなかった意味を知ったりするうちに、とても面白いと感じ、また一つの言葉に深い意味があることに感心してしまいました。そして何よりも他の数えきれないほどの単語の深い意味を考えることが「民俗学」だと実感した時に、この学問の世界はとても広いものだとわかりました。
 また、人の何気ない仕草に呪術的な意味があるということにも興味がわきました。僕は今回の講演会に参加するまで「親指を隠す」という動作は知りませんでした。そしてその小さな動作に呪術的な意味があるとは思ってもいませんでした。さらに考えてみると、この動作は親指と両親の両方に同じ「親」という単語が使われている日本だからこそあるもので、僕はこの小さな動作も日本の伝統だと感じました。しかし、僕がこのことを知らなかったように、日本の伝統は失われつつあります。そしてこれからもグローバル化のもとで日本の伝統がどんどん失われていくと感じています。僕は日本の伝統を守りたいと思った時、まずはじめに思いつくことは、和を大事にするなどあまり身近ではないことです。しかし口承文芸であれば誰もが興味のある伝統文学を一人一人の力で守ることができます。だから自分自身も日本の伝統を子どもの頃、大人に伝えられた物語を、次の世代に伝えていきたいです。
 このように常光徹先生の講演会に参加して口承文芸や民俗学に興味を持ち、そして日本人として今まで語り継がれてきた文芸をこれからも伝えていかなければならないという自覚がわきました。そして当たり前の日常の中に伝統を見つけることは普段の学びの姿勢に通じるものであるとも実感することができました。だから日本の伝統を探し、伝えていくことで日本人としての高い精神性を感じ、心豊かな日本人に成長できるように心がけていきたいです。

3組

 僕も幼い頃に親や祖母から言い伝えをいくつか教えられたことがあります。「夜に口笛を吹くと泥棒が入る」や「黒猫が目の前を横切ると不吉な事が起こる」などがあります。真実かどうかは定かではないのに、なぜか人々はこういう言い伝えを信じる傾向にあると思います。これはあくまで僕の考えですが、人間というのはあまり正確とは判断できないような事象であっても、周りの人々が言ったことを信じやすい傾向にあるのではないでしょうか。これは心理学に似ているところがあるのではないか、と考えました。常光先生の講話の中にあった「霊柩車を見たら、親指を隠せ」という言い伝えを僕は初めて知りました。ただし、やはり言い伝えであるだけに同じような内容のものがいくつもあるようです。地域によって異なっていたりすることがあるということがわかりました。そのようなことがわかってくると、ただの言い伝えだと今まで思っていたものに歴史的背景や民族の伝統のようなものが関わっているのではないかという疑問が湧いてきました。つまり、普段何気なく過ごしている日々の生活でも、小さなことに目を向けることで好奇心や探求心で満ちあふれたものになるような気がします。今回は伝承文学や説話といった普段あまり気に留めないものに触れることができてよかったと思います。

 今回の講演会のテーマは、「伝承学」ということで私達にはあまりなじみのない学問でしたが、講演をいざ聞いてみると、私たちの身の周りに当たり前にある伝承や言い伝えの語源を今回の講演者である常光徹先生の専門分野である「民俗学」の視点から解きほぐしていこうというものでした。例には「くしゃみ」や「ものもらい」などが挙げられてました。そしてそれらから見えてきた共通の言葉というのが「おまじない」というものでした。今のような医療技術や科学技術が無かった時代では、理解できないことが起きた時に「おまじない」は人々を安心させ、精神面での安定を図ることができたのではないかなと思います。なので最初に出た例は昔の人の生きる為の知恵が詰まっていることになります。
 私は今日の話を聞いて、日々の当たり前の現象を新しい視点で見るということの興味深さを感じました。確かに人の名前に意味があるように、身の周りの現象にも必ず理由があるのだということを改めて気づかされました。料理をするのを化学的な視野で見ると、塩とこしょうの入れる順番によって野菜などへの味の染みこみ方が違うと言われているのを聞いたことがあります。なので、私達は自分の興味のない専門外な知識でも、取り入れることによって自分の専門分野の役に思わぬところで立つかもしれません。大学生になるとそういった専門的なことを学んでいくと思います。そのときにその分野だけの狭い視野ではなく、広い視野で見られるように意識して研究などを進めていきたいと思います。

