第5回道徳を終えて


1組 

私は今回の道徳で3つのことを学習しました。まず1つ目は、LINEなどのSNSでの危険についてです、私は竹中先生が教えてくださった17の事例のうち、次のことが身近に感じました。「スマホの使用による日常生活への支障」と「無料通話アプリなどでの悪口や仲間外れ」、そして「SNSやネットで知り合った人による性犯罪被害」です。先生がスライドでも説明してくださりましたが、「あと少しだけ」という意思・気持ちは命取りになる行為です。私もスマホを持っていますが、制限はかけていません。つい、休日の前日には寝る直前までスマホをしていることがあります。これは少し習慣付いてしまっているので、時間をしっかり決めて使用したいと思いました。正しい使い方を完全に身につけたいです。また、教科書でも取り上げられていましたが、SNS上に一度書き込んだものは消すことができません。ネット上で友達や先生などの悪口を言うことは、本当にしてはならないことなので、自分の言葉に『責任』を持とうと思いました。「トラブルが起きたら、ネット上ではなく、必ず直接会って話をする」ということを先生から教わったので、もし起きたトラブルがたとえ小さなものであっても。しっかりと話し、反省して解決したいです。インスタグラムやツイッターなどには、顔のわからない人と知り合うチャンスが何度もあります。私は、会ったこともない人と友達になって仲良くなるということは絶対にしたくないです。たとえ自分と同い年といっても信じません。嘘をついているかもしれないからです。そのようなことで誘拐されたという事件を、私はニュースで見たことがあります。人とつながることができるアプリでは使い方を守って勝手に友達になったりしないようにしなければならないと強く思いました。アカウントや口座を乗っ取られたり、情報を知られて個人を特定されたりなど、SNSにはたくさんの危険が潜んでいます。そのような被害にあわないために、個人情報やパスワードの管理、そしてSNSの使い方を見直そうと思いました。

    

                


2組 

今回の道徳は、日頃の自分や周りの行動を見直すきっかけをくれる時間となりました。江戸取が目指す「規律ある進学校」になるためには、生徒一人一人が規律を心がけなければいけません。そのためには、よく「規律」の意味を理解する必要があります。「規律」と聞き一番に思い浮かぶ言葉は「思いやり」です。小学校六年生の時、進学説明会をここ、江戸取中学校のオーディトリアムで行いました。その時に校長先生から「規律とは何か?」と質問されました。それは思いやりだと教えてもらいました。その前までは「規律」と聞くと、少しかたいイメージがありましたが今ではかたい勉強だけではなく、人として大切なことや人を思う気持ちのことだと理解することができました。しかし、今回の道徳で貝森先生は、イメージだけではなく「規律」と言われたら自分の言葉で答えられるようにして、言動全てをよくしなければならないとおっしゃっていました。私達は制服を着て学校で生活したり登下校しています。制服というのは江戸取の看板と同じものでそれだけの重みを背負っているということを日々感じながら、生活をしたいです。私だけが心がけても意味ないので、周りにも呼びかけや注意がけをしてクラス、学年、江戸取全体をよくしていきたいです。自分だけ良ければいいという気持ちではなく「地域に愛される」ように地域の人に挨拶をしたり、気づかったりして「江戸取を挨拶もできる地域に愛される学校」にしたいです。その他募金やベルマークなどのボランティア活動を積極的にしていきたいです。私が目指している医者は人のために働く職業です。世のため人のための何かをすることができる優しさを持つために、毎週月曜日の道徳をよく聞き、道徳などの授業を主体的に受けます。家族やクラスでの役割も一生懸命にします。

                       



3組 

僕は今回の道徳の授業を聞いてとてもためになりました。僕がまず驚いたことは入学してから今まで苦情がこなかった週は一度もなかったということです。これを単純計算すると、2回きていた週もあったということなので1週間の平均苦情件数を5回とすると入学してから今まで13週間なのでこれまで約18回も苦情がきていたことになります。これを1年間そのままにほっておいたとすると年間78回も苦情が来ることになり、1つの苦情に電話の受け答えや生徒特定、そして指導をするのに3時間かかるとすると年間234時間も費やすことになります。これでは指導する先生も大変ですし指導を受ける生徒もその時間がもったいないです。だから苦情件数を一刻も減らさなければいけなくその第一歩としてまずは僕が注意されないようにして周りにも注意を呼びかけようと思いました。次に僕がためになったことは公共心と公徳心の意味です。確かに募金も節約も社会の利益になりますしボランティアも社会のために行っています。でも僕が公共心の意味を聞いて最初に思ったことは税金です。税金は払ったところで自分の利益にはほとんどなりません。でも高齢者の方々や子供達、そして社会のために出しているのでこれも公共心だと思いました。公徳心の「自分が社会の一員であることの自覚」と聞き、先生もおっしゃっていた通り2回前の山田先生がやってくださった道徳の授業を思い出しました。人間が複数人集まった時点でそれは大きからず小さからず社会でありその社会が円滑に進むためにする行為も公徳心と言うのだと思いました。最後に以上のことを踏まえて江戸取の苦情を無くすためには社会の為によく考えて行動をし、自分がその社会の一員なんだということをよく自覚をし周囲の人と注意をしあい、自分でも気をつけて行動することが大切だと考えました。規律は自分で自分を制御できること、規則は他人に自分を制御されることです。江戸取は決して「規則ある進学校」になってはいけなく自分で自分を制御できる「規律ある進学校」であらなくてはならないなと感じ、規律ある進学校の名にふさわしい生活をしていこうと改めて心に強く決めました。

