体育祭

応援団長

黄組   白組   青組   赤組

生徒会役員・アナウンス

黄組


 僕は正直に言って、最初は自分に応援団長が務まるとは思ってもいませんでした。周りの友人にも「俺は副団長でいい」と話していました。そんな僕がなぜ団長を引き受けようと思ったのかというと、何人かの女子から「君にしか団長できないよ」と嬉しくなるようなことを言われたからでした。
 今になってみると、本当に軽い気持ちで引き受けていたと思います。しかし、そんな僕にも気持ちを引き締め直すきっかけが訪れました。それは後輩達が「あまり楽しくない」「団長は何をしているのだろう」と話しているのを聞いたときでした。その晩、僕はお風呂の中で「自分が何をすれば、みんなが楽しく笑顔でやっていけるだろう」と考えました。そして、僕が出した結論は、朝練には誰よりも早く行き、ダンス練習のときには誰よりも声を出すことでした。そしてみんながつらいだろうと感じたときは、みんなを笑顔にできるように励まそうと思いました。
 僕は本当に不器用な性格で、何かに熱中するとそれ以外に目を向けることができなくなってしまいます。僕は応援団に力を注いでいる分、部活動が疎かになっていました。部活の仲間、キャプテンには本当に申し訳ないことをしてしまいました。しかし、そんなときでも部活の仲間やキャプテンは「団長頑張れ」と励ましてくれました。サッカー部に自分は支えられているのだと実感できたことにより僕は応援団に専念することができました。ありがとう、サッカー部。そして悩んでいるときに励ましてくれた、他の色の団長さん、ありがとう。こうして、多くの人に支えられて、体育祭当日を迎えることができました。体育祭の本番では中等部生もみんな一緒になって応援に参加してくれました。ありがとう。体育祭が終わった後、こんなダメな団長を「最高の団長」といって胴上げしてくれたことは本当に忘れられません。女子団長、副団長、ダンスリーダー、いつも支えてくれて本当にありがとう。
 こんな団長に最後までついてきてくれた後輩達には本当に感謝しています。みんなで踊ったことは忘れないで欲しいです。みんなの笑顔を僕は忘れない。黄色組最高!そしてお疲れさまでした。