4組

 今回の常光徹先生の講演会は、高校三年生に上がってはじめての講演会でした。高校三年生として、受験勉強というものに向き合わなければいけなくなったこの時期だからこそ、今までの講演会とはまた違った感じ方や、学べるものがあるのではないかと考えながら、お話を聞いていました。
 常光徹先生のお話は、伝承学、民俗学についてのものでしたが、例にあげられた、霊柩車を見たら親指を隠すという話しなど、一度は聞いたことのあるものばかりでした。
 そのような、誰にでも一度は聞いたことがある話が存在しているという事実が、私にはとてもすごいことに感じました。今の時代は、インターネットなど、情報を伝える媒体やメディアは数多く存在します。しかし、そのような情報の伝達手段が存在していなかった頃の習慣やしきたりも、今に受け継がれているということを考えると、自然と、今まで意識もしていなかった、昔の習慣やしきたりなどを伝承してきた人々の存在というものが、意識されるようになりました。
 あるひとつの事柄について「どうしてこのような習慣が生まれたのか」、「どうしてこのように呼ばれるようになったのか」などという議論に対する答えがひとつではなく、様々な視点、角度から、違った返答が返ってくることは、たくさんあります。今回はくしゃみの由来の話しがまさにそれでしたが、このようにたくさんの答えが生まれてしまうのは、ある物事が伝承されていく経路や、時代背景などによって、その時代や、土地の人々の暮らしや価値観によってその理由付けが行われると同時に、時代とともに人々の合理的な解釈が付け加えられていくからです。
 伝承学というテーマについてのお話ではありましたが、人と人との関係、時代の移り変わりとともに変化していく人々の価値観があるということなど、自分の生きてきた時間の経過だけでなく、もっと大きなものの見方を学ぶことができました。
 私たちは今、世界で活躍できるような人材になるために、勉強に励んだり、道徳というものを学んだりしてきました。
 しかし、本当の意味で国際社会に出て活躍する人材にとって、日本の文化や伝統、今まで伝承されてきた様々なものに関心を持ち、日本人としてのアイデンティティーについて考えるということは、とても大切なことです。
 そのためには、当たり前の日常だと思っている、先代の人々によって伝えられてきたたくさんの物事に目を凝らし、その物事に疑問を抱いてみることが必要になってくると思います。
 そのような姿勢は、勉強にも活かしていけるのではないかと思いました。

 今回の講演会は民俗学を研究されている、常光徹先生のお話でした。民俗学という言葉に私は馴染みが少なく、「漢民族やオーストラリアのアボリジニ」などについての話かと想像していましたが、実際は「伝承学」ということで、私達の身近に多く残っている、風習やおまじないの真意に迫るもので、とても興味深く、身近なものを自分の専門的な分野からの視点で見ていて面白い話でした。
 風習の例として「くしゃみ」「親指隠し」「ものもらい」などがありました。この三つに共通しているものは、その語源が誕生する経緯には「おまじない」というものが関わっていることだと思います。昔は今のように技術が進んでいなかったので、わからない現象が起きてしまうと、まずそのことに何とかして「名前」を付け、そしてこじつけでもいいので何かしらの解決方法を生み出す。このことが「おまじない」の生まれる過程なのではないでしょうか。例えば、昔、日照りが続き作物が枯れてしまう。そこで「雨乞い」という「おまじない」をしていました。実際には雨乞いをしたから雨が降るのではなく。雨が仏日まで雨乞いを続けたので結果的に雨乞いのおかげで雨が降ったように見えることもあったようです。しかし、そこには何にもしないよりはしている方がはるかに精神面では楽になっているに違いありません。なので、疫病などの得体のしれないものにおまじないを使ったのは現在からみると胡散臭く感じてしまうかもしれませんが、それは当時の人を確実に支えていたことがわかりました。現象には必ず理由があるように、言葉にも、その言葉が使われた意味や経緯が存在していることを改めて痛感させられました。私が小学生くらいの頃、小学校の先生に「夜につめを切るとヘビが出る」ということを聞いたことがあります。その当時は意味がわからず、ただ単に夜につめは切らないでいました。今になって思うと、あの言葉は昔は夜は本当に暗く、明かりも油に灯した小さな光しかなかったりで、夜中につめを切ることは危険だということを伝えるための言回しが現代まで語り継がれているのだと思いました。
 私達は大学に進学し、今よりも一層専門的なことを学ぶことになります。大学と一口に言ってもいろいろな学部や学科があり、それのどれかを選択して私達は進学するからです。その時にぜひ、今日の常光徹先生のように自分の持つ専門知識を使って物事の新しい解釈を見つけていきたいと思います。そのために日頃から日常に対して常に問題意識を持ち生活することと、幅広い知識が必要となると思います。その為にはまずは学校の授業を大切に聞くべきではないでしょうか。特に皆が軽視しがちな主要科目以外の教科をです。今回学んだ日常の意識を学習に対しても同様に持ち、日々精進していきたいと思います。

