第1回の道徳授業を終えて


1組 

「友人の多様性を受容する」

私は今日、岡室先生の道徳の授業をお聴きしました。今回のテーマは「友人の多様性を受容する」というテーマでした。今回の話には、まず、実際に社会で起きた差別になるような話や行動について知ることができました。そのような話を聴いて私は、今まで差別というものは日本ではあまり起こっていなくて、日本には関係のないことだと考えていました。しかし、実は日本でも、外国の人に対してインターネットで暴言を言ったりしていることがあるということがわかりました。私は学生として生活している間も社会にでて生活している間も、生きている間ずっと差別になるような行動をしたり、言ったりするようなことはやらないように、人の気持ちを考えて行動できるようにしたいです。また先生からは、同調圧力についての話もありました。同意をするだけでも、時と場合によっては、人を嫌な気持ちにさせてしまうことがあるということがわかりました。私も同意というのは、よく気軽にしてしまいます。しかし、そのような同意にも人を嫌な気持ちにさせてしまうものがあるので、常に考えられるようにしていきたいです。また、マザーテレサの言葉を紹介していただきました。その中に自分が必要とされていないことが一番の不幸という言葉がありました。人を認めるということは、友達との関係の中で大事になってくると思うので、人を認め、人に認められるような人間になれるよう頑張りたいです。最後にジョハリの窓をやりました。ジョハリの窓では盲目の窓が多くなってしまいました。ですから、私は自分には自分でも気づいていないような性格があり、また自分は人にどのように見られているのかということがわかりました。そして自分が他人について、性格などを決めつけてしまっている部分があるということに気が付きました。自分を認めることが人を認めるためには必要とわかったので、まずは自分を認められるように頑張っていきたいです。

    

                


2組 

 「命の尊さを知る」

今回の遠藤先生の命のバトンというタイトルのもと行われた講話で命について、そして命の大切さについて、学びました。まず、僕が生まれた時の話です。僕は長男で、母と父からすると結婚9年目授かった子で、とても喜んだそうです。しかし、出産時には、25時間かかったりと難産で祖父母と父はとても心配したそうです。母は、もうぐたぐたでなにもしゃべらなかったそうです。この話を聞いて、僕は、再度みんなから愛を知ることができました。このように、一つの命は人に希望をもたらす一人一つしかないとても尊いものです。だから、そのみんなの思いがこもってうまれてきた命をけなすような言葉は軽率に使わないようにこころがけていきたいです。これらからわかる通り命は大切です。しかし、生まれてくる環境は選べません。アフリカの砂漠だったり、南アメリカのジャングルだったり、今のように裕福な日本の家庭に生まれてくるのも全て、自分では決められません。そんな比較的裕福な国に生まれてきた私達がやるべきことは、発展途上国への援助です。それにも関わらず好き嫌いででた日本からの食品ロスが非常に多いです。今は、飢餓によって命を落とす5歳未満の子が5秒に一人いると遠藤先生のお話でありました。つまり、食べ物を残すということは、土地は違えども、目の前で殺しているのと変わりません。食品ロスをゼロにするのは難しいけれども、身の回りからできることをどんどんして行きたいです。僕たちは、未来のリーダーを目指す人たちです。そんな人には思いやりが必要です。遠藤先生の講話の中でおっしゃっていた自分を犠牲にしてでも、他の人を救おうとする遠藤さんや自分が死ぬ間際までお母さんや弟のことを考え続けた直也くんなどの人を手本に思いやりある心豊かなリーダーへと江戸取で成長していきたいです。

                       



3組 

 「礼儀について」

 僕は、小学校の時の道徳の授業でも、礼儀について話し合いました。その時は、主に「形によるもの」について話し合いました。今回の道徳の授業では、礼儀を「形によるもの」、「言葉によるもの」、「慣習によるもの」の3つに分けて考えました。今の僕の江戸取での生活の中で「形によるもの」を挙げてみると、お辞儀、会釈、挨拶などが考えられます。次に、「言葉によるもの」を挙げてみると、まず、先生方との会話の中での敬語があります。「慣習によるもの」はあまり思いつきませんでしたが、授業内に挙がったものでは、江戸取の礼儀だけでも色々とありました。

 江戸取生活以外のことで言うと、「形によるもの」では、「列に並ぶ」や「騒がしくしない」なども十分に礼儀と言えると思います。「言葉によるもの」では、周りにいる人たちを不快な気持ちにさせないようにするための言葉遣いの注意などが挙げられます。このように、江戸取の学校生活や私生活の中で様々な礼儀があります。