白組


 最後の体育祭、白組団長として臨んだ。「団長」は中1からの、ささやかな夢だった。1ヶ月前、そのささやかな夢はあっさり叶った。だが、自分の役割を果たすまで、本当の団長にはなれない、名ばかりの団長で終わってしまう。白組を頂点へ導く。それが僕の役割だと思っていた。僕の組は、本当に運が良かったと思う。メンバーはどこの色にも負ける気がしなかった。ダンスの練習も約1ヶ月前から始まった。今でも最初の練習は鮮明に覚えている。日が経つにつれて、練習の参加人数も増えていった。毎日練習をした。皆ダンスをどんどん覚えていくのが一目でわかる。嬉しかった。だが、突然皆が来なくなり出した。皆、ダンスを覚えて練習に来る意味を見出せなくなったのだろう。余りの少なさに悔しくて泣く高3の生徒がいた。それを見た僕は、初めて皆に怒った。「やる気ないなら、やめろ」と。正直、失敗だった。そういうとき、僕は怒らずに上手く皆のモチベーションを高めるべきだった。おかげさまで、翌日の練習から参加人数は多くなったが、メンバーとの距離は遠くなった。応援団はメンバーとの信頼関係なしでは成り立たない。最も大切なものを失った。それからが大変だった。本番までに信頼を取り戻せるかわからなかった。1週間前、休日のグランド練習。陣形を確認する、大切な練習だった。だが、そのときまた僕は怒ってしまった。本番がもうすぐだったため焦っていた。翌日、月曜は普通に練習するつもりだった。ただ、あと5日でこの応援団が終わるということを考えると、涙が止まらなかった。僕は練習に集中できなかった。応援披露のときのスピーチの内容を考えると、今までのことが頭に浮かんできて、涙が出そうだったのを必死にこらえていた。本番を迎えた。応援披露の順は3番目だった。競技の方で勝つのは、正直言って厳しい状況だった。だから応援披露は優勝したかった。応援披露は僕らの実力だ。負けたくはなかった。本番前、緊張は一切しなかった。やってきたことをやる。あっという間に終わった。今でも踊っているときのことを一切思い出せない。リレーの決勝、アンカーとしてランナーを待っているとき、赤組団長と抱き合って泣いていた。本当のラストラン。もう、江戸取で全力でトラックを走ることはない。ビリでバトンが回ってきた。全力で走った。ゴールしたくなかった。僕がゴールした瞬間、最後の体育祭が終わるから。ゴールした。閉会式。点数発表。応援披露、最初に白組が発表された。次いで、赤、黄が発表された。白が勝っていた。予想通り。最後の青。白が負けるとしたら青組にだろうと思っていた。196点。4点差で負けた。196と192。悔しかった。涙が止まらなかった。閉会式の後、優勝していないのに皆が胴上げをしてくれた。人生初の胴上げ。最高の仲間を持った。家に帰って携帯を見たら、たくさんのメールが来ていた。「先輩が団長で良かった」「白組で良かった」。読んでいたら涙が止まらなかった。翌日、高2の後輩とお互い電話していたら泣いてしまった。「来年の体育祭、おまえが引っ張れよ」と言ったら「先輩がいない体育祭なんて考えられません」と言われた。嬉しかった。その後「団長になります」と言っていた。他にも「2年後必ず団長になります。きっかけを聞かれたら2年前の団長と答えます」「団長になりたいです」という声を何人かから聞いた。そのとき、後を継いでくれるような人を作ることが僕の本当の役割なんだと実感した。よくよく考えてみれば自分もそうだ。高1のとき、長友先輩に、高2のとき牧野先輩に憧れ。こうやって伝統は引き継がれていくのだと思った。来年、再来年の体育祭で、今年の白組のメンバーが体育祭全体を引っ張っている姿を見たい。楽しみだ。自分に付いてきてくれた皆に感謝している。本当にありがとう。白組の絆よ、永遠に。

青組


 今年の体育祭は、僕が今まで生きたてき17年間で最も思い出深いものとなりました。僕が青組の団長に決まったとき、絶対に優勝するぞと意気込んだと同時に、自分に団長が務まるのかという不安が過ぎりました。去年も僕は応援団をやっていたため、団長がどれだけ大変なのか、何となくではあるけれどわかっていたし、今年の青組には自分よりも団長に適した人がいると感じていたからです。
 そんな不安を抱きながら始まった応援団でしたが、だからこそ僕は人一倍頑張ろうと思いました。昼休みに青組応援団を集めて初めて練習したあの日、人数の多さに驚きつつも、自分が団長としてこの青組を引っ張っていくのだということを実感しました。青組応援団が始動してから、体育祭当日までの一ヶ月間は本当にあっという間でした。いつも応援団のことばかり考えていたと思います。他の色の団長と選曲や練習場所で意見が衝突したり、予定通りの練習が上手くいかず、新たな課題が見つかって焦ったりと、そのときは大変でしたが、そんな日々がどれだけ充実していたのかを考えると良い思い出です。
 高2がカナダ修学旅行に行ってしまったときは、寂しく、練習も盛り上がりに欠けるところがありましたが、高1と高3で乗り切ろうと頑張りました。高2が帰ってきてから、また活気が戻りました。
 声を大にして言いたいのは僕が先頭に立ち、その他のみんながついてきてくれたわけではない、ということです。一緒に曲を選んでくれる人がいて、ダンスの振りを考えてくれる人がいて、練習に積極的に参加してくれる人がいて、青組の雰囲気を盛り上げようと声を張り上げてくれる人がいて、他人にはわからないところで努力してくれる人がいて、そんな青組の仲間がいて、お互い支え合ったからこそ、青組は一つになれたのだと思います。
 僕は練習期間中ずっと、青組の何よりの強みは団結力だと思ってやってきました。団結力というものは簡単に得られるものではありませんが、青組には間違いなくそれがありました。青組全員が優勝することを強く望んだから。
 だから青組で良かった、と言ってくれる人が何人もいましたが、その気持ちは僕も同じです。青組のみんながいたから、支え合ったから青組は応援1位を取ることができたのだと思います。とても良い思い出として心に刻まれました。青組、ありがとう。