5組

 今回は「学校の怪談」の著者である常光徹先生の講話ということで、とても楽しみにしていました。この本は小学校の図書室に置かれていて、当時小学生だった私もよく読んでいました。
 民俗学というと随分昔からあるという印象がありましたが、意外にも戦後になってから発展し、筑波大学で盛んに研究がなされていることに驚きました。小学生の頃は怪談を読んで面白いなと感じただけでしたが、高校生になった今この講演を聞くと、とても奥の深い学問の一つなのだと感じました。
 昔は民俗学が発達していなかったために、病は魑魅魍魎によってもたらされるものとされ、その考え方から様々な言い伝えが伝承されてきたそうです。特に面白いと思ったことは、江戸時代のくしゃみの呼び方、くさめの由来の一説についてです。実は「くそはめ」つまり糞食らえとののしっているんだという説です。くしゃみをするとそこから魂が抜けて魑魅魍魎にとりつかれて病気にかかってしまうという現代に生きる私たちには面白いと思うだけですが、当時の人々にとっては大事な病気の予防法の一つであったという話がありました。
 日本人でありながら意外と知らない昔からの伝承を通じて、日本の素晴らしさを改めて実感することが出来ました。

 〈民俗学〉はなじみのないジャンルでしたが、講演会のパンフレットを開き、常光先生のプロフィールに目を通した際に、著作の『学校の怪談』が目に留まりました。『学校の怪談』といえば小学校の図書館には必ずといってもいいほど置いてある本であり、小学生の時に自分も夢中になって読んだ記憶があります。ですから講演会では、先生から自分にプラスになる何かをぜひ学び取りたいと考えていました。
 先生は〈民俗学〉を通して身近な日常の中にも新鮮なテーマがあることを学んだことで、当たり前の日常の中に目を凝らし、そこからテーマを掬い上げていく姿勢を忘れてはならないとおっしゃっています。それは、私たちの普段の学びの姿勢にも通じるものであり、改めて日々の努力の積み重ねの大切さに気づくきっかけにもなりました。
 現在自分は進路に悩んでいますが、常光先生の言葉を常に意識することが、新しい自分を発見するきっかけになると思います。そして、関心の輪をつぎつぎに広げていくことで自分の将来のビジョンが明確になり、夢の実現にも繋がるのではないかと思います。

6組

 コンビニのおにぎりはなぜ三角形なのか。もしそう尋ねられたら、私は持ちやすいからと答えます。講話の中で、常光先生は私たちにこの質問をされました。おにぎりは三角形でなくてもかまいません。しかしコンビニのおにぎりはたいてい三角形です。このような当たり前のことに常光先生は関心を持っていらっしゃいます。
 今回の講話の中ではくしゃみの語源と霊柩車が通るのを見たら親指を隠すという言い伝えについてのお話を主にお聞きしました。くしゃみの語源など今まで一度も考えたことはありませんでした。霊柩車が通るのを見たら親指を隠すというものも聞いたことはありませんでしたが、なぜそのように言われるようになったのかはまったく知りません。常光先生によるとどちらも古くまでさかのぼると答が分かるようです。当たり前に思っていたことについて考えることは一見何の意味があるのかと思えることかもしれませんが、それがきっかけで新しい発見ができるというのはよく言われることです。当たり前に慣れすぎて変化のない日常にならないためにも、身近なことを改めて考えることは本当に大切だと思います。
 常光先生の講話で、先生は当たり前のことを考えることを大切にしていらっしゃっていると分かりました。私の身の周りにも当たり前のことはたくさんあります。それらのことを改めて考えるきっかけを、今回の講話では手に入れることができました。

