常光先生講演会 感想文

 

 

1組 女子

 

 グローバル化が進む中で、外国人と接すると日本人は日本の文化のこと、日本の特徴についてよく聞かされるそうです。日本人として日本についてよく知らなければ恥ずかしいと思います。日本について答えられなければ日本に敬意をはらってもらえないでしょう。グローバル化の今だからこと日本人は日本について、日本の文化についてよく知る必要があり、それはきっと他国の文化に敬意をもつことにもなるだろうと思います。常光徹先生のお話で、霊柩車をみかけた時、親指を隠すと親を守れる、つまり隠さないと親が死んだ入りするという言い伝えを聞きました。その話は母が子供の時にもあったということなので、一般に以前から知られている迷信なのだろうと思いました。先生のお話では、霊柩車が登場してきてからその以前のものが霊柩車に変化したとのことなので、この親指を隠すという仕草は、かなり古くからあるらしく、その広がりは文化の広がり方として興味深いと思いました。古代、文化は西日本から伝わってきましたが、この場合はどうなのでしょうか。さらに中国や韓国ではどうなのでしょうか。興味はつきません。先生のお話から民俗学は生活に根付いた民族の文化・心・精神などを読み解く学問であり、おもしろいと思いました。図書館を利用したり、インターネットで調べたりして日本の文化や伝統について、さらには世界の文化について知りたいと思いました。

 

1組 男子

 

僕は、今回常光徹先生の講話をお聴きして、物事には何でも始まりがあるということがわかりました。先生は、「霊柩車を見たら親指を隠す」というお話や、「ものもらい」や「くしゃみ」の名前の由来などを話して下さいました。そして、これらの名前は、昔のおまじないからきているということがわかりました。そこで、僕は物事の始まりについて興味を持ち、調べてみることにしました。  

 まず、「けりがつく」という言葉についてです。「けり」とは、古典において、よく文末につくことがある言葉です。このことから、「けり」が出てくると終わりになるというイメージが出てきました。そして、「けりがつく」とは、終わりになるという意味になりました。

 次に、茨城県と福島県の間にある「勿来」という村についてです。この名前の由来は、大和時代からきているそうです。大和時代の人々にとって、東北地方は未知の世界でした。また、そこに住んでいる人は、夷人とされ、野蛮人とみなされていました。だから、大和の人々は夷人に対して「来るな」という意味で、「勿来」という地名を付けたそうです。

このように、僕は今回の講演会で、言葉の始まりについて、興味を持ちました。そこで、僕は日常的によくさりげなく使われている言葉について調べてみたところ、色々な面白いことを知ることができました。今回の講演会は自分にとって、とてもいい経験になると共に、色々なことも学ぶことができました。計画して下さった先生方、ありがとうございました。

 

 2組 男子

 

僕は常光先生の講演をお聴きして、日本の中でも自分たちは知らないが他の地域では普通に行われていること、すなわち民俗学がたくさんあることがわかりました。例えば、霊柩車が通りかかったら親指を隠す、カラスを見かけたら親指を隠す、という行為は「親が早死にしてしまう」「親の死に目に会えない」といった理由で行われているらしいのです。これらのことは常光先生がお話されていたことですが、僕の場合、前者は知っていますが後者は知りませんでした。他には祭りや職業の違いなどが民俗学に属すると僕は思います。

 日本の中だけで考えてもたくさんの民俗学があります。では、これを世界に広げて考えてみると、星の数ほどの民俗学があると思います。最近テレビでよく「ある国は主食として蛾の幼虫を食べる」や「ある国では毎日命がけで登校する学校がある」などということを聞きます。それを聞く度に僕は、驚いたり共感したりします。こう考えると民俗学というのはカルチャーショックに似た様なものではないかと思いました。

 僕は民俗学についてはほとんど知識がありません。しかし今回の講話で常光先生のように自分が決めた分野について研究し続けるということに重要性を感じました。今はたくさんの教科を学んでいますが、大学に入れば自然と一つの分野に絞られていくと思います。将来、一つの分野をじっくりと学ぶためには、今はその基礎となる事項を幅広く学ばなくてはいけないと思います。これからも、今学んでいることをしっかりと理解し、じっくりと自分の学びたいことを考え、将来はその分野の研究に携わっていきたいと思いました。

 

2組 男子

 

