常光徹先生の講話をお聴きして

1組 

 常光徹先生の民俗学の講演を聞いて、この度迷信や風習について興味を持ち、少し自分なりに調べてみました。
 先日、高等部2年生が修学旅行で訪れたカナダや、以前短期留学で訪れたオーストラリアのような英語圏では、くしゃみをした時に相手に向かって「
Bless you.」と言う習慣があります。これはくしゃみをすると魂が抜けていくという迷信があるため、悪魔が入らないように「神のご加護を」という気持ちから言われるようになりました。日本でも、くしゃみをすると鼻から魂が抜けてしまい、早死にしてしまうと考えられていました。更に、日本では誰かの噂をされている時にくしゃみが出るという言い伝えがあり、一度目は良い噂、二度目は悪い噂、三度目はもっと悪い噂あるいは誰かに惚れられている、そして四度目は風邪を引いたことを意味しています。イランでは、何かをしようとしたところで誰かがくしゃみをしたら、それは悪い事が起きるからその用事は遅らせた方が良い、という事を意味するそうです。
 その他にも日本には、霊柩車や葬儀やお墓を見たときには親指を隠さないと親の死に目に会えないという俗信があります。古代にはそれぞれの指や右手、左手に様々な意味が込められていて、日本では江戸時代に慣習化されました。
 まぶたの裏側などが腫れて異物感や痛む症状がでる「ものもらい」に関しての言い伝えも様々なものがあります。井戸の淵からザルを半分だけ水に映し、早く治るようにと井戸に願をかけ、治ったら井戸にザルを全部映し感謝するおまじないや、ものもらいになったらおへそに塩を入れて寝ると良い、とされる風習もありました。隣近所の誰かから、部屋の障子に隠れたりあるいは直接訪ねたりして、塩むすびなどの食べ物を「ものくれー、ものくれー」と言ってもらうと治るという不思議なもののあります。
 このように、場所や言語の違う民族間で同じ、あるいは似ている風習があったり、また、まったく反対の風習が残っていたりと、とても不思議に感じました。
 常光徹先生が教師をされていた時、周囲の生徒から色々な話を聞くことを実践されていたと聞きました。学問を学ぶうえで身近な人の声をたくさん聞くことはとても重要で、私の将来就きたい職業である医師にも通じる点が多くあると感じました。

 なぜそのようにするのか、なぜそのように言われるようになったのか、どうして人々はそのように信じるようになってきたのか、これから先勉強を継続していく上で、この「なぜ」や「どうして」という問いかけを自分自身に発する姿勢を忘れずに、そして大切にしていきたいと思いました。
そして、その自分なりの答えを模索し続け、最後まで諦めずに追求する姿勢を持たなければならないと思いました。 

1組 

 僕は、今回の常光徹先生講演会をお聴きして、民俗学という学問に少し興味を持ちました。民俗学という学問は、どのような分野に属するのか正しく理解していませんでした。しかし、今回の講演会を通して知ることができました。歴史学や考古学などと比較すると、起源は新しいので今後少しずつ発展していく学問体系だと思いました。
 国立歴史博物館と聞いて、最初はどこにあるのだろうと思いました。東京のどこかにある博物館だと思っていましたが、実際に調べてみると僕が住んでいる市の隣にあって身近な施設だったことに驚きました。それと同時に、僕は以前に二、三回行った事があることを思い出しました。最初に行った時の記憶では、中学二年生のときに夏休みの宿題の資料収集の一環として行きました。そして、その後何回か行ったことがある博物館でした。その際、施設内を見学した中でも一番記憶に残っていることは、歴史の教科書には必ず記載されている金印を見たことでした。教科書や資料集に載っている物品は、普段私たちが目にすることができないものだと考えていたのですが、実際に実物を見ることができて良かった事を今でも鮮明に覚えています。
 今回の民俗学についての話を聴いて僕なりに考えたことは、日本の文化を大切にするということです。あまり関係がないように思われますが、民俗学とは日本の歴史や文化、風習についての学問です。日本は、江戸幕府の鎖国の状態から黒船の来航によって開国して以来、近代化を突き進んできました。これは、日本が発展するために重要なことですが、逆に日本文化においては大切なものを失いかけているのではないかと思います。それは、奈良時代、平安時代から脈々と続く日本特有の遺産なども含まれます。近代化するのに目が向きすぎて、土地開発などによって埋もれていた昔の住居を誤って壊しかけたりするかも知れません。それ以上に、日本は無作為に西洋化を推し進めてきたためか、過去の文化を軽々しく扱ってきたような気がします。近代化することは、その国とその国の人々にとって、とても大切なことです。しかし、過去の文化を研究し、それを後世に伝えることも重要だと思います。文化とは、その国にとってとても重要な遺産でもあります。そして、その国にしかない特有な文化を他国に伝えることによって、自国の文化を正しく理解してもらうことは、相互の平和のためにも良いことだと思います。近年は、国際交流が盛んなので、世界中の国々が自国の文化をアピールし、相互理解が進んでいけばよいと思います。
 僕は、今回の講演を聴いてとても良い経験となりました。身の回りには、自分では気がつかない不思議な現象がたくさんあります。その中には日本にしかない風習もたくさんあります。将来、外国へ行き外国人の人々と交流することがあると思うので、その時に日本の文化を伝えていきたいと思うようになりました。そのためには、自分の意思を正しく相手に伝える英語力が必要だと思います。しかし、それだけでなく自国の文化に対しても正しく理解をしておかなくてはなりません。それをこれから時間をかけて調べたり勉強したりしていかなくてはならないと気がつくことができました。
 

 

 

2組 

 私が常光徹先生の講演をお聞きして思ったことは主に二つあります。
 一つ目は身近なところに目を向けるということの大切さです。先生がお話してくださった中では特に印象深かったものの一つは、おにぎりがなぜ三角形であるかということです。
 