 自分のすぐ近くにある文化や伝統を改めて見つめることによって、自分が日々当たり前だと思っていることからテーマを広げていくことが重要だということはよく自分も言われてきました。日本の文化や伝承が長い時間をかけて変わり、現代の迷信などにつながっていることを考えてみると案外おもしろいということがよくわかりました。
 学校の怪談などにおいても、昔日本で言い伝えられてきたことが変わったものが少なくありません。
 日本人として、最低限の日本の文化などを知っておくことが、結局はグローバル化にもつながることは容易にわかります。
 自分も、今回の講演をお聴きして、少し伝承や文化の変改について知ろうとも思いました。それは、決して知識人になりたいとかの目的ではなく、日本人として恥ずかしくないようにするためです。
 そもそも、このような伝承を伝えはじめた過去の日本人は、いったいどういう意思ではじめたのかということが気になります。そのようなことを考えはじめると、日本人としての根本がどのようであるのかが、だんだんとわかってくるような気がします。今は単なる趣味としてでも日本の伝承、文化について集めたり、調べたりしてみようと思いました。

7組

 「民俗学」。それが今回講演をしてくださった常光徹先生の専攻していらっしゃる学問の名前です。民俗学の定義を自分で調べてみたところ、「高度に発達した文明下において、自国の歴史を民間伝承を主な資料として再構築する学問」とのことです。正直なところ、先生の講演をお聞きするまでは、そのような分野に関する知識がありませんでした。
 しかし、先生の、十代の私たちの目線に合ったお話は、私たちの好奇心をくすぐり、講演後に、俄然興味が湧いてきました。
 先生の「くしゃみ」のお話は、個人的に興味が湧いたので、帰宅後に本やネットを使って調べ直してみました。日本での由来や起源は議論百出といった有様ですが、最も有力なのは、常光先生がおっしゃっていた説のようです。
 また、国ごとに違いがあり、フランスでは、くしゃみをすると、「希望が叶いますように」と言い、オランダでは、くしゃみを3回すると晴れるという言い伝えから、「明日は良い天気だね」と言うそうです。これ以上、「くしゃみ」について書くことはしませんが、「くしゃみ」一つについて調べただけでも、膨大な量の情報がありました。
 私が今回の講演で学んだのは、自国の文化の重要性についてです。自国の文化を知ることは、外国文化への興味に繋がります。グローバル化が進む現代では、語学力は勿論ですが、まず相手への興味を持つことが大切なのだと思います。

 はじめ伝承学という言葉を耳にしたとき、これは何なのかという思いと同時に、受け継がれるものであるのか、とも思いました。私の予想は大きく外れたものではありませんでした。むしろ正解に近かったのです。
 先生が研究なさっている「民俗学」と同じ「民族学」がありました。私が普段歴史の授業で使うみんぞくは「民族」ですが、現代文で「民俗的な」という表現を見たことがありました。前者の「民俗学」は1つの民俗の伝統的な生活文化・伝承文化を研究対象とし、文献以外の伝承を有力な手がかりとする学問であり、後者の「民族学」は民族文化の特質を他文化との比較によって研究する学問です。これらの違いは正直この度初めて知りました。
 お話を聴いていると、「くしゃみ」についておっしゃっていました。普段何気なくするくしゃみに、こんなにも奥深い話があるとは思いませんでした。また、霊柩車を見たら親指を隠すことは知っていました。その理由は親が早死にするからとは聞いたことがありましたが、自分自身に災いが降ってくるためや親の死に目にあえないため、といったことは初めて知りました。
 このように日常生活の何気ない行動に意味があったり、言い伝えに様々な理由があったりなど、私の知らない世界観が多くありました。民俗学についての講演を初めて聴き、新しい道が開けたような気がし、興味をそそられ、別の話についても聴きたくなりました。この度はこのような講演を聴くことができ、良い経験になりました。