常光徹先生は専門が民俗学だと言うことを知り、民俗学というものを調べてみたところ「民間伝承を素材として民族文化を明らかにする学問」だと知りました。

 これまで「民俗」という言葉をあまり聞いたことが無かったので、考えたことがありませんでしたが、今回の講演が「民俗」というものを考えるきっかけになったと思います。今回の講演で先生は自分たちの周りにあるものが昔はどうだったのか、何故そのような言い方になったのか、など日頃考えないことまで掘り下げてお話をしてくださいました。くしゃみの話がありましたが、日常生活で出てくる単語の由来を初めて知るものもあり、大変興味深かったです。また「霊柩車が通る時は親指を隠す」「ものもらいの語源由来」のお話も非常に興味をもちました。インターネットで「ものもらいの語源由来」を調べてみましたが、たくさんの考え方があり、人や文化によって意見が変わってくることを知りました。当たり前の日常の中の、気付かないようなところにも様々な歴史があるということを今回の講演会で学ぶことができたと思いました。このように一つ一つの物事を細かく考えていくことも大切であると思います。そしてこのことは、普段の僕たちの学習姿勢にも繋がっていると思いました。今回の講演会を機に、普段考えない日本の文化や伝統を学び、日本人としての誇りを持とうと思います。

 これからは、民俗学的な考えを深めていくためにも、常光先生の著作を読んだり、国立歴史民俗博物館にも行ってみようと思います。

 今回の講演会で、民俗学的な違う視点で物事を見てみると、いつもと違う感じ方、考え方を持てるということがわかりました。

 

 3組 女子

 

今日の講演会では「伝承について」の講話をお聴きしました。おにぎりはどうして三角形の形をしているのか?や、霊柩車を見たら親指を隠すなどの昔から自然と受け継がれてきた風習や都市伝説のような内容の話について、常光先生による民俗学的な視点に立った考え方を聴くことができ、とても良かったと思っています。

いくつかあったお話の中で印象に残った話は、「くしゃみ」についてと、「親指を隠す」の二つの動作や仕草についてです。くしゃみという言葉は、昔は「くさめ」であったことや、くしゃみをすると自分の体内から魂が抜け出してしまうと思い込んでいた昔の人々の話は、民俗学的に考えると色々な意味があるのだなと思いました。また、「霊柩車を見たら親指を隠す」という話も興味深かったです。どうしてこのような動作をするのかというと、親指を隠すことによって、自分の親を早死にさせないという願いや、まじないのような意味があるからだと知って、私は少し驚きました。私はこの「親指を隠す」動作についての話はあまり聞いたことがなかったので、このような意味があるのだと知って、面白いなあと思いました。

常光先生による今回の講演では、日常生活の中で私たちが行っている仕草や動作についての「しぐさの民俗学」を紹介していただきました。そうした何気ない仕草や動作が持っている呪術的な意味や、伝承の倫理、仕草と共に発せられる声などについて、詳しくそして分かりやすくお話ししていただき、普段あまり気にしていない「しぐさ」について興味を持つことができました。昔から自然と伝わってきた日本の文化や伝統を学ぶことによって、日本の文化の素晴らしさや面白さを見つけていけたらいいなと思いました。これからは、普段の何気ない動作を民俗学的な視点から見ることにより、楽しい生活が送ることができるような気がします。

 

 3組 男子

 

僕は、今回の講話をお聴きして、色々と考えさせられ、また新たな発見もあって、とてもためになったと思います。

常光先生は、普段の何気ない日常に秘められた、人々の「行動」の意味とは何かということについて調べる民俗学者ということでした。最初は、民俗学と聞いてあまり興味が持てませんでした。ところが、講演前に渡されたパンフレットを見てみると、予想とは異なり、自分にも興味が持てそうな内容が沢山書かれていました。そして、実際にそのパンフレットに沿って常光先生が講話を始められると、僕は深く聴き入ってしまい、楽しむことができました。僕がお聴きした先生のお話の中で、特に心に残ったことを述べてみたいと思います。