赤組


 僕は、2011年度の体育祭に高等部三学年赤組の応援団長として臨みました。しかしその体育祭は、こういうものだったと表現することは容易ではありません。僕は体育祭で、色々なことを学び様々な人々と触れ合う中で自分のあらゆる面を見つけることができました。そこで自分の未熟さを痛感し、人間的に成長しようという意志を持つことができました。この作文を通じて、どのような事があったかを振り返ってみようと思います。
 思い起こせば、応援団の練習が始まったのが、およそ一ヶ月前からでした。今振り返ってみると、それは楽しいことばかりではなく、辛いことも数多くありました。赤組の先頭に立つ者としてみんなを統率しなければならないという責任。良い方に転ぶのも悪い方に転ぶのも自分にかかっているのだというプレッシャーに負けそうになったこともありました。その中で僕が学んだことは、自分のどの行動、どの判断に対しても赤組として責任を持たなければならないということです。こんなもので良いだろうという妥協も許されません。団長としての使命を完璧にこなしたかと問われると、そんなことはありません。むしろ副団長や女子の団長の存在が僕にとってとても大きかったです。今回、赤組は見事優勝を達成しましたが、赤組が獲得した得点は全て中等部と高等部の赤組メンバー一人一人が一生懸命闘って勝ち取った得点です。誰か一人のおかげというわけでは絶対にありません。一人一人の努力の結晶、それが赤組自体なのです。
 こんな大人数で一つの目標のために一生懸命になれる機会はめったにありません。僕は、そんなみんなが一丸となれる体育祭がとても好きでした。高校三年生、最終学年としてリレーも走ることができました。僕は、この体育祭で得ることのできた教訓を基に、今後の人生も生き生きとした生活にしていきたいと思います。

生徒会役員・アナウンス


 生徒会は、体育祭の実行や運営をするに際し、主として事務的な作業、競技に間接的に関わるような内容のことを行ってきました。生徒主体で行っていく体育祭の実施に当たっては、生徒を代表する私たちが体育祭を率先して、各色応援などを含めた様々なことがらに関与していく必要がありました。
 私は、生徒会長になって、体育祭を率先しなければならない立場にありました。生徒会という組織は学校全体を率いていくような心構えで事に当たる必要があったのです。自己分析をしてみても、私は指導者たる要素も少なく、しかしながら周囲からの信望と期待については、私も恐縮してしまうほど感じ取ることができていました。周囲が、私に対して信望をもって任せてくれことを考えれば、私は大変な幸せ者だと言わなければならないでしょう。そのような信頼をもとに、一大学校行事である体育祭に、曲がりなりにも生徒の代表として、関与することができたのですから。
 信頼の思いは、目に見ることのできないきわめて抽象的なものですが、私はこの体育祭を通して久々に、信頼というものの重要性を、改めて認識したように思えます。人々の社会活動は、この信頼に根ざしているといっても過言ではなく、個人の過ちや失敗に際しても、この信頼があるために人はみな協力し合っていけるのだろうということを自分の体験を通じて痛切に感じました。周囲の先生方の信頼があったからこそ、私は体育祭での仕事を成し遂げ、貢献することができたのだと思います。


