令和元年度
高等部1学年 道徳感想文
第7回(1月14日)


テーマ:私たちはなぜ学ぶのか

今回の道徳の授業では、自分たちが学ぶ理由や、世の中の人々が考える学ぶ理由について、深く知ることができました。私は質問1に対して、「自分のため」と答えましたが、昔からこのように考えており、自分が一生懸命学ぶことで、他の人たちをサポートするすることができる知識を身に付けることができ、それを用いて世の中を少しでも良くできるような人間になりたいとずっと思っていました。しかし、最近の子供たちは「将来の夢はユーチューバー、理由は楽して稼げそうだから」と言って、世の様々なことを学び、自分の知識にしようと考えずに生きていることが多くなっています。ユーチューバーの方々を馬鹿にするわけではありませんが、本気で目指している人ならともかく、軽はずみな気持ちでただ楽をしたいという魂胆が丸見えな人がなりたいと言っても、私からしたら、その場しのぎか、ふざけているようにしか見えません。私は自分が学ぶ理由を、「様々な物事に関する知識を身に付け、自分自身の人間としての価値を高めること」だと考えています。今、学ぶことを避け、楽をすることも一つの選択肢としてはありますが、それは罪深きことであり、確実に自分の将来のためにはなりません。私は少し前までは、今を適当に過ごしていました。しかし、二学期の中間試験の結果を見て、自分の考えがどんなに浅はかで馬鹿げたものかを知ることができました。そのときから、私はどんなに無駄で、将来役に立たなそうなことでも、どこかのタイミングできっと役に立つ時が来る、と思うようになりました。また、共感できる理由として、私は「視野を広げるため」と「ストレス耐性を身に付ける」を選びましたが、それらを選んだ理由としては、視野を広げて物事の全体を見まわしたり、ストレスに対する耐性を早いうちに身に付けることによって、自分が社会人になった時、全体を見て指示することができ、たくさんある仕事にも諦めず取り組むことができる、まさに今の社会が求めている人材になることができると思うからです。だから、高校生・大学生のうちにたくさんのことを学び、自分の血肉として蓄えて、世の中の役にも立ち、自分が楽しいと思えるような仕事に就けるように努力したいです。



テーマ:私たちはなぜ学ぶのか
私は今まで「なぜ勉強しなければいけないのか」ということを考えたことがありませんでした。『両親や学校の先生がやりなさいと言っているからやらなければならないんだ。ならやっておいて損はないだろうからやっておこう』という考えでした。そのため、なぜ勉強しなければならないのかという疑問について、道徳の授業の際に初めて考えました。私が授業を通して考えた「勉強をする理由」は二つあります。一つ目は、将来やりたいことをできるようにするためです。二つ目の理由は、損をせずに生きていけるようにするためです。一つ目の理由については、道徳の授業を受ける前から両親に言われていたので、それが私がずっと思っていた勉強をする理由でした。しかし、二つ目の理由は今まで誰かに言われたことも、考えたこともなかったので、説明を聞くまで理解することができませんでした。説明を聞くと納得できる理由だったため、すごく面白いと感じました。正直に言うと、私はこの一年あまり勉強を頑張れていませんでした。今からでも勉強を頑張れば、損をせず自分のやりたいことができる将来にすることができると思います。なので、私はこれからは勉強を頑張っていきたいと思います。

 

   

 

 



テーマ:ルールについて考える

私は今回の道徳の授業を通して、「ルール」といったものがどのように役に立っているのかが分かりました。まずルールは、スポーツのルールや社会のルール、また学校のルールなど様々なものが存在しています。そして、その種類ごとに何を目指しているのかも異なっています。スポーツのルールは、双方のチームが公平な条件で競技ができるということを目標として定められており、これを無視したり、反則したりしてしまうと、個人やチームが不利益を被ってしまいます。社会のルールでは、不文律・成文律があり、効果として犯罪の防止につながったり、モラルやマナーを正しくするといった効果があります。学校のルールでは、宝塚音楽学校予科生の不文律には、私服で赤い服を着てはいけないといったルールや、阪急電鉄に乗車する際1番後ろの車両を用いるといった様々なルールがあり、細かいところまで暗黙のルールである不文律が定められていました。このような社会やスポーツ、学校のルールはなぜ存在するのかと考えたとき、私は安心して生活したり、安全にスポーツをしたりできるようにあると思います。その中でも学校のルールについて考えると、自分勝手な人を減らしたり、集団生活を行っていく上で一体感や秩序を保つために学校のルールはあると思います。しかしその中でもルールを破ってしまう人も存在します。なぜルールを破ってしまうのかを考えたときに思い浮かぶのは、欲が先行してしまうといった理由です。こういった人たちを減らすためには、ルール自体をなくしたり緩くしたりするか、今よりももっと厳しいルールにするしかありません。もちろん前者は最後の手段であり、後者が選ばれると思います。しかし人の心理には、ルールに反発したいといったものも存在していて、より厳しいルールになるにつれて反発する人の数が増えてしまうと思います。このようにルールを厳しくしてしまうと今までより、ルールを守らない人が多くなってしまう恐れがあります。これがルールの難しいところだと思います。そのためにも一人一人がルールに対しての高い意識を持って、ときには辛抱してよりよい生活を心がけて、「ルールだから守る」と言う考え方ではなく、「尊重したいから守る」という考え方にしたいと思います。