まず初めに、先生が「どのようにして本を書いているか」ということに興味を持ちました。先生は、本をお書きになるときに、「目の前の伝承を見つめる」のだそうです。先生は毎日のように大勢の子供達と接しているのに、彼らの口承の世界についてはほとんど知らないということに気付いたそうです。そこで、そうした子供達の口承について深く注意するようになり、そこからあの「学校の怪談」が生まれたと聴き、すごいなあと思いました。その中で先生は、「あえて遠くに行かなくても、身近な言い伝えや日常の生活の中に、民俗学的な発見していくことの大切さを学んだ」ということでした。これはとても大きな収穫だったそうです。そのため、当たり前の日常の中で起こっていることに目を凝らし、そこからテーマをすくい上げていくという姿勢を忘れてはいけないとおっしゃっていました。これからは、自分も先生のこうした姿勢を見習って、自分なりに挑戦してみようかと考えています。また、こうした先生の謙虚な姿勢は、僕たちも普段の学習の姿勢にも通じる物があるように思えました。

最後に、今回の講話をお聴きして、「日本の文化や伝統を学ぶと言うことは、日本人としての高い精神性を知ることである」ということを学ぶことができ、とてもためになったと思っています。貴重なお話を、ありがとうございました。

 

 4組 女子

 

私たちの日常生活の中には、「そうであって当然である」という、「当たり前」なことが数多く存在します。そして今までの私は、当たり前のことが当たり前であるということに、別段、何の疑問も抱いてはいませんでした。

私はお話をお聞きするまで、常光先生のことをよく知りませんでした。なので、インターネットで調べてみたところ、民俗学について研究されており、また学校の怪談を書かれていた方だということもわかりました。学校の怪談は、私も小学生の頃に本を買ってもらって読んだことがあったので今も家にあります。私が小学生だった頃は、身の回りにある怖い話を友達と語り合っていました。これも一種の伝承だとすると、民俗学を身近なものに感じることができます。

今回、お話を聞いた中で、いくつかの伝承文化の例が出てきましたが、それらはどれも私が普段当たり前なこととして特に気に留めていなかったことばかりでした。しかし、お話を聞き終わった後では、それが「そうだったのか!」という新しい発見となりました。新しい発見のない生活を送るのはさみしく、つまらないことだと思います。これから私は注意深く周りに目を向けつつ、新しい自分の世界を広げていきたいです。

 

 4組 男子

 

今回の講話は、非常に独特な講話でした。霊柩車といえば、T社のリーズナブルなワゴン車が脳裏に浮かびました。テレビで大物芸能人が亡くなった時の御用達はクラウン。霊柩車は人生の一番最後に乗る車でもあります。それ故にこの世を離れたくないという死者の考えも分かるような気がします。親指隠せという話はひいばぁちゃんから聞きました。親指隠さないとあの世に連れていかれるよとも。あの世というのはよくわかりませんし、人間という生き物は知能があるが故に、死に対して邪悪と恐怖を感じています。そのようなイメージが結果的にこのように伝わっているのだと思いました。夕暮れ時が魔物の時間であるともおっしゃっていました。そしてそのあとハーメルンの笛吹きの話もおっしゃられていましたが、あの場で何人が神隠しとピエロ、サーカスをスムーズに繋げることができたでしょうか?少なくともムーやニュートンを隅から隅まで読んでいないとわからないことであったかもしれません。東洋の神隠しは天狗ですが西洋の神隠しは笛吹き、つまりはピエロに近い存在であると言えます。ですので、笛吹きからピエロになったのだと思います。さらにもう一つ重要なことがあります。それはなぜこのような風潮が広まったかという点につきます。神隠しは昔からありますが、霊柩車は大正期ごろにできたものです。どちらにも共通して言えることは悪いものの吹き溜まりになりやすいところであるということです。その時代の風潮が組み合わさり、負のイメージが強いもの、最近では霊柩車が、格好の対象となっています。すべての原因は人間による恐ろしい闇であるのはわかるがそれが一体何なのか見えないという恐怖心であると考えています。民俗学というのは非常に奥が深いと思いました。

 

 5組 女子

 

