第3回の道徳授業を終えて


1組 

「なぜ私たちは学ぶのか」

今回大串先生は「教育」についてお話してくださいました。今、自分たちは中学校に通い、文字を読めたり、書けたりすることが当たり前のように思っていました。しかし、世界には、学校に行けない子供は11.5%くらいいるという事実を知りました。子供の頃に学校に通っていないと、大人になって文字を読み書きすることができず、職業を自由に選べず、生活が厳しくなってしまいます。なので、生きていくための最低限の手段として「学習」が必要になってくると思います。自分たちは今、平和な時代に生きているから「欠」なく教育を受けられていると思いますが、時代によって学習できる子供の割合が違うということには驚きました。今の日本の学校に通う子供はほぼ100%近い99%ですが、江戸時代は7080%でした。このように「時代背景」も学校に通える子供の割合や識字率に関係してくるのだろうと改めて感じました。今、学習に取り組むことで、自分の将来の夢を実現できる事ができたり、自分が求める望みが叶ったり、自分の手で「幸せ」をつかむことができるようになると思います。グループで話し合った結果、「幸せ」とは周りの人から認められること、友達と仲良くできること、恵まれた環境にいれること、追及していた物や事が手に入ること、という意見が出ました。周りから認められるということは自分の自信にもつながり、さらに、学習や物事に対する意欲が高まっていき、進歩できると思います。しかし、幸せになることだけではなく、学習すること以外で幸せになれる方法は、伝統、身の周りの環境をきれいに保つ事など、自分の周りで実行できそうな物事から実際に実践していきたいです。そして江戸川学園取手中学校にいる以上、挨拶や時間厳守など、様々な規律を守り、これから中学、高校と過ごしていきたいです。また規律ある進学校である江戸取の一員として夢や幸せに向かって日々学習に取り組んでいきたいと思っています。また教科や勉強だけでなく礼儀や常識なども江戸取で学んでいきたいです。

    

                


2組 

「社会の一員として」 

今回の道徳の授業で私は、「社会」についてより深く考え、社会の一員としてどのように生きていくかについても考えられました。私は、今回の授業を受けるまで、社会とは「大人の世界」であり、私たち「子ども」には関係のないと思っていました。でも辞書的な意味で考えると私たちはもう「社会の一員」でした。まだ、関係ないというのは嘘でもう既に関わっていたのです。社会の一員として私は、「コミュニケーション力」、「リーダーシップ」、「主体性」が大事になってくると思います。一つ一つの力を磨き、クラスをまとめ、引っ張っていかなければなりません。言いにくくても注意をしたり、主体的に動くことを心掛けていきたいです。大小様々な社会の中で、その場、そのときに必要の応じて今持っている力を使っていきたいです。どんなときでも当たり前なことは当たり前にそれよりも上のことをすすんでやっていきたいです。臨機応変に対応するには、常識を持つことや、その場の空気を読む力も必要です。家族内やクラス内など、小さな社会の中で鍛えていこうと思います。成長することで大きくなっていく社会の中でも、どんどん新しい力が必要になってくると思います。そんなとき、今から少しずつでも力を発揮していけば将来のためにもなると思います。私が、社会の中に存在し、誰かに影響しているからには、良い意味で影響したいです。常に模範となれるような人になりたいです。自分自身が誰かに影響されることもあると思います。でも、そのようなときは悪いことにも影響されるのではなく良いことに影響されるようにしたいです。自分ができる限りのことはきちんと自分でやり、できそうにないことは人の力を借りて協力しあい、助けあいながら社会の一員として努力し、生きていこうと思いました。

                       