 本当にあっという間の1日でした。今までで一番楽しかったです。体育祭の準備期間はとても長く感じましたが、終わった今振り返ってみると、短かったのだな、と思いました。
 生徒会のメンバーで集まって、体育祭に向けて準備するものを確認したり、当日の役割分担を決めたりしていたときに仕事内容などを色々聞いて「何かすごく大変そう。自分にできるかな」と不安になっていましたが、メンバーの一人が「こういう仕事って裏方って感じでいいよね。いい経験になりそう」と言うのを聞いて「体育祭は、今まで陰で支えてくれる人たちがいたから無事に開催できていたのだ。今年は自分たちが裏方を務め、大成功させよう!」と決意しました。体育祭の日がだんだんと近づくにつれて、中等部・高等部の生徒会メンバーと一緒に仕事をする日が増え、お互い様々なことを話して、より一層仲良くなることができました。このチームワークなら、絶対に成功できるぞ、と思いました。
 当日、私は結果発表、召集係で大きな責任を感じました。「自分が失敗したら大変なことになる。絶対ミスはしないぞ」と強く思いました。大変な仕事でしたが、やっている最中にとても充実感がありました。仕事の関係で、ほとんどの競技を本部で観戦しました。応援席で観戦するのとはひと味違っていて、表情がよく見えました。「絶対に勝ってやるぞ!」という意志も伝わってきました。私は競技にあまり出ることができませんでしたが、観戦していて、自分も一緒になって参加しているように感じました。マイクで結果発表を言うとき、競技に出場できない分、心を込めて元気よく言うことを心がけました。そのせいか、言い終わったときはいつもすがすがしい気持ちになりました。
 最後のリレーが終わって、後片付けのとき、満足感で心がいっぱいでした。私が入っていた赤組が優勝したことももちろん嬉しかったですが、無事に終えることができて本当に良かったと思いました。生徒会の仕事として、たくさんの仕事を任せていただき、自分にとってプラスになることがたくさんありました。
 帰りに生徒会のメンバーで集まって、本当に大成功で良かった、とみんなで喜びました。陰になって支えることができるかどうか不安でしたが、私としては無事に仕事を全うできたのではないかと思います。充実した高校生活最後の体育祭でした。

 僕は今回の体育祭において生徒会役員として競技、並びに体育祭そのものを運営するという形で支えました。僕にとって高等部、そして人生最後の体育祭を裏方として過ごしたときに、友人から後悔をしていないか、ということをよく訊かれます。僕は今回の体育祭を裏方として参加できて、とても満足しています。
 僕は今年で生徒会役員を二期にわたって務めています。そして、去年の自分に同じ質問をすればきっと今年とは逆の返答が返ってくると思います。その理由の一つには仕事の内容の差が挙げられます。というのも、去年の仕事の内容と今年の仕事の内容を比較すると、去年の仕事の内容が簡単なものだったので拍子抜けしてしまったからです。仕事をするからには、やはりやりがいのある仕事でなければ、やっている自分自身に充実感が得られないと思います。しかし、次に挙げる理由がこの気持ちの変遷において最も大きなものです。僕は高校3年生になり、他者のために何かをすることについての喜びを、そして他の生徒会役員をはじめ、体育祭実行委員や先生方など自分以外に多くの人々が体育祭という学校行事を支えているという連帯感を覚えたからです。確かに、傍からは雑用ばかりをこなすので、まるで貧乏くじを引いたかのように見えてしまいますが、そうした「他の生徒のために」という気持ちを各々が持って今回の体育祭に臨んだために、体育祭、高3にとって最後の体育祭を成功へと導くことができたと僕は自負しています。
 最後の体育祭を開催していただき、先生方に対しての感謝の気持ちと、裏方として従事した責任感を胸に、これから大学受験を迎え撃つ受験生として、そしてこの後の紫峰祭などの学校行事の運営に携わる生徒会役員としても、一年間、気を弛めることなく学校生活を送りたいと思います。