私は今回、常光先生の講話をお聴きして、初めて「民俗学」について知りました。今までこの学問の具体的な内容を知らなかったので、よい勉強になりました。
 常光先生はお話の中で、いくつかの例を挙げて説明してくださいましたが、その中の「なぜ霊柩車を見たら親指を隠すのか」というテーマが特に印象に残っています。私もこの習慣を知ってはいたものの、仕草に込められた意味までは知らず、ずっと疑問に思っていました。今回、疑問が解けたと同時に、「習慣」の奥深さに驚きました。普段行っている仕草の所々に、数十年、数百年も昔の人々の思いがこもっているのだと思うと、昔の暮らしに思いをはせられずにはいられません。私はちょうど今伝記を読んでいるので、その時代に生きた人々の考えなどをじっくり考えてみたいと感じました。
 ところで、常光先生の著作物の中に「学校の怪談」があることに驚きました。小学生の頃に本や映画を見たことがありますが、あのような怪談話まで「民俗学」に含まれるとは思っていませんでした。たとえ子供向けのものであっても、れっきとした言い伝えなんですね。また改めて読んでみたくなりました。
 最後に、この講話で感じたこと、それは「好きこそものの上手なれ」です。常光先生が生き生きと話す姿や、様々な地域へ行って聞き込みをする行動力は、自分が本当に好きなものでないとできないことだと思います。だから、私も自分が好きなことを伸ばして、生き生きと輝けるようになりたいです。常光先生、ありがとうございました

 

 5組 男子

 

今回、私たちは、常光徹先生より「伝承学について」の講話をお聴きしました。

私は伝承学と言われてもいまいちどのようなものかわからなかったので、「伝承」とはどのようなものかと調べてみました。広辞苑によると、「古くからの『しきたり』(制度・信仰・習慣・口碑・伝説などの総体)を受け伝えていくこと。また。その伝えられた事柄」とありました。残念ながら「伝承学」については広辞苑には書かれていませんでした。ですから、「伝承」という言葉から私なりに「伝承学」を解釈すると、「古くから伝わる文化についての学問」ということだろうと考えました。そう考えてみると難しく、よくわからないものだと思っていた「伝承学」が身近なもののように感じられるようになりました。なぜなら、具体例が普段の会話で使われていたからです。その具体例は何かというと、「ことわざ・慣用句」です。これらは昔の文化や習慣からきたものでありながら、次の世代へ、また次の世代へと受け継がれていきます。今の時代、もう冠はありません。しかし「李下に冠を正さず」という言葉は残り、「他人の嫌疑を受けやすい行為は避けろ」という意味で使われています。また、今の時代、鬼がいると思っている人はあまりいませんが、「鬼の目にも涙」、「鬼に金棒」、「鬼の首を取ったよう」などという「鬼」の使われた言葉も残っています。これらに出てくる「鬼」は強いというイメージを持っていて、「鬼に金棒」はまさに「強い上にさらに強くなること」と「鬼」は強さを表しています。このように、いないと思われ、信じられていないものであっても、昔からのイメージがそのまま残り、いないにも関わらずに、平然と使われています。

私は今回の先生の講話をお聴きして、伝承というものは非常に身近で、かつ、実際に自分も伝承しているのではないか、と思いました。

 

 6組 女子

 

 私は今回、常光先生が民俗学のお話をなさると聞き、民俗学に少し興味のあった私はとても楽しみにしていました。

 まず民俗学について常光先生は、生活の中の伝承やその背景にある意味を研究するものだとおっしゃっていました。そして、その伝承の例として、「くしゃみ」や「ものもらい」の名前の由来や親指を隠すという行為の本来の意味を挙げていらっしゃいました。その全てに共通しているものは、古くからの日本人の霊魂などの考え方です。悪霊や魔物、病、災いといった自分の安全を脅かすものに対して、私たちよりも前の時代を生きた日本人は如何に自分の身を守るかを必死に考えた結果が受け継がれ、その意味は薄れてしまいながらも現代の日本に存在しているのです。このようなことがわかると、普段は何気なく見過ごしていた行動に対しても、何か意味があるのではないかと少し興味が出てきます。

 このような伝承を生み出した人々は、今は当然もう生きていません。ですから、当時の人々が何を考えていたのか、直接聞くことができません。しかし、このような伝承される物事の一つ一つに思想などといったものが如実に現れていると思います。これは仕事などに限らず、文学作品や絵画のような形として残るものにも言えることです。その時代の背景の中で人々が何を思ったかを知ることができます。常光先生も、精神面を明かすことが民俗学の課題だとおしゃっていました。そのようなことが読み取れてしまう点に、私は古来の日本文化を学ぶ面白さがあると思います。私も古来の日本の信仰など思想面にはとても興味があります。実は見落としているだけで、そのようなことに対するヒントは日常生活の中に潜んでいるかも知れません。ですから、いつもとは違った視点で身の周りを見直してみたいと思います。

