第7回 道徳授業を終えて

1組 文化の多様性

 僕は、今回の第7回道徳「文化の多様性」という千葉先生のお話をお聞きして、『文化』に対する理解をより一層深めることが出来たと思います。
 文化と文明の違いについて、千葉先生は、「文化」は人間の精神に基づくものであり、「文明」は、人間が具現化し、技術として遺したものだとおっしゃいました。そして、主な文化の種類として代表的な“衣・食・住”の3つの文化を挙げられました。
 まず、“衣”は、服飾文化と言い、日本人が身につける服は、「和服以前の服」「和服」「文明開化以降の洋服」など、時代に合わせてより便利な物になるよう、利便性を追求してきました。しかし利便性だけを追い求めてきたのではなく、同時に、美しさ、機能性等も時代とともに要求されていき、今では様々な種類の服があります。
 次に、“食”についてです。日本には様々な種類の食があり、お正月に食べる正月料理、お花見をしながらみんなで食べるお花見弁当等々、日本は昔から、魚や植物等の自然の恵みを食べていました。当然、食べ物もその時の季節と結びついていて、行事の時に食べる料理にはそれぞれ意味があります。また、そのような日本の伝統的な料理は、平成25年にユネスコ無形文化遺産に登録されました。
 最後に“住”です。日本は南北に長く、北は北海道から南は沖縄まで、気候は様々です。その為、寒い冬が厳しい北海道では、二重窓等その他沢山の厳しい冬を乗り越える為の知恵が詰まっています。また、反対に、蒸し暑い夏が厳しい沖縄では、台風での強風や、雨から家を守る為に、家の周りに石垣があったり、最近では、海までの距離が非常に短いため、川の水がすぐに海に流されてしまうので、コンクリートの家の上に大きな貯水タンクを置いて雨水を貯めておいたり、様々な家が増えています。
 僕は、この衣・食・住の三つの文化を見てきて、どれもその土地や気候等の環境下で、生活をより良く、より楽しく、より快適に生き抜く先人達の知恵袋であるということを知ることが出来ました。また、情報社会と言われているこの世の中、未来の文化がこれからも沢山新しく出来ることは言うまでもありません。その文化に対する理解をより一層深めたいと思いました。


2組 社会の一員として

 私はこの講話を聞いて、初めて知ったことや気づかされたことがたくさんあります。
 一つ目は人間はまだお母さんのお腹にいて生まれてきてもない時でさえも『家族』という社会の中に属しているということです。そもそも社会というのはその社会の中の人々が影響を与え合う事で成り立ちます。そのため、人間は、お母さんのお腹にいるだけでお母さんや、お父さんや、おじいちゃん、おばあちゃんなどに影響を与え『家族』という社会の一員となります。私は、まだ生まれてくる側としての経験しかないため、お腹の中にいるだけで『家族』と思い、その『家族』の一員として受け入れるという感覚をはじめて考え、知ることができました。
 二つ目は人間が成長していくにつれ属する社会が大きくなっていく事です。私は今まで自分が属する社会について考えてことがなかったのですが、自分が今まで属していた社会や、自分がこれから属していく社会について改めて深く考えることができました。人間は生まれたばかりの時は『家族』という社会にしか属していませんが、成長するにつれてクラスメイトという社会、同じ学校という社会など、属する社会が増えていきます。私はこれから学校内だけじゃなく、世界中の人々といろいろな方法で関わり、自分の属する社会を大きくし、増やしていきたいと思いました。
 三つ目は、自分の属する社会は生きていく上でとても大切なエネルギー源になったり、支えてもらえるものだという事です。そのため、私はただ、社会に属するだけじゃなく、その社会のためになることをしていって、自分が困った時に助けてもらったり、誰かが困っている時には助けられるようにしたいなと思いました。私はこの講話を通して、『社会』の大切さについて深く学ぶことができました。ありがとうございます。

                     