8組

 今回、常光徹先生の講演会に参加することで、民俗学という学問が地域ごとの身近でありふれた物事の発生する理由などを深く追求する学問ということを学びました。
 私は「民俗学」に興味というか、関心のようなものを持っていました。なぜなら僕は高3になって自分の進路を考えるようになったからです。まずは大学選びです。そして学部や学科を考えていきました。興味を持った様々な学部の中には学科として民俗学を設けているところがありました。「民族」ではなくなぜ「民俗」なのかと考えてみるととても新鮮でした。江戸取の先生のなかにも大学時代は民俗学を専攻されていた先生がおられ、その先生の話をお聞きしていたので、更に関心は高まっていました。そのような中、常光先生のお話をお聞きすることができました。常光先生は身近な例として「くしゃみ」と人々が霊柩車を見たときに、親指を隠す理由についてお話しされました。僕自身は、他人に指摘されたり、言われたりしないと気にしないことが沢山あります。しかしながら民俗学は人々の行いや行動の中に人々がどの様に生活し、社会を営んできたかを考察する、興味深い学問であることがわかりました。僕たちが自分たちの何気ない日常に関心をもとことは思考の幅を広げることにもつながります。いわゆる為政者たちによる歴史に対して、民俗学は、日常における人々の行いを対象としています。今回のお話しをきっかけに今まで考えて来なかった事象にも目を向けていきたいと思いました。

 最初に常光徹先生が民俗学者であることをお聞きしたとき、私はそもそも民俗というものがわからなかったので、正直なところ講演をお聞きしても全く理解できないのではないかと思っていました。しかし、身近のことをテーマに研究していく学問ということで、とても入り込みやすく、興味深い話ばかりでした。
 おにぎりが三角形である理由や「くしゃみ」「ものもらい」の語源など、私がどれも一度は疑問に思ったことのあることで、日本の古代からの慣習や考え方と強いつながりがあるものが多いことには驚きました。今の私たちの何気ない日常は、昔の人々から語り継がれ、時代に合わせて変化してきたものであり、そしてまた私たちが未来の人々に語り継いでいくものであると考えると、昔と今、そして未来はつながっていて結びついているものなのだと感じさせられました。
 海外の文化が多く取り入れられ、最近の日本人は「日本人らしさ」を失っているのではないか、とよく言われていますが、今回の講演をお聞きして、身近なところに、まだまだ日本独自の文化はたくさんあると感じました。普段生活しているうちに、本当に身近にある大切なものは見えなくなりがちです。日本人として、普段の生活に潜む日本の慣習を発見し、語り継いでいくという役目があるということを常に忘れず、日常の生活を大切にしていきたいと思いました。

9組

 私は、この度初めて「民俗学」という学問があることを知りました。同文化の集まりである「民族」とは違い、もっと私たちが自然と行っていることを研究するこの学問に私は興味を抱きました。
 その興味は、学問の内容をはっきり予想できなかったことにあります。常光先生のお話をお聞きして、私は私たちの生活に近いどころかそのものとなっている習慣、思ったよりも身近なところへの学問だと驚きました。私は、くしゃみについても霊柩車を見たとき親指を隠す行動についても、それはなぜか、その起源は何かと考えたことはありませんでした。私が予想しようとしていたことは、ほとんど民族学に近いものでした。気付こうとしなければ、また初めて知ったときの違和感の発展がなければ掬い上げられないことを追究する学問なのだ、という印象を受けました。
 今、その習慣やしきたりの意味は分からず使用していることが多いと思います。私がうまくこの学問の予想ができなかったことにも、これはこれだからこうなのだ、という決まり事としてそれらを見ていたからだと思います。昔は存在していただろう理由や由来をなくしたまま使用することは、ずっと続いてきた伝統が薄くなっているようだと感じました。
 民俗学は追究しようとすれば様々なことが対象となる学問だと思います。その奥底にある伝統的なことを知ることは日本人を知ることだと思います。民俗学は新しい学問のためか、まだ学問として弱い印象があります。しかし、伝統性が薄くなった時代、それを通して身のまわりを知ることは面白く、大切なこととなってくるのではないかと思いました。