                      




4組 

今回の講話をお聴きして、私の中での「社会」の概念が大きく変わりました。今まで「社会」とは、大人の組織のようなイメージがあり、子供の私たちには関係ないものだと思っていました。しかし、今回の講話で、「社会」の辞書的な意味を調べました。そこで、「社会」とは「集まり」「集団」のことで、決して「大人の」組織ではないことを知りました。つまり、私たちにも関係があるということです。ここで、この講話のテーマの「社会の一員として」という言葉と結びつきました。中学生であっても、何らかの集団に属している以上、「社会」の一員であるということを意識して生活していかなければならないと思いました。また、その人のことが考えられている以上、産まれる前も、死んだ後も、「社会の一員」であるということをお聴きして、最初は少し不思議に思いました。なぜなら、本人はまだいない、もしくはもういないのに、「社会」の一員だということになるからです。しかし、よく考えてみると、当たり前だという気もしてきました。その人が「社会」の一員であるから、産まれる前も死んだ後も、その人のことを考える人がいるのだと思うようになりました。この例を考えてみて思ったことは、「社会」の一員であることは、うれしいことだということです。なぜなら、産まれる前からも死んだ後までも、その人が愛されているということだと思うからです。私もそのような人になりたいと思います。その「社会」の中で愛されるためには、その「社会」に所属している人々の関係が良好であることが必須だと思います。だから、多様性を理解したり、一人一人が自分の役割を見出せるようにすることに貢献はしても、その「社会」を乱すような行為はしないようにしたいと思います。

  

                   


5組 

今回は友人との人間関係について教えていただきました。多様性を受容するということは性格、好み、考え方、性別など、自分とは全然違う人を受け入れることです。音や光が苦手な人もいます。そういう人は他の才能がすごいことがあります。人間の特徴として集団で行動することを好む一方で、考え方や価値観の違うものを排除しようとします。「この人と私は違う」ということを勝手に心が生み出しているのです。だからこそ、今の友達を大切にしようと思いました。人と人は考え方が違うので、分かり合うことが大切だと思いました。戦争は国と国との考え方の違いを話し合いじゃなく暴力で決めようとすることから始まります。そうしないように、考え方の違いを受け入れてしっかり話し合うことが大切です。お互いに相手の意見を受け入れることが大切だと思いました。考え方が違うからこそ新しい考えが浮かびます。考え方が全て同じだと新しい案が生まれません。意見を主張しすぎるのも良くないですが、意見を主張しなさ過ぎるのも良くないと思います。だからちょうどよいところで相手と話し合うことがよいと思いました。また、人類共通の夢は「幸せになりたい」という夢です。幸せになりたくないという人はこの世にはいないと思います。幸せとは、人から認められることや居心地がいい所があること、安心して一日一日が過ごせることです。戦争があるようでは人類共通の夢は果たせないと思います。今日の一日を安心して過ごせることはとても幸せであるということを今回の道徳の授業を通して感じることができました。「友人の多様性を受容する」ことを今後の学校生活でも意識していきたいです。


  
 

                   



6組 

今回の道徳で、色々な方が考えている平和や命の大切さについて聴き、自分の命の大切さについて考えさせられました。僕が考える平和とはこの地球にいる人々全てが人種によって差別されない時代をつくり戦争という悲惨な出来事で物事を解決するのではなく話し合いで決めることができるという世の中です。なぜならこのような世界をつくれば無駄な血を流さずに済み、お互いの命を大切にできるからです。また全ての人が平等になることができるからです。僕も山内さんと同じくお金持ちになることや有名になることが幸せであるのではなく、家族と友達と一緒に笑え合えることが幸せであると思っているので、家族で話し合えるときはスマホを見たりせずに話に加わるようにしたいです。次にいじめについてですが、自分たちがいじめだと思っていなくてもやられている人がいじめだと言ったらそれはいじめになってしまうので自分の発言や行動には十分に気をつけていきたいと思っています。そして身体的なことは変えたくても変えることができないものなのでそれをネタにしてからかうことは絶対にやってはいけないことだと思います。全ての命が替わることの出来ない大切な命です。相手の命を大事にしない行動が絶対に起こらないようにしていきたいです。そして学年で一番すばらしいクラスを作り上げていきたいと思います。この世界には生きたくても生きることのできない人がいます。そういう人の分まで生きていかなくはならないんだと思いました。そしてテストが思うような結果でなくても、自分の思っていることができなくても、すぐに死にたいとは言わないようにしたいです。今後世界を平和に、そして幸せにしていくために、まずは自分の命を大切にして、生活していきたいと思います。今日の道徳は自分の心を打つ話でした。