3組 ルールについて考える

  私たちが住む日本には多くの「暗黙のルール」つまりモラルやマナーなどといったものが多く存在しています。食卓や公共の場など、場に応じ様々なルールが存在しており、一見当たり前のように思わされる基本的なきまりです。では、なぜルールといったものは存在し、またそれを侵してしまうとどのような影響が起こりうるのでしょうか。「自分一人だけなら、さほど悪影響はないであろう」などといった心のゆるみが原因となり、基本を失ってしまえば、それがやがて規模が拡大されるにつれ、事故・人的災害あるいは、ルールを無視することで相手への思いやりに欠け、相手側が自殺してしまう、つまり自分は加害者になってしまうというケースも無いとは言い切れません。
では、その「心のゆるみ」とは、どういった状態を指すでしょうか。
 一つは、「ルール」を安易なものととらえている状態です。特に、暗黙のルールは、さほど社会に取り上げられる回数も多くなく、大きな罰則も設けられていないため、あまり認識することはありません。そのため、「損をしない」というのを口実に容易にルールを破ってしまう ―その連鎖が、大きな障害となって自分だけでなく、周りの人たちにも悪影響を及ぼしてしまうのです。
 もう一つは、「連帯的意識」に欠けている状態です。人は、誰しもそれぞれの看板を常に背負いながら暮らしています。例えば、所属しているチームのメンバーが、ある事件を引き起こしてしまったとします。チーム内で、事件に関係ないAさんがいた場合、Aさんは、「自分は関係ないから」と事件に何の関心も寄せなければ、何の進化もありません。これでは、Aさんがこの事件を教訓とせず、大きな失敗を侵し、周りにも迷惑をかけざるを得ません。これら二つの要因が、残念ながら過去に何度も繰り返され、メディアに大きく取り上げられています。
 このような失敗は何故繰り返されているのでしょう。では、こういった失敗はどのようにしていくことにより防ぐことができるのでしょうか。それは「主体性」と「思いやり」です。これらはリーダーの条件の中核の役割をしている大事なものです。社会をより良くしていくためには、ルールは欠かせません。しかし、ルールに縛られていては一人一人の個性を発揮するには難しい面もあります。私たちは、常に「ルール」の意義を心にとどめ、主体的に実行していく必要があります。「自分のことだけ」では視野を広げることは不可能です。私は、周りに対し思いやりの心を持って、主体的に声をかけられるお手本となれるよう、努力していきたいです。
               

4組 国際社会に生きる

 私は「多様性」と「一体化」を両立してより良い社会をつくりあげていくためには、世界全体の目標を決めて、それぞれの国がそれを達成するために努力すればよいと思います。この世界全体の目標は、すぐに解決しなければならないもの、今後地球への世界への影響が大きいものにしぼる必要があると思います。なぜなら目標が多すぎると一体化するのが難しいからです。そして、それぞれの国で努力するというのは、国によって課題や現状が異なるからです。もしいくつかの国で争いが起こりそうだったら、その国同士で対話をしたり、他の国が仲介をしたりすれば一体化しやすくなるのではないかと思います。以前、私は友達に誘われ、その友達が所属している団体が行っているイベントに参加しました。その団体には、外国から日本に来て働いている、あるいは学んでいるという方が五人ほどいました。その時に、私は参加費として五百円を払いました。私はそこで他の参加されていた方達(この中に外国から日本へ来た人も含まれています)とゲームをしたり、流しそうめんをしたり、いろいろな楽しいことをしました。そしてお菓子を少し、お茶を一本、おにぎり一個をもらい、さらにその会場の最寄り駅まで私たちを車で送ってくださり、車の中では私たちが楽しめるよう、ディズニーの曲をかけ、本当に優しくしていただきました。
 この経験から学んだことは、貝森先生がおっしゃったように「おもてなし」を言葉で伝えるのは難しくても、行動をすれば相手に伝わるということです。団体の外国から来たメンバーは、おそらく日本語がぺらぺらで発音もきちんとしていたので、日本に長くいるのだと思います。その方たちに私が逆に教えられるほど、「おもてなし」の精神があるのは、私は日本での経験などによるものだと考えました。今、国際化・グローバル化により、外国に行きやすくなっている(コロナがなければ)と思います。そこで、自分からいろいろな国に行き、たくさんの人の行動を見て、そこで自分が良いと思ったことをやってみれば、自分をよりよくしていけるのではないかと思います。そして、文化が薄れるということについてですが、グローバル化・国際化が進む中で、私が金沢に行った時に周りに外国人が多くいたように、私は外国人観光客が多く来ているので、その人達に向けてもっと日本の文化について知れたり、体験できたりできるようなことをPRすればある程度薄れるスピードを遅くしたり、それを有名にしたりできると思います。そして、国際化・グローバル化している中で、これからもっと英語が話せるようになることが求められると思うので、英語の勉強を頑張りたいです。