普段、私たちが何気なく食べているおにぎりは確かに、どれも大体三角形です。正直に言えば、私は、おにぎりが三角形であるというのは常識で、当然のことだと思っていました。しかし、先生はまず、なぜおにぎりが三角形であるのかという疑問を抱かれました。そして、様々な方面からおにぎりが三角形である理由を研究なさいました。

 私はこのお話をお聞きして、身近なところに目を向けなければならないと思いました。将来研究の方面に進みたい私にとっては特に言えると思います。だからまず一つ、この点を常光先生の教えとして心に刻みたいと思います。

 そして二つ目は、なるべく広い視野を持つことです。先生は研究の際、疑問が出てきたらそれを解決し、更に疑問が出てきたらそれを解決し、というやり方をやっていました。その時、多方面からの視野が必要となるのは確実です。
 私はどうしても視野が狭く、多方面・多分野からの考えができません。何かを考える際にもどうしても偏った考えをしてしまいがちです。私は先ほども述べたように、将来、研究者になりたいという夢があります。その時必要になってくるのは多方面からの視野であり、その視野を持つことによってさまざまなアイデアが浮かんで、色々な研究の役立つのではないかと思いました。だから二つ目として、広く多分野の視野を持つということを心掛けたいと思っています。
 私はこの講演会をお聞きして様々なことを学ぶことができたのではないかと思います。
 

2組 

 今回、講演会をして下さった常光さんが教授をされている国立歴史民俗博物館には、行ったことがありませんが歴史関連の博物館には何度も行ったことがあります。僕は、日本史がとても好きで、昔から残っている物には特にわくわくさせられます。
 常光先生が「くしゃみ」についておっしゃっていた時は吸い込まれるように聞くことができました。くしゃみをすると早死にするという俗信があったために、くしゃみをした人がいると「くさめ」という呪文を唱えるとのことでした。これには驚きましたし、こういうことを発見できる常光先生がとても羨ましく思います。民俗学に限らず、日本中にいる研究者にとって大切だと僕が思うことは、自分のたずさわっている学問の研究をその人自身がアンケートを行ったり、インタビューをしたりして、結果を出すことであり、それができたなら、成功と言えると思います。しかし、途中で断念してしまうような人は研究者には向いていないと思うし、研究する資格はないと思います。そういう点では、常光先生が大切にされている「当たり前の日常の中に目を凝らし、テーマを掬い上げていく姿勢」は僕も大切だと思います。
 
もう一つあった「親指を隠す」という動作をどんな時にした方がよくて、その理由がなぜなのかということについては何も知らなかったです。亡くなってしまった方を納めた柩を運ぶ霊柩車が通った時に、親指を隠すというのが圧倒的に多かったですし、びっくりしたのですが、めったに自分の近くで霊柩車が通ることはないと思うので、なぜ親指を隠さなくてはならないのか正直に言えば難しい問題だと思いました。
 講演会を聞けて良い機会になったと思います。あまり聞くことのできない民俗学についてでしたし、研究者である先生本人から話が聞けたからです。研究者は、諦めずに研究し続けることが大切です。しかし、僕たち学生にも同じ姿勢が必要であると思います。友達に負けじと勉強し、夢や目標を持ち、諦めないで進んでいくことで日常生活を過ごしていきたいです。このことを考えることが出来たのも今回の講演会のおかげだと思うので、もう一度聞けたらいいなと思っています。

 

3組 

 今回の講演のテーマは、「伝承学」についてでした。はじめに抱いた印象としましては、そのような学問が存在し、それを研究している場所があるのかというものでした。「伝承学」というと、現在と過去の違いを考えるような、自分たちとは全く関係のない学問なのではないかと考えてしまいました。
 しかし、実際に今回の常光先生による講演を聞いていて、「伝承学」とは案外自分たちの生活とはそんなに掛け離れたものではないのではないかと感じました。例えば「くしゃみ」という言葉にも語源があり、その語源にまつわる物語まで存在していたということにはとても驚かされました。また、「くしゃみ」だけではなく、幼い頃から年配の方から聞いたことのある「霊柩車を見たら親指を隠す」などといった、私たちにとって身近に体験したことのある事象について研究をされているということを知り、伝承学とは意外にも、とても身近な学問であったということに気がつきました。そういえば私自身も、幼いときに祖父から「霊柩車を見かけたら親指を隠すのだよ」と教えられた記憶があります。
 さらに今回、常光徹先生の講演をお聴きして、「くしゃみ」の語源や、「霊柩車を見たら親指を隠す」などといった昔からの言い伝えには、ある種の「おまじない」や「魔除け」といったものが深く関わっていることが多いように感じました。昔から疑問を抱きながらも、きちんとその通りおこなわれてきた言い伝えが、どうしてそのように言い伝えられたのかということを解明するということに、私はとても興味を持つことができました。今後、自分の活動の中で、何か古くからの言い伝えに関して調べる機会があれば、積極的にその事象の背景について探求していきたいと思いました。
 
常光徹先生は国立歴史民俗博物館の教授でもいらっしゃいます。私は小学生の頃に、国立歴史民俗博物館へ1度行ったことがあります。その時には、博物館にある資料を見ることで、ただ単に教科書に載っているようなことだけではなく、当時の雰囲気や文化などについても詳しく理解することができました。今考えてみると、それらのことについても伝承学からわかったことがあるのだろうと思うところもありました。今回の講話をお聴きして、伝承学についてより身近に、そしてより詳しく理解することができました。まだまだ私の身の回りには、「伝承学」といわれるものがあるように思います。今回の講話をきっかけとして、これからの生活の中でよりたくさんの事柄について触れていきたいと思いました。