 今回の第34回体育祭は、私にとっては6度目の体育祭であり、この江戸川学園取手での最後の体育祭でした。それだけに、とても印象の強い出来事として心に残っています。
 生徒会として、体育祭の準備のため放課後に残って作業をしていましたが、やはり体育祭の日が近づくにつれ、日に日に忙しくなり、体育祭を楽しみに思う気持ちと、まだ始まって欲しくないという思いが複雑に重なり、なんとも言えない気持ちになりました。終わった今になって振り返ると、体育祭までの準備期間も含め、もちろん体育祭自体も、あっという間に過ぎてしまった気がして、寂しさに似た気持ちがあります。
 また、今年で六度目の体育祭ですが、初めて応援団として四色応援対抗披露に参加しました。生徒会としての仕事があったため、なかなか競技中に応援席で自分の組を応援するということは出来ませんでしたが、その分を埋める程の気持ちで精一杯やりきることが出来たと自分では思っています。その甲斐もあってか、応援対抗では見事に優勝をすることができ、満足感と達成感に満たされました。
 クラス替えから約1ヵ月ほどしか経っていませんが、この体育祭では、まとまった雰囲気を創り出せたと思います。この経験を活かせば、これから卒業までクラスでもまとまった、良い雰囲気で過ごすことができると思います。そして卒業する頃には、きっと体育祭以上の感動が待っていると思いました。今回の体育祭は高校三年生である私にとって、クラスで参加できる最後の学校行事となりますが、その体育祭を、このようにとても良い形で終えることが出来て、自分にとって大きな自信と誇りになりました。


 第34回となった今年の体育祭。高3の私にとっては6回目、最後の体育祭でした。
 私は、体育祭において、主に二つの仕事を請け負っていました。一つは、トラックの真ん中で競技の結果発表を行う「進行係」としての仕事、もう一つは、午後の最初のプログラム「応援披露」をする応援団の手伝いです。進行係の仕事をさせていただくのは、去年に引き続いて2回目でした。以前から私は、玉入れの「玉数え」や棒引き「棒数え」をしたいと思っていました。私が「いーち」と言うと、皆さんが「いーち!」と言い、玉入れであれば硬式野球部の皆さんが自慢の肩で玉を高く上げ、棒引きなら棒が倒されていく。私がやっていることといえば、ただ単に皆さんをリードする形で数字を言っているだけなのですが、私の声に続いて皆さんが元気に数を数えてくれたり、数字が増えていくにつれて会場のテンションが上がっていったりして、私はそれが楽しくて仕方がありませんでした。去年に引き続き、この仕事ができて、私はとてもうれしかったです。
 一方、応援団の手伝いは、初めての仕事でした。具体的には何をしたかというと、体育祭前には、体育祭を運営する生徒会と応援団との架け橋となり、また、応援披露の際の音楽の再生・一時停止のタイミングを掴むために、各応援団の練習に参加しました。体育祭当日には、音楽の再生・一時停止の操作をしていました。赤組、白組、青組、そして黄色組。どの色の練習も、最初から最後まで見ていました。最初は、ダンス同好会やチア部を引退した高3生が作った凝ったダンスを、みんなが苦労しながら練習していました。GW明けから隊形確認が始まり、本番1週間前からは、グラウンドも使って、本番と同じように通しでやる練習をしていました。練習をずっと見てきただけに、「ああこれで最後だ」という感慨に加え、応援披露という名の、応援団のパフォーマンスが完成されたことがとても嬉しく、また各色のパフォーマンスに、何度も見ていながらもやはり感動し、音楽の再生・一時停止の操作をしながら、私は応援団の皆さんよりも早く涙していました。
 私はどちらの仕事も、自分から先生に、やらせてくださいとお願いしました。それは、体育祭を盛り上げたい一心からでした。私がどれだけ、体育祭の盛り上がりに貢献できたかは正直わかりませんが、私なりには、できうる限りのことはやったつもりでいます。 高校生活、そしておそらく人生最後の体育祭、私は働きづめでしたが、とても楽しかったし、感動しました。そんな充実した体育祭にできて本当に良かったです。

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