                    

5組 自己肯定感を高める

 僕は、自分の事が好きで、自信が無い訳ではありません。自分自身の好きなところは、誰にでも優しく接することが出来るところです。自分の嫌いなところはガリガリで力が弱いところです。腕相撲でいつも負けてしまいます。僕はドラムをやっているので、バスドラムを踏む時に力が弱くて音がすぐ小さくなります。僕の個性は、とてもマイペースで、どうでも良いことに細かいところです。学校でもマイペースさが出ている時があります。例えば、帰りのホームルームが終わった後に帰りの準備をするのが一番遅い時があったり、一つ一つの行動が遅かったりすることがあります。なぜ、人一倍遅いのかというと、色々なことを考えながら行動しているからです。これをする事のメリットは、その行動でミスが起こることが少ないことで、デメリットは、結果的に時間が掛かってしまうことです。どうでも良いことに細かいというのは、「それを整理する?」というような感じです。例えば、トランプをしまう時に、そのカードの数字とマークを順番に揃えてしまったり、シャーペンの芯をいちいちしまったりほぼ無意識にやってしまいます。そんなどうでも良い個性でもこれからは、大切にしていこうと思います。
 僕は、今日の授業で教材としてお話して頂いた席を譲る話について共感したことがありました。僕も一回、江戸取のバスの席に座っていて、前におばあさんが立っていたので席を譲ったら、とても感謝されました。その時は、席を譲って良かったなと思いました。そして、これからも席を譲っていこうと思いました。やっぱり感謝されなかったとしたら、やはりムシャクシャする感じが少しすると思いました。それは、本心には、席を譲ることは良いことだと思っている自分がいて、その一方心の片隅には、感謝されたらやる気が出る自分がいます。このような自分がいることでムシャクシャするのだと思います。感謝されなくても思いやりの心を持つという個性も理想の一つです。

               
6組 命の尊さを知る
 今回の命の尊さを考えるという中で、思わず泣きそうになってしまうようなお話が沢山ありました。癌にかかった方が最後の最後まで頑張っておにぎりを作って子ども達にお弁当を作った話など、病気などで大変な中、努力している方がいるにも関わらず、自分は全然努力をしていなく、のんびり毎日を生きています。そんな自分がとても情けなくて、駄目だと思いました。先生がおっしゃっていたように、健康で私立の中学校に行けるような環境に生まれてきたので、しっかりと生きていきたいと思いました。まだまだ自分には努力が足りていません。ユーイング肉腫を患った山ア直也君が自分がつらいのに他の人のことまで考えていることに感動しました。
 「命とは自分に与えられた時間です」という日野原先生の言葉がありますが、時間とは僕は与えられた権利だと思います。時間と権利は似ています。生きている時、命があるときは何でもできます。良いこと、悪いこと全てできます。これらは権利だと思いますが、子どもである自分達には義務もあります。親がいる中で一生懸命生きることは義務だと思います。様々な考え方ができる命ですが、考えているだけで少し悲しくなってくることもあります。悲しいとき、明るく考えることも大切だと思います。
 今回多くの大切な命の話を教えていただきましたが、一番心に響いたのは親が癌になってしまうという教科書の話です。僕のお母さんはいつもおいしいお弁当を作ってくれています。とてもおいしいです。感謝していますが、あまり直接伝えたことがないです。明日は親がいなくなっている可能性もあるわけです。ちゃんと感謝を伝えて行きたいと思います。当たり前だと思ったら駄目だということがよく分かりました。もし、教科書の話のようにお母さんが作ったおにぎりが最後のおにぎりと分かったら自分だったら泣き崩れてしまいます。ですが、もしそのようなことがあったとしても、そこで強く生きていけるかどうかが大切だとも思いました。