 私は民俗学に興味がありませんでした。日常生活の中で関心を持ったものの意味や歴史を探っていく学問だということは認識していましたが、具体的に何を研究しているのかはわかりませんでした。今回のくしゃみや霊柩車が通ったら親指を隠すという迷信を例にしたわかりやすい講話をお聞きして、民俗学に興味がわきました。私は大学に行って社会学を専攻したいと思っているのですが、社会学も社会で起きている現象がどうして起こっているのかを探る学問という点で、伝承の流れを探る民俗学と共通していると思うので、大学に行ったら、民俗学も勉強したいと思います。また、講話の中で民俗学の第一人者である柳田国男さんの話をお聞きして、蔵書を読みあさり、あちこち行動する探求心を見習いたいと思いました。
 一番おもしろいと思った話はくしゃみです。私はくしゃみがなぜでるのか、なぜくしゃみと言われているのか気にしたことがありませんでしたが、そのルーツを探ると1つの言葉にも古い歴史があるのだなあと思いました。くしゃみは、擬音語が名詞化されたものだと思っていましたが、くそくらえから発展したと聞き驚きました。時代と共に、迷信も形を変えたという話も興味深かかったです。自分でも、様々な迷信のルーツを探りたいと思います。

10組

 常光徹先生の講演会がありました。都内の中学校の先生だったこともあり、とてもわかりやすく、またとても面白く話をしていただけました。
 先生は「伝承学」について話していただけました。伝承とは、古くからあった「しきたり」(制度、信仰、習俗、口碑、伝説など)を受け伝えていくこと、またその伝えられたことで、伝承学とはそれらを研究する学問のことです。
 「ものもらい」は麦粒腫の俗称でまぶたが赤く腫れ、痛む病気です。なぜ麦流腫が「ものもらい」と呼ばれるのか。日本では医療がまだ発達する前の頃、あらゆる迷信が信じられていました。「ものもらい」もその一つだということです。麦流腫になった人は、他の人の家に行き、そこでおにぎりをもらうと麦流腫が治ると信じられていたそうです。そのことから麦流腫は「ものもらい」と呼ばれるようになったのです。今から考えれば不思議な治療法ですが、当時としては何とか病気を治そうとした結果なのだと思います。現在の基準で考えてはいけないと感じました。
 「ものもらい」の例のように、今のあらゆる物の名は、昔からの言い伝えや迷信、つまり伝承されてきたものがたくさんあります。当時の人々のものの見方が伝わってくるような気がしました。常光徹先生の講演会に参加して、伝承学はとても面白いものであると感じ、もっと知りたいと感じました。先生、ありがとうございました。

 民俗学というと、私にとってはあまり関連がなく、大学とかで研究するような専門的な学問だと思っていました。しかし、今回の常光徹先生の講演をお聞きして、地域によって異なる文化や、言い伝えなど、最近巷で流行っている都市伝説のような誰にとってもわかりやすく、身近であるということを知りました。
 例えば、夜に爪を切ると親の死に目に会えなくなってしまう、というような言い伝えを私は知っています。理由はまったくわからないのですが、私はこの言い伝えを知ってから夜に爪を切ることに抵抗を感じるようになりました。他にも、枕を足で踏むと悪い夢をみる、というようなものや、雷がなったらおへそを隠さないと雷様に取られてしまう、といった子どもの頃によく聞いたであろうものまであります。
 このように、自分の周りを探してみたり、知人に聞いてみると、そこの地域特有のおもしろい話や少し怖い話まで聞くことができます。今までまったく気にもとめず、ただの教訓だろうとおもっていたものも、深く調べてみると実はちゃんと意味のあるものであったりするのだということがわかり、とてもためになりました。

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