3組

 先日5月22日水曜日に、民俗学者である常光徹先生による講演会が行われました。今回の講話の内容は、「民俗学・伝承学」というものについてでした。「民俗学・伝承学」というと、一見自分たちにあまり関係のないものに聞こえてしまいそうですが、講話を聞いていくにつれ、実際は身の回りにたくさんあるものなのではないかと感じることができました。例えば、講話においても話されていた、「霊柩車が通ったら親指を隠す」ということについては、幼いときに祖父から教えられたような記憶が残っています。よく考えれば、このことについても「民俗学・伝承学」の一つなのではないかと思いました。
 また今日では、英語や日本語、中国語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ロシア語などといった言語は多岐に渡り、たくさんの人々に話されています。遠い昔のことでいえば、人間の祖先は動物の鳴き声のような声でコミュニケーションを取っていたと聞いたことがあります。しかし、それは人が住む場所を拡大させるにつれ、さらに地域と時代を背景とした文化の違いなどにより、その形態をさまざまに変化させ、人現が進化を遂げ文明が発展する中で、現在の状態にまでなったそうです。言語は現在も刻々と変化しており、その語源をたどることによって、その本当の意味に辿り着けることは非常に興味深いことだと思います。
 
現在、僕たちは古典という授業を受けていますが、そこから民俗学・伝承学について学ぶことは数多くあると思います。昔の人も今の人も、さほど感情や行動に違いはなく、そのことについて私自身大変面白いものだと感じています。故事を伝承するということは、非常に大切なことであり、今の我々はもちろんのこと、未来の人類にとっても教訓となることがあると思います。人間は案外、幼かったり残酷だったりするという本質が見えてくる一方、偉大な英雄の生き方からたくさんのことが学べたりもします。現在起きている出来事も、これから先においては故事として伝承されていくかもしれないと考えると、実に興味深いものだと感じることができます。伝承学について考えると、遥か遠い過去から、遥か遠い未来まで時の線が結ばれているようにも感じます。
 今回の講話は、自分にとって新しい興味・発見をすることができるきっかけとなったように感じます。今後、機会があれば是非とも常光徹先生が教授として勤めていらっしゃる国立歴史民俗博物館を訪問し、さらに「民俗学・伝承学」について詳しく調べたいと思います。

 

 

4組 

 私は今回の常光徹先生の講演をお聴きして、初めて知ったことが二つあります。一つ目は、霊柩車を見たら親指を隠すなどの行動についてです。私は小学生の時に親指を隠さないと親に不幸がおこると友達から聞きました。講演で親の死に目に会えないなど、他の意味で知っている人もいると知り驚きました。人から人へ語り継がれていることだから違いがあってもおかしくないだろうとは思っています。霊柩車ではないですが似たような言い伝えで夜に爪を切ると親の死に目に会えないというのがあります。この話は私の周辺で聞く限り余り違いがありません。霊柩車の話も爪切りの話も共に人から人へ語り継がれて広まったことなのに、認識の差異があるのは不思議だと思いました。また、霊柩車を見たら親指を隠すという行動は昭和の初め頃からということも初めて知りました。
 二つ目は民俗学はどのような学問なのかということです。私の知り合いに大学で民俗学を勉強している人がいます。その人が大学が決まったときに民俗学を学びたくて大学を決めたと聞きました。医学や法学とは違い、余りポピュラーな学問ではありません、どんなことを専門として研究する学問なのか分かりませんでした。今回も民俗学の話がどんな内容なのだろうかと、講演が始まるまでずっと思っていました。講演を聴いて人々の慣習について研究をするのが民俗学なのかと思いました。家に帰ってから民俗学について調べて
みると、慣習だけでなく伝説や方言についても研究する学問だと分かりました。私は理系の学部を目指していますが、民俗学も興味深い学問だと思いました。理系文系にとらわれずに、これからは様々なことに興味を持って行けるようにしたいと思いました。そして、何気ないことでも大きな発見になるのかもしれないと講演を聴いて思いました。
 私は常光徹先生の講演をお聴きしてから、普段の生活において目のつけるところが変わったような気がします。
何気ない仕草や言葉使いにも時代背景があるのかなと思いました。そう考えると日々の生活が壮大に感じ、おもしろいと思います。これからも様々なことに目をつけつつ生活していきたいと思います。常光徹先生の講演で新しい世界が見えたような気がします。ありがとうございました。

4組 

 僕は5月22日に常光徹先生の講演を聴きました。今回のお話を聴いて思ったことや感じたこと、家に帰って調べて学んだことについて書こうと思います。
 先ずは「親指を隠す」という仕草についてです。霊柩車と出会ったとき、親指を隠すという習慣があるそうです。ではなぜ親指を隠すのかというと「親が早死にする」と言う理由や「親の死に目に会えない」ということだからだそうです。ではこの迷信はいつ頃から人々の間に広まったのでしょうか。先ず霊柩車が日本で初めて運転されたのは大正時代の前半頃とのことです。しかしそれ以前にも同様の迷信がないわけではなく、「葬列を見たら親の死に目に会えない」というものだったそうです。つまり元は葬列を見かけた時などの呪術的な仕草だったと考えられているらしく、「親指を隠す」という行為は「死」や「汚れ」から親を守るといいう意味も込められていますが、本来は自らの体に悪い影響が及ぶのを絶つための行為だったそうです、さらに昔には「夜道を歩くときは親指を中にして握っていると狐に化かされない」ということや「疫病を避けるには親指を中にして握っていると良い」などのようなことがあったそうです。「親指を隠すという気持ちによって災厄を防ぐ」、つまり「親指は体の中で邪悪なものに狙われやすい場所」だったようです。
 また、他にもクシャミについて話を聴きました。クシャミの回数から誰かが自分のことを噂している証拠だと言って、その内容をあれこれ判断する俗説が広く伝承されています。このことに関しては僕も聞いたことがありました。クシャミが1回の時は褒められていて、二回の時は誹られ、三回は惚れられ、四回は風邪をひく、などと言われています。
また徒然草に書いてある例を挙げると、年老いた尼さんが「くさめくさめ」と言いながら歩いていたので何でそんなことをするのかと尋ねたところ、子供がクシャミをしたのでおまじないをしなければ死んでしまう、と言ったそうです。なぜ「くさめ」と言っていたかというとクシャミと同時に魂も押し出してしまう恐れがあったためおまじないの呪文を唱えていたそうです。今ではこの話はただの迷信のようなものとなってしまっていますが、昔の人なりの知恵や今でいう科学のような存在だったのかもしれないと思いました。