  

 

7組 友人の多様性を受容する

 僕は、今まで思いやりとは、「相手が気持ちよくなるようなことをする」ということだと思っていました。しかし、この授業を受けて、僕が思っている相手が気持ちよく思うことは自分だけが思うものであり、もしかしたらそのことを相手は不快に思うことがあるかもしれないと考えました。僕は、「各人が大切にしていることを自分も大切にすること」が重要だと思っています。そうすれば、相手が不快に感じることがなくなると考えられるため、これが本当の「思いやり」だと思います。僕は、配られたプリントのきしもとたかひろさんの文章のしつけやマナーが滅びるという仮説は本当に実現してしまうのではないかと思いました。しかし、僕は、食事の作法などはしつけとして残し、マナーは思いやりという形にしていくのがよいと思います。これまでせっかく受け継がれてきた箸の持ち方などといった作法をなくしてしまうのは、日本独自の伝統文化を損なうという観点から僕はいけないことだと思います。僕自身は、万一反論されようとも、「これが日本に古くから伝わる文化なのだ」と言い、徹底させたいと思います。対して、マナーの方は、型がなくなってはしまうけれども、本人が、まわりの人が不快に思わないようにしてくれればよいと思いました。僕は、社会が多様性を尊重しても、日本や外国の文化、各地域に根づいた文化を守っていくこと、すなわち、途絶えさせないことが重要だと思います。僕は、「ゴールを実現するために正しい行動か?」ということが規律だと考えます。自身であれば、将来の夢を実現するために正しい行動をしているかが規律になるということになります。僕は、この規律を常に頭に置きながら生活を送っていきたいと思います。規律は不明瞭で、自身の中でも整理し切れていませんでしたが、ひとまず、自分なりに考えた規律を軸にしていこうと思います。多様性が進もうとも、なくなってはいけないものが存在すると考えました。

        

8組 自由と責任

 私は今まで、自由とは自分の思い通りに何でもすることだと思っていました。しかし、自由に行動するには責任も伴うということを知りました。確かに、修学旅行などで、自由行動という時間なのに、ここからここまでと場所が制限されており、全然自由ではない、自分の思い通りにできないのではないかと、とても不満に思っていました。ですが、そう思うだけで特に深くは考えませんでした。今回、自由とは何かを考えているときに、先生が「人は自由という権利を持つと同時に、道徳やルールを守る義務がある。」と言っていて、確かにその通りだなと思いました。道徳やルールを守る義務がないと、みんながみんな自分の考えだけを優先してしまったり、周りに迷惑をかけてしまったりして、事故や喧嘩がたくさん起こってしまって大変なことになってしまいます。しかし、ルールや規則があったら、それは自由ではなくなってしまうから、この世に自由というものはないのではないかと頭が混乱してしまいました。ですが、自由に伴う責任とは与えられた自由を守ることと聴いて、ルールや規則があるから、自由というものは存在しないと考えるのではなく、自由というものを守るために責任があるという考えもあると知って、先程までは、責任があるから自由がないと思っていましたが、今の言葉を聴いてやはり自由というものは存在するのだと改めて知ることができたので良かったです。また、ルールや規則というのは、自由を守るための「方法」であって責任ではないというのを聴いて、ある程度の制限がある時にそれは自由ではないと思う考えが変わりました。これからは、ルールや規則があっても不満に思わず、むしろ「自由を守るためにある」と、とらえていきたいと思いました。