 

 6組 男子

 

 今も昔も怪談や都市伝説のようなものは絶えずありつづけ、生まれています。人はそれを時に恐れたり、信仰心や感謝などの感情を持ったり、無意識のうちに受け入れてきたりしました。例えば、食事の場合、「いただきます」「ごちそうさま」と言うのは当たり前にやっていることですし、親戚の供養のためにお墓参りをすることも同様です。他にも数えればきりがないほどに日常の中には過去から伝承してきたものがあります。けれども、時代背景や生活も大きく変わってきているのに、なぜこんなにも伝承されてきたものが多いのか。それは本質的なところで、人の心は今も昔も変わらない普遍的なものであるからだと思います。先ほどの例では食べ物やそれに関わってきたものへの感謝や祖先を敬うことからできる心を、昔も今も、人々が持っているからこそ伝承されているのだと思います。また、そのような良いこと以外にも戦争や紛争などの人同士の争いが絶えないのもこういった事が関係しているのではないかと思います。

 伝承されてきたものの中には一見どうでもいいように思える事もあるかもしれません。しかし、昔の人々はその何でもないような事に特別な意味を持たせ大切にしてきたのです。くしゃみの例では、これは何か得体の知れないものの仕業だと考え、そこに意味を持たせる。意味を持たせることにより、そこに確かな事象を生み出し、何でもないような感情的にとらえているのです。また、そうして生み出すことにより、自分では理解できなかったことを身近に感じ取ることができ、そこから冷静に考え学び取る。こういった繊細さや情緒を大切にしていかなくてはならないと思います。しかし、現代を生きる我々は経過していく時間の中で起こっている物事に、何かを感じ取ることができているのか。今も昔も物事に気づく眼を養っているかが問われてくるのだと思いました。

 

 7組 女子

 

 私が初めてパンフレットを見たとき、民俗学という言葉はとても堅苦しく感じられました。また「民俗」ではなく「民族」だと思っていたので、世界各地をまわり、いろいろな民族を調べる学問だと勘違いしていました。そのためか、あまり興味がわきませんでした。

 しかし、話が始まってみるとだんだんおもしろいと感じてきました。話の最初に語られたおにぎりの形はなぜ三角形なのかなど、身近なことも考える学問であると思いました。普段、自分が考えたこともないことを知ることができ、とても知識が深まったことが多かった講演でした。おにぎり、くしゃみなどいつもなら何も思わないことも名前の由来などを深く調べてみると新しい発見がみつかったり、自分が興味のある分野に繋がったりすることがあるということもわかりました。特にくしゃみがおまじないのようなもので、万葉集や徒然草が編集された時代にもくしゃみのことが書かれていたのは驚きでした。くしゃみをすると誰かに噂をされているということは聞いたことがありましたが、回数によって噂の内容がいろいろあることは知りませんでした。くしゃみのように、今、私が知っている様々な事柄ももっと深く調べてみたならばより詳しい内容もでてくるのではないかと思いました。

 今回の講演では、様々な内容の起源をしることもできましたが、様々なことに興味をもって調べてみることが新しい発見に繋がっていうことがわかりました。自分が当たり前に思っていたり、していたりすることも、調べてみるといろいろなことがわかったりすることもあると思います。全部を普通だと思い込まず、深く調べ、知っていくことが普段の生活にも必要なことのように思うことができました。

 

 7組 男子

 

 今回講演をしてくださった常光徹先生は民俗学者ですが、僕は民俗学というものをほとんど知らなかったので、まず民俗学とはどのような学問なのか、調べてみました。民俗学とは、「民族に伝承されてきた風俗・風習などを調査し、その民族の生活史・文化史を明らかにしようとする学問」です。民俗学のテーマは日々の生活の中にあります。例えば、なぜおにぎりは三角形なのか、などと言ったことです。

 僕は、先生のお話をお聞きして印象に残ったことが二つあります。一つは、くしゃみについてのお話です。くしゃみは、「くさめ」という語が変化した言葉で、くしゃみをすると寿命が縮まると信じられていたので、そこで早死にを避けるために「くさめ」と言う呪文を唱えるようになった、というお話でした。鎌倉時代の吉田兼好の「徒然草」にも「くさめ」という語が使われていて、この語には、とても長い歴史があることがわかりました。