 

 

5組 

 私は妖怪や怪談というジャンルのものが好きでしたので、今回の常光先生の講演会は、始まる前から何よりの楽しみでした。どんな話が聞けるのだろうかと楽しみしている中で聴いた民俗学の話は、私が想像していた話を越えて興味が掻き立てられ、得るものが多いものとなりました。
 それまで怪奇現象の起こるような小説を読んだことはありましたが、『民俗学』と言う分野の意味は正確に理解していませんでした。私がそれまで抱いていた民俗学のイメージとは、古い歴史を研究するところだという様な漠然としたものでした。しかし、今回の講話によって、その認識が大きく外れていたことを学びました。それは、ただ見たことや聞いたことを文や物語形式にして文章化するだけではないのだ、ということです。民俗学には日常にある迷信や言い伝えを基軸にして、そこから疑問に思ったことを探求する、という大きな枠がありました。先生が松谷みよ子さんから教えていただいていたように、それは私にとっても盲点でした。
 確かに、私たちの身近な日常にも、どうしてやっているのか分からないような、言い伝えに基づいた行動があります。――夜に爪を切るな、夜に口笛を吹くな、などです。
 全国の都道府県の民話や都市伝説にはやはり決まった型がありますが、学校で言い伝えられているような怪談話や、周囲に溢れているような迷信は、地域や都道府県によって大幅に変わってきます。自分とは離れた物語を読むのも楽しいですが、身近にある疑問に触れ、なぞを紐解くのは、さらにリアリティがあり、それだけ面白いとも思いました。
 これは民俗学に限ったことだけではありません。私たちが普段生活している中にも、どうして人間にはこのように多彩な色が見えているのか、耳が聞こえるのか、他の動物と違ってどうなのか……解き明かされているものから、いないものまで、様々な発問が転がっています。この『生活の中にある小さな疑問』を調べることは、民俗学の研究の根本と大差ないのです。学問の原点に回帰すれば、私達は分からないこと、発見されていないこと、または先代の賢人が考えていたことを掘り起こし、そこから発展させていこうとしているのだと思います。
 今現在、私たちが学んでいることは、その土台となる考え方や知識です。このことを基にして、将来、より探求を深めていくことになります。たとえ、何かを研究する道に進まなくても、結局は今習っているような理論や考えの筋道が、後々に役に立ち、考えを深めていくことになるでしょう。ならば、より深くものを考えることができる人間になれるよう、さらにこれから勉学面においての基礎土台を固めていきたいと思いました。
 また、そのモチベーションとなる、『疑問』は、学ぶ側としてはなくてはならないものです。ただ受動的に学ぶのではなく、学んだ中にも、考えをより深められないかと自問自答し、聞いたことをより深く吸収できるようになるためにも、小さなことに気を配っていけるような人間になりたいと思いました。

5組

 私は、常光徹先生の研究にとても感動しました。今回のお話にあったことのうち、親指を隠すという仕草は、実は私もしています。それは、昔、親から「霊柩車が通るときは、親指を隠さなければならない。そうしなければ、親の死に目に会えなくなるぞ。」と教えられてきたことだからです。しかし、何故霊柩車なのか、親指を隠さなければならないのかについては知らないと言っていました。この講話で知ることができて本当に良かったです。
 また、常光先生は、こういった伝承を普段私たちが何気なく使い、時に教育として、時には言い伝えといったしつけとして、そして、知識として使われてきた日本の伝統とも言えるものの研究をなさっていると知り、民俗学は奥が深く、対象とする民俗にはその当時の日本人の考えや、感情の込められた工夫があると驚きました。
 さて、常光先生の著書にもある、「学校の怪談」は私も読んだことがあります。他にも、小学校の時には怪談話を友人たちと話をしたり、本を読んでレパートリーを増やすなどして、たくさんの怪談話に関わることがありました。怪談話はどれも「怖いもの」とは限らず、少し面白い話もあります。幼い頃も、高校生の今も、未だに怪談話は魅力的かつ神秘的で面白いです。
 けれども、それらを思い返すと怪談話の舞台としては学校が多く、中でも学校のトイレや、階段、音楽室がメインとなっていました。学校は幼いときなどは、家ではない異空間のように感じられ、特に、他のところより少し暗い階段やトイレ、音を遮断するために少し他の部屋とは違った作りになっている音楽室は、私たち以外の者たちが居そうな恐怖を感じ、必要以上には行かないようにしていたのを覚えています。「ある日、音楽室にあるモーツァルトの絵に画鋲が刺さっていて、夜中になると笑い声が聞こえる」。「三階の男子トイレの鏡だけないのは、昔そこの鏡に、女の子の姿が写り鏡の世界に連れていかれた生徒がいたからだ」。この2つは私の小学校の怪談として、伝えられていたものです。これらがどういった経緯で誕生して伝わっていったのかはわかりません。これも、おそらくは当時の人々の考えや、工夫が至るところに散りばめられているのだと考えると、ただの怪談話としてだけでなく、多くの疑問点が浮かんでくるような気がします。
 私は民俗学といった学問を、聞いたことはあっても深く知ることは今までにありませんでした。けれども、常光先生のお話をお聞きして、伝承を守らなければならないことを教え、豆知識を子供などにも分かりやすく、なるべく印象に残るような形で残すのに、最適な方法であるように思いました。そして、今までに見たり聞いたりした伝承を大切にしていき、自分なりに生まれた意味を考えていこうと思いました。

 

 