3組 

「友人の多様性を受容する」

岡室先生がおっしゃった最初の問題は、多様性とは何かでした。よく、先生方のお話で耳にする多様性という単語を、実は自分が理解できていないことを、講話を聴いた時に感じました。多様性は人々がそれぞれ持つものだと分かった時、人それぞれが持つのであれば、全く同じ要素を持つ人はいないと思いました。理由は、全く同じ要素という事は、人のコピーがいるのと同じだと考えたからです。それぞれが違う多様性を持つという事は、その人個人の考えがあると思います。例えば環境です。人と言うのは、たくさんの人たちが協力しないと生きていけません。そのたくさんの人が住む環境は同じです。しかし、1人ずつ考えれば、あまり住みたくない環境であるかもしれません。そして、いつの日かその不満が地域紛争などにも発展します。そこで僕は、人というものは何かを譲り合わなければならないと思いました。ですが、今の社会では譲り合うのを嫌がる人がいます。そういう人たちがいるから世界の戦争は終わらないのです。日本では、戦争を70年以上していません。それは、日本人が譲り合いの精神を持っているからだと思います。以下の考えは授業の内容より深く考えたものです。最後に、授業中に行ったジョハリの窓についての感想です。以前何かで人の心は実験することができると習ったことがあります。このジョハリの窓も1つの実験だったと思います。自分の性格では、「優しい」を選びました。僕の優斗の名前の由来は、「優しい人になってほしい」と言う思いからでした。きっと自分は親の思っていた通りに成長していると思ったのでそれにしました。しかし、意外にもその他の項目を皆が選んでくれていました。とても嬉しかったです。みんなのいいところも見つけていきたいと思います。

                      




4組 

「命の尊さを知る」

私は、今回の道徳で、自分の命、他人の命について考えました。自分の命は大事です。他人の命も大事です。そんなことは誰でも分かっているはずです。それなのに、「死ね」とか「殺す」というような言葉を使う人がいます。言われたら自分はどんな気持ちになるのか、考えたことがないのだろうと思います。もしそのような人が近くにいたら、私はこう言いたいと思います。「自分の命をまずは大切にしてみて」そもそも自分の命すら軽く見ている人がこのようなことを口にするのです。だから、私はこのような声かけをしていこうと思いました。

気仙沼市立橋上中学校で行われた卒業式の梶原裕大君の答辞を見ました。胸が苦しくなりました。友達を亡くした思いが痛いほど伝わってきました。そして、小児がんで九年という短い生涯を閉じた山崎直也くんのお話には、思わず涙がこぼれてしまいました。直也くんの強さは心にずっと残り続けています。そこで私はあることに気がつきました。自分だけを見ていては、命の大切さが分からないということです。自分だけ生きていればいい、自分が食べることができればいい、水を飲めればいい、自分だけ・・・となってしまえば、助け合いの気持ちもなくなってしまうし、全てを失ってしまう気がします。梶原裕大くんも直也くんのお母さんも、「生かされている者として、前を向いていなければいけない」と言っています。まだ周りに亡くなった人があまりいないので、今まであまり考えてきませんでしたが、私は生かされている者として何ができるのかを考えてみました。まず、「死ね」とか「殺す」というような不愉快な言葉は絶対に言わない、自分ができることにチャレンジする、ポジティブ思考で生きていく、日頃からこれらのことを胸に刻み、実行していくことを誓います。今回学んだことを一生忘れずに生きていきます。

  

                   