 二つ目は、霊柩車についてのお話です。僕が霊柩車について知っていたことは、霊柩車を見たら親指を隠さないと父親が早死にしてしまう、ということです。しかし、先生はそれ以外にも親指ではなく人指し指を隠すところや、何もしないところなど、地域によって違うと言うことをお話してくださいました。

 それぞれの民族で異なった文化があれば、それが伝承されてきて、ほかの民族とは違ったその民族特有の文化となります。そして、それをその民族の習慣などから見るのが、民俗学です。民俗学的な視点から物事を見つめることで、その民族の文化や伝統を学ぶことができます。もっと日常の中に目を凝らし、多くのことを学んでいきたいと思いました。

 

 8組 女子

 

今回、常光先生のお話をお聴きして、私たちが普段何気なくしている動作や言動にもそれぞれの深い歴史があることに驚きました。地域による文化のちがいは方言や食文化に表れていますが、それ以外に日常的な習慣にも様々なルーツがあって、遥か昔の日本から現代の日本にまで影響を与えているということにとても関心を持ちました。

私は、「伝承学」というジャンルの学問を常光先生の講演で初めて知ったのですが、昔から現代まで伝えられている事柄というのは、先生のお話の中にもあった霊柩車のお話などをはじめとして、挙げていったらきりがないものだと思います。また、昔からの習慣がそのまま現代に残っていなくても、形を変えて現代に影響を与えているものもたくさんあるのだと思います。時代がどんどん新しく進んでいっても昔の文芸作品などをいつまでも美しいと思えるのは、表面的には文化が変化していても、その奥には昔から伝えられた何かがあってそれに共鳴するからなのかもしれないと思いました。

昔から伝え続けられているものというのは、一つ一つにその理由があるのだと思います。食文化などにはその土地の特徴がよく表れるといいますが、昔の日本人の生活の知恵から生まれた習慣を大切にし、後世に伝えていくことが重要だと思います。

私たちが現代の習慣として捉えている言動などにも、気付いていないだけで、まだまだ昔から伝承され続けているものがたくさんあるのだと思うと、知らないということがとてももったいないことに思えてきます。今回のような講演を通して、自分の知らない世界を知ることができたことに感謝したいです。

 

 8組 男子

 

僕は、常光徹先生の講演をお聞きして、次のようなことを考えました。まず一つ目は、物事には由来があるということ、二つ目はそれぞれの時代の最新の技術とは何か、ということです。

まず一つ目の物事には由来があるということについてですが、現在では普通に話されている言葉や、何気なくやっている習慣にも、昔からの伝統が受け継がれているのです。今回の講話では、おまじないを中心とした内容でしたが、ほかにも昔とはまた違った意味を含んでいたことがまだまだたくさんあると思うと、わくわくします。僕は以前、今では標準語として使われている言葉が実は小さな村だけで通じていた方言だったなどといった話を聞いたことがありますし、お正月のおせち料理に関するならわしについて調べたときに、そのような感想を持ったことがありました。例を挙げるときりがありませんが、このように、物事の由来を考えてみると、非常に興味深く感じます。

次に二つ目の当時の最新の技術とは何かということについてですが、僕が考える「最新の技術」とは、その時点で可能な限りの知識といったものを総動員し、最善を尽くしたものであると思います。最新技術とは言っても、歴史をたどっていくと、現在では「なんだ、この程度か」と思えるような「当時の最新技術」があるはずです。当然のことながら、現在のすばらしい最新技術も、未来の人々からすれば、「なんだ、その程度か」と思えるようなものになるかもしれません。しかし、最新技術は現時点で最善を尽くした技術であり、講話の「おまじない」も含めて、当時の人々が「これが一番よい方法だ」と認めたものです。だからこそ、このようなことが今も別の形で伝わっているのだと僕は思いました。

僕は、このような物事の由来といったものには興味がありましたが、今回の講話を通して、無意識のうちにかかわっている身の回りのことにさらなる興味を持ちました。そして、見落としがちな身の回りのことについて、目を向けてみることが大切なのではないのかと思いました。

 

 9組 女子

 

私は、今回の常光先生の講演を伺うまで、民俗学という学問が一体、どういったものなのかよく分かりませんでした。常光先生曰く、民俗学とは私達の日々の生活の中で、その事柄が何故、そのような在り方をしているのかということに疑問や関心を持ち突き詰めていく学問だそうです。また、その背後で引き起こっている現象を明らかにしていくことも、民俗学ではとても重要視されているそうです。