6組 

 今回の常光徹先生による講演会のテーマは、「民俗学」についてでした。先生はくしゃみや霊柩車など、民俗学をあまりよく知らない私たちでも分かりやすい身近なものを例に挙げて話してくださいました。その中でも、特に印象に残ったものがありました。
 例えば、「ものもらい」の名前の由来についてです。かつての日本には他人の家に行き、障子の破れ目から食べ物を恵んでもらうことを何回か繰り返すことでこの病気が治癒する、という迷信が存在したといいます。そのことから「ものもらい」と呼ばれるようになったそうです。しかし、もちろんこの迷信には医学的根拠がないので、今の私たちからすれば意味のない行動であるように見えます。先生は、今の私たちが当たり前にやっていることも、何十年もあとにはやはり無意味に見えてしまうのかもしれない、と講話でおっしゃっていました。それを受けて私は、今の日本でよく知られているおまじないについて考えてみました。すると何も根拠はないと思われる事例をいくつか思い浮かべることができました。
例えば、「人」という文字を手の平に指で三回書いて飲むと緊張を和らげることができる、というおまじないがあります。しかし、これもものもらいの話と似たように、心理学的な根拠はありません。このような現在は有名であるおまじないも、何十年も先にはさほど意味を持たない行動に代わっているのかもしれません。昔から伝わる言い伝えには、人間が不幸になる原因は悪霊や魑魅魍魎がその人に取りつくことである、というものが多かったそうです。今では様々な事象が理屈で説明できますが、なぜ病気にかかるかがよくわかっていなかった時代があり、それを非科学的なものでなんとか説明をつけようとしていたと思うと、それはそれで夢があるような気がしました。
 今回の講話を通して私は、このように身の回りの民俗について興味を持ち向き合ってみることができました。私は以前から民俗や神話など、人々の間に昔から語り継がれていることについて調べてみたいと思っていました。しかし、なかなか深いところまで掘り下げて調べてみることはできていませんでした。
今回私の中で民俗に対する様々な考えが整理できました。だからこれからは、身近な慣わしが今日まで伝わってきている所以により着目していけるよう、当たり前のことに対しても何か疑問点が無いかどうかを注意しながら生活すると面白いだろうと思いました。

6組 

 伝承学という学問を初めて聞いた時、その内容が全く想像できませんでした。しかし講演をお聞きして、都市伝説のようなものを扱う学問なのかと自分の中で解釈していました。
 都市伝説と言われるものは、うわさなどとして周りに流れ、信じられています。伝承学とは言葉の通り、伝わって学ばれていく学問ではないかと思います。
 
文字どおりに解釈すると「伝承学」の「伝」は「伝える」となりますが、では「承」にはどのような意味があるのでしょうか。「伝」には以心伝心のように、心が通じるとといったような意味があります。そこから想像して言葉が伝わってくるんだなと理解することは出来ます。しかし、承を「うけたまわる」と読むと、そこで思考が止まってしまいます。承ると聞いて、伝承学の内容を想像するには難しいと思います。承るとは相手の要求をそのまま受け取ると言ったイメージがあります。このように理解すると、「伝わってきたことをそのまま受け取る」というが伝承学であると解釈し理解することができるのではないかと思いました。「伝わってきたことをそのまま受け取る」とは上でも述べた通り都市伝説のようなうわさなどへの態度と考えて良いと思います。しかし講演をお聴きした上で、伝承学とは何かと聞かれると、以上の答えでは少し遠かったように思います。伝承学とは身近に見つけた素朴なことに疑問を投げかけて解いていくというものだと、先生がおっしゃったからです。
 身近にあることに疑問を投げかけるとは、その解決に物理的根拠や化学的根拠を用いることとなると思います。実際解いていくとそのような答えにたどり着くと思います。しかし伝承学の内容を物理的、化学的根拠で説明することはとても難しく感じます。伝承学とは人がおこなってきた風習を疑問とするからです。
 風習を疑問にするということは人の生態を問題に上げるということだと思います。講演中には親指を隠すことが話題になり、その行為にどのような理由があるのかを説明されました。しかし物理的、化学的根拠ではこのことについては何一つとして答えを挙げられません。なぜなら危険がない状況で行う行為であり、その明確な目的が見えないからです。しかしながら、そうした身近なことにも耳目を傾けることの大切さを学ぶことができました。
 
伝承学は化学的、物理的根拠では説明のつかない、人が作りだしたことに関しての根拠が述べられると思います。その面に関して全く新しい学問であると僕は思いました。 

 

 

7組 

 私はここまで深く民俗学に触れる機会に出会ったのは今回が初めてだと思います。今までは、せいぜい国語の教科書で柳田国男さんの文章を読んだぐらいで民俗学という言葉すら聴きなれないものでした。しかし、今回の講演をお聞きして民俗学は私達の気づかないうちに当たり前のように存在していて誰でも考えることができる学問なんだということがわかりました。
 医学技術が今より発達していない昔の「生活技術」であったおまじないというのは
人々を不安から救ってくれるものだったと思います。例えば、治す方法がない感染病が大流行していたときに健康だった人々が「かからないようにする方法はない」と考えるのではなく「おまじないをすれば予防できるんだ」と考えることができるだけでどれだけ不安から救われたでしょうか。もし、その人たちの中でその病にかかった人が出たとしても「おまじないが足りなかった」と考えたでしょう。そうするとおまじないをより念入りにするようになるので、そのおまじないが簡単に信じられなくなるということはなかったと思います。
 こう考えると、人間が大昔からしてきた一種の信仰のような行為は馬鹿にできないと思います。医学技術が進歩した今、当時の人々の精神世界や社会観を理解することはなかなか難しいです。しかし、このような過去を経て現在に私達が存在しているということを忘れないようにしたいです。
 私は、この講演で「霊柩車に遭ったら親指を隠す」という習慣を初めて知りました。聴いた瞬間は親指を隠すことで何になるのか、訳がわからずにいました。「親指の爪の間から悪いものが入ってくるから」という元来の理由を聞いてますます訳がわからなくなりました。きっと民俗学は答えを求め始めたらきりがない学問なんだと思います。昔の人々が答えがわからない物事に対してどのように自分を納得させたかを知ることがこの学問のゴ ールなんだと思います。
 私は昔の人々のくしゃみに対する決して科学の視点からではできなかったような視点でのものの見方に驚きました。くしゃみは誰かが噂をしている証拠だったり魂が飛び出す現象だったり、知っているとくしゃみひとつに対しても面白い見方ができるんだなと感心しました。