5組 

「礼儀について」

今回の道徳は礼儀についてということでした。形式によるものでは、お辞儀、正座などがあるとおっしゃっていました。茶道でも、総礼というものがあります。これは始めに「よろしくお願いします。」という意味、終わりに「ありがとうございました。」という意味があります。また、総礼のときに、自分の前に扇子を置きます。これは、先生に対して自分が一段低い位置にいるということを表すためのものです。目上の人である先生と同じ高さに座ることは本来は、失礼にあたるため、先生と自分の間に一線をかくす、一段低い所に自分を置くという意味で使われます。そのように自分の敬意を表すために用いられる道具も、日本にはたくさんあります。学校でも、授業の最初と最後にあいさつをします。これは、先生に感謝を伝えるということで感謝の気持ちや尊敬の気持ちを表したものです。また、学校に入る前にも一礼をします。これはオリエンテーションのときに校長先生が心を落ち着けるためとおっしゃっていました。きまりだからやるのではなくてきちんと意味を理解してやることが大切だと思います。言葉によるものでは敬語の話がありました。年上の人と話すとき、敬語を使います。敬語というのは相手に対する敬いの気持ち、相手を尊重する気持ちを言葉に表したものです。敬語には、大きく分けて三種類有ります。相手を高めて使う尊敬語や、自分がへりくだる謙譲語、そして丁寧語、この三つを時には組み合わせたり、相手と自分の関係によって敬語を細かく変えたりして使います。手紙の書き方でも自分と相手の関係によって前略などの言葉を使い分けます。最近はこういうきちんとした手紙を書く機会は少ないですが、将来大人になって社会に出たときにちゃんと文章を書けるようにしておきたいと思います。このように、形式によるものや言葉によるもの、慣例・風習によるものなど、様々な形で相手に対する敬意を表してきました。これは、他者への敬いの気持ちを常に忘れないという日本人の特性の一つでもあります。サッカーワールドカップロシア大会で日本人サポーターが観客席のゴミ拾いをしたり、日本代表がロッカーをきれいにして会場を後にしたということが話題になりましたが、これも日本人の感謝の気持ち、他者への敬い、礼儀正しさが表れたものだと思います。こういった、世界に賞賛された日本人の良さ、礼儀正しさを私たちは大切に守っていかなければいけないと思いました。


  
 

                   



6組 

「自由と責任」 

私は新約聖書ルカ伝の話を聞いて「自由」とは何なのかを改めて考えました。ルカ伝に出てくる息子は自由になりたいと思っていたのですが息子は「自由になる」ということを理解していたのかなと思いました。きっと「自由になる」ということを理解していれば、お金を使い果たすこともなかったと思います。私は道徳の授業のはじめでは「自由になる」ということの意味がわかりませんでした。私は一度だけ「自由になりたい」と思ったことがあります。それは受験の時期です。私は塾の宿題に毎日毎日おわれて休む時間もありませんでした。そしてだんだんと勉強が嫌いになり、受験なんてしなくてもいいやという気持ちにもなってしまいました。その時に、「自由になりたい」「勉強から解放されたい」と思いました。私の自由は友達と遊んだり、家でのんびりと過ごすことだったと思いました。しかし、今思うと公立中学に行かなくて良かったなと思いました。公立中学校三年間なので入学してから三年たって受験です。学校が変わると友達も変わるため、学校生活になれるために時間もかかります。しかし、中高一貫校だと勉強の仕方も同じため、より自分の勉強にうちこめる時間が増えると思いました。受験の時はとても大変で自由になるために逃げてしまったり、勉強が嫌になったりしましたが「自由になりたい」という気持ちを努力することで自由は手に入れることができるのだなと思いました。このようにルカ伝の息子も自由を得るために血のにじむような努力をすればお金を使わずに自由になることができたと思います。私の考える自由と責任とは自由になるなら制約を守りながら行動し、自由になって自分が起こしてしまったことは、自分で責任を持って解決するという意味だと思います。だれでも自由になる権利はあるけれど、責任も果たさないといけません。今回の道徳の授業を聞いて、「自由になる」ということは制約を守らなければならないので難しいと思いました。私は「自由になる」ということは簡単なことではなく、意味を浅く理解している人が多いのではないかと思いました。


                    