民俗学の中では、その種類によって分類されており、年中行事や民具、民話など多くの種類に分かれているそうです。その中でも、常光先生は民話や伝説、怪談などを専門としていると仰っていました。私はそのお話を伺い、とても心惹かれました。日本には迷信や俗信などといったものが、未だ根強く息づいていると思います。それを示すものとして、学校での怪談話や昔話は誰もが一度は耳にしたことがあるでしょう。このようなものに限らず、各地方独特の習慣も現代に引き継がれ、続いています。私は、何故そのような逸話や習慣が生まれたのか、その時代背景はどのようなものだったのか、ということについてとても興味があります。

今回、例として挙げられた「霊柩車を見たら親指を隠さないと、親が早死にしてしまう」という俗信についても、今までに聞いたことはありましたが、何故そのような俗信が現代にまでも伝わっているのか、という事は知りませんでした。常光先生のお話を伺うと、親指を隠すという行為は以前からあったそうです。昔は、魔物や物の怪などは指と詰めの間から体内に侵入してくる、と考えられていたそうです。魔物や物の怪が体内に入ってしまうと病気になったり、死んでしまったりすると考えられていました。ですから、病人の看病をする時や夜道を歩く時、カラスが居る時など、人が恐怖や不安を感じるような状況下で親指を隠したようです。時代が変化すると共にお葬式の在り方も変化し、棺を運び出すときに葬列から霊柩車を使用するようになりました。今まで葬列を見て親指を隠していたのが、時代の流れによってその対象が変化し、現代の霊柩車を見たら親指を隠す、というものに変わっていったそうです。

このように、昔から伝えられてきた伝承というものは、その時代の生活に密着し、文化に強く影響されているのだということが良く分かりました。昔の人たちの知恵の結晶である伝承を後世に伝え、誇りある日本の精神を守り続けていきたいと思います。

今までに述べてきた通り、民俗学は、多くの系統の知識や、その一つ一つに対しての深い知識、さらに多方面からの視点を必要とする学問のようです。この事は私にとってとても考えさせられる事だと思いました。一つ物事に対して一方の視点から考えるのでは、とても傾いた考え方になってしまいます。それでは、自分自身の視野を狭めてしまいかねません。民俗学のように、多くの視点から物事を見つめ、今までに積み上げてきた知識を使い深く考え、自分自身の思慮を深めていきたいと思います。

 

 9組 男子

 

民俗学―僕の最初のイメージは古来の人々の生活や行事などを詳しく研究し追究する、つまり私達とは遠く離れた存在であると思っていました。しかし実際に常光先生の講話を聞いたり、パンフレットなどを読んでみたりすると自分のイメージと違うことがわかりました。確かに古来の人々の生活や行事も研究しているそうですが、研究で終わってしまうのではなく、上手く現代の生活と結びつけ、私達にもわかりやすい内容になっていました。

常光先生の語りもお上手で、お話を聞いているうちに民俗学の世界に引き込まれていきました。特にくしゃみの話は興味深かったです。くしゃみが記されている最古の書物は万葉集です。万葉集はくしゃみは「はなひる」と記されているそうです。今と昔では言葉の言い方は違えども、それにまつわる噂は同じことに驚きました。その万葉集に記されている内容からその時代からくしゃみとは自分が噂されているときに出るものだそうです。今と全く同じなので、人間の伝達能力のすごさにも驚きました。しかし僕はここで一つの疑問が浮かびました。なぜ人間はこんなにも素晴らしい伝達能力を持っているのに言い方は正確に伝えなかったのかということです。最初は「はなひる」と言われていて、次に「くさめ」となり、今の「くしゃみ」になったといわれています。「くさめ」から「くしゃみ」になったのはまだわかりますが、なぜ「はなひる」から「くさめ」になるのか不思議でたまりません。しかしこれを追究するとなると、日本の歴史までも深く調べなければならなくなるので、もちろん簡単ではありませんが、いつかは調べてみたいと思います。