 しかし、僕はこのような礼儀が、何回も繰り返し行っているうちに段々とその行動・発言をするだけになってきてしまっていて、あまり礼儀について意識しないようになってしまっていると思います。例えば、授業の始まりと終わりにある号令の礼は、本来ならば、授業をしてくださった先生への感謝などを込めてするべきだと思いますが、「礼」と言われたから礼をするという形になってしまっていると思います。今挙げた例のように、ただの行動・発言になってしまっている礼儀が数多くあると思います。確かに、毎回同じようなことをしていると段々と面倒くさくなってしまうと思うけれども、それを行動として出してしまうと相手は不快になり、それによって注意を受けてしまうと自分自身も不快になってしまうと思います。礼儀は、相手に対する尊敬の意を示し、自分も相手も気持ちよく生活するためには絶対に必要だと思っています。

 さらに、学校生活では、ほとんどいつでも団体行動になります。団体行動になると、何かとトラブルやアクシデントが増えます。ケンカなどは意見が合わないからということがあるかもしれないけれども、僕は、大抵のことは相手に対する礼儀を欠いていて、相手を不快にさせることでケンカなどは起きると思います。なので、僕は今回の授業をきっかけとして、先生への礼儀は引き続き続行していき、生徒同士で軽い冗談を言うなどは良くても、相手を不快にさせないように充分に注意していき、礼儀を忘れずに生活していきたいです。

                      




4組 

「ルールについて考える」

 僕は、ルールを守ることは当たり前だと思っていましたし、自分は守れていると思っていました。しかし、ルールには明文化されていて、違反すると罰則を伴う「成文律」と、暗黙のルールを指す「不文律」があるということを知り、自分はルールを守れているのか、疑問に思えてきました。成文律は、憲法、法律、条例で分かりやすく線引きされているので、違反したらすぐに気づくと思います。しかし、不文律は、モラルやマナーで線引きされるので、違反していても自分では気づかないこともあると思います。僕は電車通学をしていて、高校生や大人でも列を割り込んだり、荷物をぶつける人もいて、嫌な気分になったりすることがあります。一方で、自分も、集団で友達と帰っていると、気づかないうちに大きな声になっていることがあると思います。どちらの場合も、成文律には違反していないものの、不文律には違反しています。ルール無視や意図的な反則は、個人やチームが不利益を被るので、ルールを守らなければならないという講話でのお話を自分に置き換え、自分がルール違反をするとどうなるのか考えてみました。学校の中では、校則という成文律に違反すると、先生や友達に迷惑をかけたり、自分自身も注意の対象になります。場合によっては、それが理由で校則が見直され厳しいものになってしまうかもしれません。学校の外では、江戸川学園取手中学校の制服を知っている人であれば、制服を見ただけで江戸取生であるかどうかを区別することができるので、不文律であったとしても、自分がルール違反をすると、自分以外の生徒も外部の方から厳しい目で見られるようになります。自分の違反が連帯責任という形で、他の生徒にも影響します。一方で、ルールがなければよいのかというと、ルール無視で自由に行動する人にとっては楽しい環境かもしれませんが、その環境は多くの人の犠牲の下に成り立つと思うので、それはよくないと思います。中学校に入って一ヶ月半が経ちましたが、これからは自分の当たり前のレベルを上げることを意識して生活していきたいと思います。そのためには、自分が周りの人になったとして自分の行動を振り返る、つまり客観的に自分を見つめることも大事だと思います。また、自分のレベルが上がれば、ルールを守ること当たり前ととらえ、意識しなくても自然にルールが守れているようになると思うので、そうなるようまずは意識していきたいと思います。

  

                   


5組 

「情報化社会を生きる」

今回の授業を受けてインターネット上でのトラブルは、未成年である私たちにも起こり得るトラブルであるということがわかりました。特に、インターネット上での「いじめ」では「?」と「!」など一つの記号で意味が異なってしまうということが分かりました。声・顔・態度がインターネット上では分からず、褒め言葉が悪口に変化してしまい、それが原因でいじめに繋がっています。私は、メールを送る前に一度よく考えて、読み直してから送るなど、取り返しのつかないことになる前に防止することが大切であると思いました。また、ゲームに夢中になっている最中に生じた高額課金では、お金だけではなく大切な個人情報が悪意のある人にとられてしまう可能性があります。それに加えて、SNSなどへの投稿内容から個人が特定されてしまうものに関しては、自らが加害者となってしまう可能性があるということです。友人と撮った写真を友人に許可なくSNSに載せてしまい、個人が特定された場合、自らが加害者となってしまいます。自分一人の写真なら、個人情報がもれないか(制服、電柱、自動販売機、マンホール)などたくさんのことを確認して友人といっしょに写真を撮ったときには、その友人にSNSに載せても良いかと確認してからSNSに載せるべきであると思いました。ディスカッションでは、加奈子さんはどうすればよかったのだろうかという問いに対して、私の班ではまあ子に時間、場所をみんなにも聞いてみたら?とアドバイスをする、という案が出ました。メール上で悪口を言うということはいじめへと発展してしまいます。悪口、いじめへと発展する前に未然に防ぐということが大切であると思いました。インターネットの正しい使い方を今一度確認することができたので、今後気をつけて使っていきたいです。