                    



7組

今回の道徳で考えたこと、学んだこと、感じたことがたくさんありました。一つ目は、礼儀の「形式によるもの」です。千葉先生が教えてくださったもの以外に、私のグループでは「古くからある日本の運動」の中にもあるのではないかという考えが出ました。剣道、柔道、弓道などです。私たちは今、体育の授業で剣道を学んでいますが、練習が始まる前、そして終わった後には、神棚に向かって礼をします。弓道もそのようなことをします。私は弓道部に入部していますが、練習の始まりと終わりには、神棚に向かって「二礼・二拍手・三礼」をします。私は、これも礼儀だと思います。他には「道」がつくものが多いと思います。書道・華道・茶道なども、礼儀があるので、スポーツにかかわらず、すべてのものに礼儀があるんだなと感じました。これからもっとたくさんの礼儀について調べてみたいです。二つ目は、言葉によるものです。尊敬語・謙譲語・丁寧語というものがあるのは知っていましたが、二重敬語や最高敬語は知りませんでした。天皇陛下など、身分がとても上の方に使う絶対敬語についても知りました。三つ目は、監修・風習によるものについてです。私が歴史の本を読んでおり、元寇の場面がありました。その中に日本人とモンゴル人の一対一のシーンがありました。日本人が「我の名は〜である。戦いを申し出る。」と言っている間に、モンゴル人はその人のことを切り捨ててしまったというシーンがありました。また、大河ドラマ(戦国時代)を見ていても、お互いに名前や身分を名乗りあってから戦いを始めています。平安時代などの物語を読んでみると、女性は「〜でございます」「〜よろしゅう」「うるわしゅう」など丁寧な言葉を使って会話しています。また、装束について詳しく書いている事からは、いつ死んでしまうかもわからない人が大勢いる中、せめてその人の服装だけは書きとどめておこうという優しい気持ちが伝わります。四つ目は「君・さん付け」を本校で指導している理由です。私はその理由を、君・さん付けをしないとあだ名が発生するからだと考えました。仲のいい人ならあだ名をつけても、仲の良くない人だとあだ名をつけないという事案が発生すると思っていたのです。しかし千葉先生が仰ってくださったことに対し、私はとても納得しました。「親しき中にも礼儀あり」という言葉がありますが、それは友達や家族にも礼儀が必要だということです。丁寧な言葉遣いを使うこともそうですが、最低限のルールを守ること、お互いを思いやり親切に行動することも礼儀です。私は礼儀正しい人となって生活できるように頑張っていきたいです。

                    

 



8組

 今回、山本先生の道徳の授業「自由と責任」という題のお話をお聞きしました。特にインターネットの個人情報掲載のルールを根本的に考えることで何故「◯◯をしてはいけない」と言われる真意を改めて見直すことが出来る機会がありました。
 お話の最中私が深く考えたことがあります。その一つとして「そもそもインターネットには何を載せても良い」という事実に関して考えたことです。私は今まで「ネットには個人情報は載せるな」と沢山の人に言われ続けその言葉を鵜呑みにして生活していたので「何を載せても良い」と言われた時正直とても驚きました。しかし冷静に考えると確かに憲法にも法律にもそのような文は存在しません。むしろ憲法に「表現の自由」という名でその権利を保証されているのです。ですが人間という生物は誰もが同じ考えを持っている訳ではなく、もしかするとそれぞれが全く思いもしないような価値観を持ち合わせていることだってあるかもしれません。そのように価値観が異なるからこそ、ネット上の掲載情報を自己利益のために利用しようと考え出す人が出て来ます。そんな人達が起こした事例がどれも悪質且つ凶悪な例が多いためいつしか便利なはずのインターネットがデメリットと化し人々の目に止まり、そもそも「個人情報は載せてはいけない」というルールであったかのように思い違うという現象が起きているのだと思いました。しかしプライバシーの問題もあります。表現の自由があるからと言ってこれから「ネット上に沢山の個人情報を載せよう」と思った訳ではありません。実際ネット上で悪事が横行しているのは事実なので私はこれらのことを踏まえて何かの時ネット上に情報を発信する際、デメリット、いわゆるインターネットの影の部分と向かい合わせになりどのような情報ならば安全に発信することが出来るのか、悪用されないのかを一から考えてから投稿したいと思っています。今回の山本先生の「自由と責任」という題に隠れているメッセージは全てのことには自分自身に決定権が存在する分、その決定に伴って起こった問題も自分自身で解決しなさいということだと思います。今回感じ、思ったことを忘れずに生活していきたいです。