 今回、お聞きした内容は民俗学のごく一部に過ぎません。しかし、この講演を通して私は民俗学に興味を持てたので民俗学に関する本を読んだり、
国立歴史民俗博物館に行ってみたりするのも面白いなと思いました。

7組

 わたしは、昔から、それもさかのぼること小学校時代から、怪談話が大好きでした。ですから、常光先生が怪談にちなんだ、日常のあらゆる不思議を語ると聞いて、非常に興味を抱きました。かつて小学生だった時に、図書室に何度も足を運んでは、様々な怪談について書かれた本を読み、ぞくぞくした興奮や喜びを覚えていたことを思い出し、常光先生のお話を聴くことができることを楽しみにしていました。
 ところで、民俗学と聞くと、どこか堅苦しくて、たとえば哲学に近い要素をもっているようなイメージを抱きます。あらかじめ民俗学について知っていた予備知識は、柳田国男さんという人物が創始したということと、その柳田国男が深く研究したという「カッパ伝説」だけでした。そうした状況でしたから、お話をうかがうに当たって、非常に不安に感じていました。自分にもわかるようなお話をしてくださるのか、話についていくことができるか、と思い、全然知らない分野の話や、わたしたちにとってレベルが高すぎる講話の内容なのではないかと、しっかり理解する自信がありませんでした。ところが大ホールに入り、先生がご挨拶をされ、お話を始められてからは、そういった不安や自信のなさを感じていたということ自体、忘れてしまっていました。
 常光先生は、非常にわたしたちにとって身近な題材で頭に絵が浮かんでくるような内容で、しかもユーモア溢れる語り口で私たちを民俗学の世界に引き入れてくださいました。例えば、霊柩車が前を通過したとき、両手の指を隠す習慣があります。これは全国的にそういった話が広がっているということですが、わたしはこのような迷信は信じません。なぜならば、根拠もないのに、なぜそのようなことが言えるのか疑問だからです。そのようなことを言ったら、東京だけで何台の霊柩車があるか数え切れないからです。そのたびに両手の親指を隠しているようでは、一日に何度隠すことになるのでしょうか。確実にこれは迷信だと思います。先生のお話をお聞きして鮮明に思ったことは、昔から伝わる古い言い伝えで、多くの人がそれにまつわる習慣を実際に守っていたりするようなものでも、現実的に考えれば、根も葉もないということがわかる出来事がいくつも私たちの日常生活に転がっているということです。根も葉もないと言いましたが、もちろん、それを信じる分には構わないとも思っています。実は日常生活の中にはたくさんの不思議が転がっていて、それを深く掘り下げるのが民俗学なのです。大切なのは表面的に表れているものをそのまま何も考えずに受け入れるのではなく、その中に潜んでいるものに目を向け、「なぜそうなっているのか」という疑問を抱いて、それを解明してみようとする気持ちを持ち続けることではないかと思います。民俗学においては歴史や文化といったことになるでしょうし、自然現象であれば、物理や化学といった分野を掘り下げて捉えていく、ということになります。今回の講話では、そうした知的好奇心、探究心を持つことの大切さを教えていただきました。ありがとうございました。

 

 

8組 

  初めて「民俗学」と聞くと、「学」の字が付いていることもあって非常に難しそうなものだと思ってしまいますが、話を聞いていると、とても身近で、慣れ親しみやすい学問だということがわかりました。自分たちの身のまわりにある様々な疑問点に興味、関心を持ってそれの答えを探る、というのはとても面白いと思います。答えを出す方法も、印象的でした。子どもや老人など様々な人と関わり合い、話を聞くことで研究を進めていくという点も、一人やごく少数で行う研究よりも人間味や温かみがあっていいな、と思いました。研究室の中にいるだけでなく実際にいろいろな人たちと関わって研究をしているのだと思いました。
 私は、二つ目に例として挙げられた、霊柩車を見たら親指を隠すという習慣を知っていました。どこで聞いたのか、いつから知っていたのか、ということは何も思いだせないのですが、確かにこの習慣を知っていて、しかし自分自身でも実行した記憶がありました。たぶん、こういう言い伝えや迷信の類は、幼い頃に家族や友人から聞いたものを何となく覚えている、という曖昧なものが多いと思います。私も場合もそうだと思います。それ故に話される時代に合わせて、習慣の内容が改変されていったりする、ということが起きるのではないかと思います。
 カラスを見たときや、特定の場所を通ったときなど、親指を隠す場面や理由には人により様々なものがありましたが、全体的に、人の死を連想させるもの、場所や、不吉で、縁起の悪そうなものであることがほとんどだったと思います。この習慣も、最初は一つ語られていたものが多くの人に伝わり、地域や文化の違いによって派生していったのだと思います。そういった文化の分離の例で私が知っているものに、うどんの汁の味の違いというものがあります。うどんの汁の濃さは、大きく分けると西日本と東日本で分かれ、味が全く違います。この親指を隠す話も、同様に文化の違いによって派生して、分かれていったのだと思います。
 長く生きた老人だけでなく、子どもにも話を聞いたということで、生活文化や伝承は、一部の人だけでなく、今生きていて生活を送っている全ての人々によってつくられるものなのだと感じました。そのようなことを研究する伝承学という学問に興味を持ちました。今後も日常にする何気ない話に注目してみたいと思います。