7組

「情報化社会を生きる」

 私が今回竹中先生のお話を聴いて感じたことはSNSは便利ではあるが一歩使い方を間違えてしまうと大変なことになってしまうということです。私は中学校に入学する際に電車などを利用するからということでスマホを買ってもらいました。まだその時は家族としかつながっていなかったけれども、入学してから友達とも連絡先を交換するようになって、SNSを通して関わることが増えてきました。そこでトラブルが起きないようにするにはどうしたらよいか考えてみました。まず一つ目は、人の嫌がることをしないということについてです。SNSは直接目と目を合わせて相手の表情を見ながら話し合うということができません。なので、誤解が生まれやすいということが分かりました。誤解をまねくことがないようにするためには、まず大切なことは直接話す。できるだけSNS上ではなく会って話すことが大事だと思いました。そして二つ目は、SNSがきっかけで起きる被害について考えました。私が竹中先生のお話を聴いてSNSがきっかけのトラブルで一番怖いと感じたことは、投稿内容や書き込みにより個人を特定され、待ち伏せをされるということです。そんな被害にあわないようにするためにも、何でもかんでも投稿をするのではなく、きちんと考えてから自分の行動に責任をもって投稿したいと思います。そしてもう一つ、当たり前のことではありますが、違法なアップロードやダウンロードをしないということです。まだ私はスマホに慣れていないので、分からないところがあった場合にはきちんと大人、特に両親に聞いていきたいです。

 最後に、これからSNSを通じて多くの人々と出会っていくと思います。その時に相手のことをよく考えてトラブルが起きないようにしていきたいと思います。また、表情が見えていないということに気を配り、相手に誤解を生ませないようにしたいです。そして、SNSだけではなくスマホの使い方についても家で作ったルールをきちんと守って、大人になるまでスマホによるトラブルをゼロにしていきたいと思います。

                    

 



8組

「公共心・公徳心を養うために」

私は第三回の貝森先生の道徳の授業を受けて、私が今までに公共心に反する行為をしてしまったことが、どれぐらいの人にどのような迷惑をかけていたのか、考え直すことができました。例えば、電車やバス内で大きな声で話してしまったら、同じ号車に乗っていたたくさんの人に、帰りの疲れている時に大声を出されて、とても迷惑だったと思います。私も、小学生の時、下級生、あるいは別の学校の人が手すりやつり革を使って遊んでいたり、電車内で走ったり大声を出しているところを見て、とても気分が悪くなりました。私はこれから、電車やバス内だけでなく、人の迷惑になるようなことはしないように気をつけて生活したいです。

また、私は授業で先生が説明して下さった江戸取への苦情の内容を聞いて、1の「交通機関での迷惑行為」について、私がしてしまった公共心に反する行動や、私が見た行為だと考えました。これらの行為は、自分でもやってはいけない事だと思うので、やってはいけない事をしないようにすれば良いと思います。次に、2の「ふれあい道路の横並び歩行」は、大人数で歩くと、だんだん後ろの人が前に来てしまいます。そのような事をなくすためには、前から歩いて来る人や、急いでいる人のこともしっかり考えれば良いと思いました。最後に3の「ぶつかっても謝らない」については、ぶつかった人にとってはぶつかったという自覚がなかったのかもしれませんが、2とどうように、自分のことばかりではなく、他人の気持ちも考えればそういったことはなくなると思います。結果として苦情をなくすには人の気持ちを考えて行動する事が一番だと思います。

「規律とは何か。」私は家でも考えてみました。考えた結果、規律とは他人を気遣い、常に相手の事を考え、思いやる事だと考えました。だとすると、私はまだ規律を守れているとは言えません。なぜなら、私は自分の事ばかりで、相手の気持ちも合わせて考えるという事が出来ていない時があるからです。また、「社会」とは何らかの目的を持った集団の事です。例えば、私が所属しているハンドボールクラブでは、試合で優勝する事を目的として練習をしています。塾でも、「学力を伸ばす」という事を目的にして勉強しています。そこから私は、「集団」の中だけでなく、一人で何かをする場合にも、常に目標や目的を持って行動し、それを達成していく事で私達人間は成長していくのだと改めて分かりました。私は、これから、相手の事を常に考え、規律を大切にし、毎日目標を持って色々な事に取り組み、日々成長していきたいです。