 

   

テーマ:ルールについて考える

私はこの道徳の授業を受けて、ルールが必要であると改めて感じました。そう感じた主な理由として、スポーツのルールと社会のルールがないと大変だと思ったことが挙げられます。私自身陸上をやっていたので、自分が現役で走っていた時、ルールがなかったらと思うと恐ろしいです。陸上は1センチ・1秒が命取りのスポーツなので、ルールがなければその努力が全て無駄になってしまいます。他のスポーツであっても、例えばバスケットボールであれば「トラベリング」、「ファール」、「30秒ルール」、「バイオレーション」など様々なルールがあります。私が大好きな漫画である「スラムダンク」でも、ルールがあるからこそ最後まで勝敗がわからず、努力が報われた時に嬉しかったり、仲間と勝利を掴めたりしたときには心から喜べたりするので、読者も楽しむことができます。また、それと同時に共感もできます。私が現役でバスケをしていた時にも逆転シュートで勝利をつかんでいたチームを見たことがあります。なので、スポーツはルールがあるため、選手たちは一生懸命練習に励み、勝つために努力を惜しまないのだと思います。社会のルールにおいては、公共の場で平気で寝転んだり大声で叫んだりする人が少ないと思います。それは人々が迷惑行為であるとわかっているからです。しかし、何がダメで何がいいのか、人々が分かっていなければ国を維持することも不可能だといっても過言ではないほど国が乱れてしまいます。そう考えると、社会のルールは存在し、守られるべきことだと思います。なので私は、ルールというものをきっちりと守ることができる人間になりたいと思うとともに、当たり前を当たり前と思わずに生活したいと思います。

 

 



テーマ:いじめのない社会

今回の道徳を通して、いじめについてしっかり考えることができました。初めに、大津でいじめが原因で自殺した人の話をお聞きして、いじめの内容が想像をはるかに上回っていてとてもひどい内容だと驚きました。よく漫画や小説の中で、いじめについての内容も目にしますが、それが多少なりとも大げさに言っているものだと思っていました。しかし多くの内容が実際に起こっていると知りました。幸いにも自分の周りでこのようないじめは起こっていないと思うし、起こったことがないと思うので、とても驚くとともにそんなひどいことをする人間、それを見て見ぬふりをする人がいるのだと衝撃を受けました。しかし自分ももし周りでいじめが起こっていて、相手もとても嫌がっているという状況になって、そのいじめを止めに入れるかは分かりません。その場にいない今現在であれば絶対に止めると言います。しかし実際にその場に居合わせたら、次の標的は自分になるのではないか、1人だけ目立った行動をとったことで周りから何か言われるのではないか、もしかしたらいじめられている側にとって余計なお世話なのではないか、といろいろ考えて行動できないかもしれません。多分このような考えで見て見ぬふりが横行し、いじめが広まったのかもしれないと考えました。またプリントで配られた、いじめの例として女子3人グループの問題は、私も中学の時に実際に似たようなことがありました。もとは2人で仲が良かったのに、2人組に1人加わったことにより相手が後から加わった子と仲良くなり、自分はその3人組の中では孤立しました。他にも仲の良い子がいたので不登校になったり、その2人とも特別に仲が悪くなる事はなく終わりました。しかしちょっとでも状況が違っていたりしたら、もしかしたら学校に行けなくなっていたかもしれないと思いました。また一人一人考え方・感じ方が違うので、自分にとっては何とも思わないことが相手には苦痛になってしまうのかもしれないし、その逆もあるかもしれません。これから日々自分の行動・言動・態度などしっかり考えていきたいと思います。

 

 

 



テーマ:いじめのない社会

今回の道徳ではいじめについて考えました。この問題は、今まで小・中学生の時にも何度も考えてきました。今までは、なぜいじめはだめか、いじめられた人の気持ちを考えることでいじめに対する意識を改めてきました。しかし今回は、定義や心理的な気持ちから客観的に、そして論理的に考えたので、今までとは違った新しい視点から考えることができました。法律上でのいじめの定義ではだんだんと限定的な言葉が外されていると初めて知りました。私はそれを聞いた時、より多くのいじめを裁けるようになったというポジティブな考えではなく、毎年のように新しいいじめが生まれ、時代が変わるたびに新しいいじめが生まれるので、当時の定義では対応しきれなくなってきているというネガティブな考えが浮かびました。例えばSNSの使用率が上がったことで、心理的ないじめが増えたことが挙げられます。このように考えると、私はいじめをなくす事は不可能だと思ってしまいます。しかし減らすことや起きてしまったいじめの悪化を止める事はできると思っています。その方法こそが今回の授業の内容なのだと思いました。「ルールで守られている感覚」「リレーション」がいじめを減らすために大切なことだと聞いて納得しました。確かに集団の雰囲気・集団間の関係が1人に対するいじめと密接に関係してると思います。そう考えると、いじめを減らし悪化を防ぐためには加害者にならないようにすることよりも、集団の1人として傍観者にならないようにすることが大切だと思いました。今の時代はSNSが広まっていて、他の人からはわからないような陰湿ないじめが増えているように思います。このようないじめの場合、起きてから見つけることは難しいため、やはりそのようないじめが起きないように、未然に防げるように雰囲気作りを大切にしていきたいと思います。そのためにもまずは自分の行動を見直して考え直していきます。