8組

  夜に口笛を吹くと蛇が出る、霊柩車を見て親指を隠さないと親が早死にする、夜に爪を切ると親の死に目に会えない、など僕たちの身のまわりには様々な科学的根拠がないような伝承があります。そうした伝承は親から子へ、子から孫へと言い伝えられてきています。僕自身、祖父母や母親などから言い伝えについて「これをしてはいけない」「こうしなければならない」などと言われることがあります。僕が聞いたときはただそれに従うだけで、どうしてそう言い伝えられてきているのかなど、深く考えたことはありませんでした。理由や、そうした言い伝えができた背景について知ろうということがありませんでした。
 しかし、今回の常光先生のお話をお聞きして、昔からの伝承に対する興味が湧きました。また、日常の疑問を深く掘り下げて、ときには執念深く研究していくことが大切なのだ、と感じました。普段、僕たちが気にしないような疑問を解決しようと様々な方法を使って調べ、考える常光先生の姿勢はとても素晴らしい、尊敬すべきものだと思います。また、常光先生は伝承学という学問をとても楽しそうにお話しになっていました。常光先生にとって伝承学という学問はとても興味が湧き、楽しい学問なのだと思います。伝承学の面白さに気付き、研究を進めていくことで詳しくなり、さらに自身の学問を面白くしていく、というプロセスが伝わってくるようでした。
 伝承学に限らず、僕たちも常光先生の学問に対するこのような姿勢から学ぶべきものがたくさんあります。学問に対して、興味を持って学ぼうという姿勢、そして学問を自分自身の手で楽しいものにしていることです。一方僕は違いました。今までの僕が勉強しようとするときは、宿題が終わっていなかったり、テスト前であったり、必要に迫られてしかたなく勉強する、という状況でした。だから勉強を楽しめることが今まではあまりありませんでした。勉強を楽しむためには、常光先生のように自ら知ろうと思い、自ら勉強することが必要だと思います。自主的な学習姿勢が必要だと思います。まず、自分の好きな科目から、僕も学問を楽しく感じられるものにしたいと思います。そして学問を面白くしていきたいと思います。

 常光先生が語っていらっしゃった伝承学というものは今まで聞いたことがない分野でしたが、今回の講演会に参加して、伝承学が非常に興味深く、面白い分野だということを知ることができました。日常のことに疑問を持ち、過去の人々の考えを知る、という研究はとても面白いものだと感じました。僕も日々の生活で気になったことを調べることからはじめ、学問というもの自体を常光先生のように楽しめるようになりたいです。

 

 

9組 

 私は「民俗学」という言葉をパンフレットで目にした時、この学問は古代民族の慣習や文化について学ぶものなのではないか、というイメージがありました。自分たちの身の回りにあるようなものや、話されている内容が「民族」の学問対象になるということが、思い浮かばなかったのです。しかし、それは大きな勘違いで、民俗学とは私たちの身近な言い伝えや日常生活の中のささいな疑問や起源を突き詰めていくものでした。私自身、確かに日々生活している中で、「これはどうしてこういう風に呼ばれているのか」「こういう状況の時どうして人間はこういう行動をとるのだろうか」などと、ふと思う瞬間がよくあります。しかし、それはあくまでその時限りにしてしまい、その後は特に深く考えたり気にしたりすることもなく、そのまま普通に使ってしまっています。なかなか突き詰めて考え、そこから新しい発見を得ようとするところまでいかないのです。そしてそうした自分に対して疑問を抱くこともなく、日々新しい情報や目の前の出来事と向き合って過ごしています。しかし、今回のお話をお聴きして、自分なりに、たとえ正解にはたどり着けなかったとしても、抱いた疑問を突き詰め、深めていくということは楽しい作業であり、新しい発見が得られたときには感動や驚きが多いのではないかと思いました。
 先生の紹介の中に「目の前の伝承」という言葉がありました。私が小学生の時、友達との会話の中ではよく都市伝説や怪談という形で様々な話がたくさん出てきましたが、最近はそういった言葉を耳にする機会自体がそれほどありません。これを踏まえると、「目の前の伝承」とは、子どものような好奇心と、柔軟な考えを持って物事を見なければならず、そうした意識や考え方が大人にも求められていると思いました。私は柔軟な考えは全ての物事において非常に大切であると感じています。私自身について振り返ってみても、身の回りのことすらなかなか柔軟に捉えることができず、失敗したり空回りしたりしています。ですから、民俗学といった分野に限らず、私たち現代社会に生きる一人一人が身近な出来事や問題に対して真剣に目を向け、そして柔軟に対処していくということが求められているように思いました。
 最後に、この講演で、民俗学という私にとってあまり馴染みのなかった学問分野をとおして発想の転換ということの重要性についても改めて考えさせられました。子どもから大人になるにつれて、いろんな情報や知識は入ってきますが、逆に柔軟な考えは消えてしまいがちです。それでは、ただの情報や知識の「処理」になってしまうのではないかと、考えさせられました。インターネットなどが発達し、情報が溢れてしまっている現代社会だからこそ、柔軟性を失わないための意識を高く持つ必要があるはずです。今後は抱いた疑問をそのままにしてしまうことのないよう、知的好奇心を保って生活することを心がけていきたいと思いました。

9組 

 「民俗学」という言葉を辞書でひくと「民間伝承を素材として、民族文化を明らかにしようとする学問」とあります。一見難しそうですが、民間伝承とは普段の生活の中で受け継がれてきた知識・技術・風習の事であるわけですから、実は決して難しいものではありません。実際、講話の際に例に挙げていただいた「おにぎりはなぜ三角形なのか」「なぜ霊柩車を見たら親指を隠せというのか」といったものは、本当に身近な生活の中にあるちょっとした疑問と言えるものです。しかし、そうした事柄について、一つ一つ丁寧に考え、様々な時代の文化的背景や風習などを見ていくと、実は奥が深いものであり、人間の様々な考え方や物事の捉え方がその背後には潜んでいるのだということが見えてきます。このように、様々な慣習・行事・言葉の中に籠められ、満ちている私たちの生活を丁寧に分析し、掘り下げていくことが民俗学であるということを、今回の講話を通して知ることができました。自分とは遠いところにある学問であるように感じていたものが、じつは非常に身近なところにあるものなのだ、ということを非常に新鮮に感じました。
 当たり前に思われていること、普段なら気にもかけないようなことを研究の対象とする民俗学の姿勢は、僕たちの学習の姿勢にも通じるものがあると思います。学習する際に、何となくそうなっているから、公式だから、と考えて丸暗記をするような姿勢では、結局それを自分の知識として使いこなすことはできません。しっかりと理論的に捉えたり、そうなっているということの内容を理解しようとしたりすることによって、本当に自分のものとして蓄えていくことができるようになるのだと思います。そして、そのことが結局は学習の近道になっていくのではないかと最近、考えるようになりました。物事を学ぶということにおいて最も大切なことの一つは、抱いた疑問を疎かにしないということになるのではないかと、今回改めて気づくことができました。
 また、これからの社会はよりグローバル化が進み、僕たちも国際人として日本だけではなく世界で活躍することが求められるようになっていくはずです。その際に、民俗学のように日常生活の身近なことに目を向けることができれば、異文化との相互理解においても非常に役に立つのではないかと思いました。日本文化と異文化において共通している部分や、逆に全く違う点などを見つけ、調べていくことで日本文化についても見識を深めていくことができるようになるはずです。海外で活躍するためには語学力はもちろん必要になりますが、それ以上に日本の気候や風土の上に築かれた風習や文化、伝統を知り、それらを基にして異文化と接していくことで理解を深めていくことが、真の国際人として求められる姿勢になるのではないかと僕は思っています。ですから、自分の中にないものや新しいものばかりを追い求めるのではなく、これまで日本の中、さらに言えば自分たちの生活する地域の中で受け継がれてきたものを学んでいきたいと思います。そして、そうして学んだことをまた次の時代へと継承していくということを実践していけるようになりたいと思います。