次に霊柩車の話も興味深かったです。僕は霊柩車を見たら親指を隠す習慣はこの話を聞くまで知りませんでした。意外にも周りの友達が知っている人が多かったのでびっくりしました。しかし意外にも親指を隠す理由は単純でした。「親指を隠さないと自分の親も死んでしまう。」あまりにもそのままだったので、少しがっかりしました。要するにこれは病に対する恐れということです。このように考えるとこの本来の意味は自分自身への災いを防ぐまじないということになり、くしゃみの話ともつながってきます。これを聞いたときは、大げさですが、少し感動しました。人間の心理とは、そのまま表に出すのではなく、何かを経由するものなのだなと思いました。このように民俗学とはただ単に過去の精神世界を明らかにし、古来の人々の生活と今の生活を比べるのではなく、人間の性質なども明らかに出来る、とても奥の深い学問であると思います。これらのこともふまえれば人間の未来のことも予想できると思います。ただ単に予想するのではなく、過去のこともふまえ、人間の性質を理解して予想します。そのように考えていけば、未来に備えることも出来ると思います。民俗学は無限の可能性を秘めた興味深い学問であり、これからも身近な物事を多面的に見るための大切なヒントにしていきたいと思います。

 

 10組 男子

 

僕は最初「伝承学」と聞くと、自然豊かな山深い集落に伝わる言い伝えや「昔、昔あるところに・・・」とはじまるようなものだと思っていました。比較的都会に住んでいる自分とはあまり関係のないものだと考えていたので、最初は話しについていけないのではないかと思っていました。しかし、常光先生の話をお聴きしていると、「霊柩車を見かけたら親指を隠す理由」や「なぜものもらいというのか」など、自分の身近な所での内容で、驚きました。言われてみれば、普段自分たちが常識として当たり前のように使っていることや仕草などの理由を考えてみると興味が湧いてきて調べてみるのも面白いと思いました。そして、それが「伝承学」の魅力といえるところなのかなと僕は感じました。話の例としてあげられた霊柩車の話ですが、僕自身も振り返ってみると、小学1年生くらいのときから行っていたと思います。親指を隠す理由として、隠さなければ親が死んでしまうと親から教わっていました。なぜ親指を隠すのかは常光先生のお話を聴くまで知りませんでした。なぜ昔の人は親指から悪いものが入ってくると考えたのか。他にも、ものもらいの名の由来のお話。なぜ近くの家の人からおにぎりをもらうとものもらいが治ると考えたのか。昔の人の考えることは面白いと思います。それが本当なのかどうかも気になります。

 また、常識を次の世代に教えることでそれは「伝承学」であると思います。「伝承学」は歴史を含めながら考える素晴らしい学問であると感じ、自分の当たり前なことを調べてみるなど、「伝承学」に触れていきたいと思いました。

 

 10組 男子

 

常光先生がお話ししていた「身近なテーマ」を聴いて、「ウワサの起源」というものに、改めて感想を持ちました。

 常光先生のお話の中で、今で言う「くしゃみ」の昔の発音や、その意味などが紹介されていました。昔と今では、言葉は違いますが、感じ方は同じであると私は思いました。古くから「くしゃみ」という生理現象の形式は変わっていないわけです。変わったのは、その生理現象を示す「言葉」だということです。では、その「言葉」の起源はどこから求めているのかということに、私の関心は注がれました。恐らくは、文字ができて間もない頃にできたのでしょう。そうでなかったとしても、できた時から今まで語り継がれた、もしくは書き継がれたのだとしたら、ものすごいことであると思います。これは、ある程度「都市伝説」に似ている部分もあるように思います。何かしら魔力のような、力のようなものが働いているかのように、人から人へと次々に伝わることができているのですから。

 昔の都市伝説的なものが今に伝わっているのなら、今の都市伝説的なものは、これからどう後世に語り継がれていくのでしょうか。今の都市伝説的な事柄は非常に多く存在します。そして、ある地域ごと、極端な例では「一つの場所」ごとに、そういったものは存在します。どうして今ではそんなに多く存在するのかといえば、やはり「人」の数が起因していることでしょう。今では世界の人口は約70億人と増加しています。人が多くなればその分会話などのコミュニケーションも多くなります。そうすれば、これまでより多くのことが伝わるのは、当然なことです。しかし、それでも昔からほぼ共通していること、人の感じ方というのは変わらない訳です。これからは、昔から共通の「感じ方」で、今ならではの「伝え方」で多くの事柄が後世に語り継がれ、または書き継がれていくのだと、私は思います。

 



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