 

 

10組 

 常光先生の講演会に参加して、身近に起きる出来事を注意して見ていきたくなりました。先生の講演の中の2つの話を聴いて、「ああ確かに」と気付くところがたくさんありました。
 1つめの話題ではくしゃみについてでした。くしゃみをする行動は、意識してするものでもなく、何も疑問を抱いたことはありませんでした。しかしこの行動に関して、くしゃみとともに魂までも出てしまうとか、体の中に虫がいると考え、その虫を出すというような考えがあることには驚きました。
 体の中に虫がいるという考え方から、「腹の虫が治まらない」や「虫の居所が悪い」、「虫酸がはしる」などの言葉が生まれたそうです。今までなぜ「虫」なのかと疑問に思っていたことも、このように説明を受けると納得することができました。
このようなことが分かると、他の言葉にはどんな考えが裏に隠れているのだろうと興味が沸いてきます。
 2つめの話題では、霊柩車が通る時は親指を隠すという仕草についてでした。この仕草は、私はしていませんでしたが、そういえばどこかで聞いたり、見たことがあるなと気付きました。私の周りにも、「夜爪を切ると、親の死に目にあえない」と言われていたことがあったなと思いました。
 この言葉は、夜は暗いのでそこで爪を切ると、深爪をしてしまい、痛くて戦うときに戦えなかったり、襲われたりしてしまうので、このように言うらしいです。
 他にも、「朝の蜘蛛は殺してはいけない」など気付いてみれば私たちの周りにはたくさんの言葉や伝承があると実感することができました。霊柩車が通るときに親指を隠す意味を聞いて、親が早死にしないように、死に目にあえなくならないように、と昔からしていたのは、親のことを大切に思う心が大事にされていたのではないかと思いました。また、先生は、親が子を心配する、大切にするためだとも話しておられました。
 
常光先生のおかげで、私たちが普段は注目していないだけで、実は私たちの周りにはこうした疑問やおもしろいことがたくさんあるのだと気付くことができました。
 そして、言い伝えとしてでもこれからも残していきたい。「誰かを大切にする心」も大事にしていきたいと思いました。

10組 

 今回の講話をお聴きしてとても興味深いお話がたくさんありました。僕は学校の怪談を小学生の時に読んだことがあったので、常光先生に会えてとても感動しました。
 まず常光先生の専門の民俗学のお話をお聴きして、非常に学ぶことがたくさんありました。今日まで僕は民俗学の存在を詳しくは知りませんでした。しかし話をお聴きしているうちに現在の生活文化を相対的に説明する学問であるということが分かりました。日本人が無意識にやっていることや、合理的に説明がつくことの中から古代的な意味を見つけることは簡単なことではないと思います。しかしそれを常光先生は取り組んでおられます。
僕も常光先生のお話をお聴きして、そのような民俗学について興味を持ったので、機会があれば是非調べてみたいと思います。
 他にも常光先生は国立歴史民俗博物館の教授とお聴きして驚きました。昔、母と国立歴史民俗博物館に行ったことがありました。小さかったのであまり詳しくは覚えていないですが、いくつかの時代ごとにフロアが分かれていて、昔の本などがたくさん置いてあったことだけは覚えています。とにかく何か重みがある古いものがたくさんあることを感じました。
 
先生は、誰しも当たり前と思っていることに眼を凝らしてテーマを見つけておられます。普通の人が特に気にもとめないようなことを気に止めて、色々な人から話を聴いたり、見たりして謎を解明する姿勢は大変素晴らしいと思います。今回は、興味が沸いてくる話やためになる話、おもしろい話など様々な種類の話を聞けて本当に良かったです。
 僕は今度、常光先生の民俗学についての本を読み、日本の文化や伝統について学んでみいと思います。
 先生は霊柩車を見たときに親指を自然と隠してしまうことや、汚いものに「エンがチョ」と言ったり、くしゃみをすると訳の分からない言葉を吐くことはいずれも民族文化の鋳型であるとおっしゃっていましたが、僕には良く理解できませんでした。民俗学を調べるにあたって重要な資料となる伝承学についても難しく感じています。多分基本的なものが全くできていないから、理解ができないのだと思います。ですからもっと、こういったことを調べて、勉強してみたいと思いました。
 
古くからの慣習や信仰、伝説、技術、知識などを今の時代だけでなく、後の時代につなげていくことが大事であるということも今回のお話をお聴きしてとても良く分かりました。それは昔話の伝承などということにも、つながるのではないかと思いました。
 今回の話を聴いて考えさせられることが数え切れないほどありましたが、1つ1つ時間をかけながら興味が持てた事は、調べていきたいと思います。
 
これから僕は大学へ進学することになりますが、こういった民俗学や、伝承学を勉強する学部への進学にも興味を持ちました。