  
 

                   



6組 

 「公共心・公徳心を養うために」 

 今回の講話で、僕は大きな勇気と誠意をもらいました。今まで僕は、「規律を守る」というのが他人への気配りをするという意味だということは理解していましたが、それを実行できていないという状態にありました。貝森先生の「どのような気配りができるか」という質問に対しても、僕は全く頭に浮かんできませんでした。自分では理解しているつもりでも、その実例は挙げられないという現状に僕は恥ずかしくなりました。これまでの自分を振り返ってみると、確かにほぼ何もしていませんでした。時々、電車など公共の場所で騒いでいる人を見かけると「迷惑な人だ」とその人をなじってばかりいました。その後何もせずにそのままで電車を降りてしまいました。今回の講話で、その出来事を振り返ってみてみました。「本当に何もできない状態だったのか?」こんな疑問が頭の中を満たしました。「なぜ自分はその人を注意できなかったのか?」その疑問をよく考えてみると簡単なことでした。勇気が無かったからです。「勇気さえあれば、あの時、正しい事をできた。」こんなにも「心配り」に勇気が必要だとは思いませんでした。今回の講話を聞いて、「心配りを実行する」という大きな勇気を手に入れました。これからその勇気を使って、心配りを迷い無く実行していきたいと思います。さらに「社会」というものが何かも貝森先生は教えてくださいました。「社会というのは人がある目的を持って何かをする集まり」つまり友だちやクラスなども1つの立派な「社会」であることに「自分ももうすでに社会の一員なのだ」という自覚と大きな責任を与えられました。また、「規律」と「規則」の違いについても教えて下さいました。「規則」は英語にするとruleで、支配や統治など人を「縛る」意味があるのに対して「規律」は「思いやりの行動」のことです。普通の公立中学では規則で生徒を縛っていますが江戸取では生徒を信頼して「規律」という点を重視しています。そんな江戸取にいることを誇りに思い、僕もその信頼に応えて「勇気」を持って思いやりのある行動を進んで実行しようと思います。


                    



7組

「自由と責任」

今日の道徳「自由と責任」について、木村先生に詳しくおっしゃって頂きました。最初に憲法第12条の「自由と権利は国民不断の努力によってこれを保障する。」について考えました。「不断の努力をしなければ保障しない。」という意味に置きかえ、分かりやすく要約し、自分なりの意見をしっかりと入れ、初の道徳の授業で良いスタートを切れたと思います。私の考えとしては、憲法第12条についての「努力をしなければ保障されない」という事について、普段の勉強や日々の生活も憲法と同じだと思います。勉強についても毎日努力すれば必ずテストの点数も良くなり、努力した分の信頼貯金がたまるという保障が自然とついてきます。また、日々の生活でも自分の意見をしっかりと持ち、自分の言動、行動を良くしていれば「任される」という信頼がたまります。結論としては、自分が努力をした分だけ自分に戻ってくる。努力をすれば必ず良い利益が得られる。それを友達同士で協力をして実行すれば第4の習慣[Win Winを考える] がもっと発展し、みんなに良い影響が広まります。自分が努力したら損害を受けるという事は多少あるかもしれませんが、その「損」は良い結果を得るための「損」だと思い、何気ない日常でも日々努力していければ良いと思います。それを踏まえて「自由」「責任」とはいったいどういう事かについて考えます。「自由」とは、何ものにも束縛されず日々楽しく過ごす(ふるまう)。そのような事を木村先生はおっしゃっておりました。確かに「誰も束縛されずに楽しむ。」それはとても良いことだと思います。しかし私の意見として、規律やルールの中で楽しむ日々を過ごすことが「自由」だと思います。この現代社会で生きている以上、規律やルールを守らなければ公共の場で過ごす事もできない、人と共同生活だってできません。もし共同生活をしたとしても、自分の意見をなんでも通していたら、江戸取中高が目指している「心豊かなリーダー」「世界型人材」とかけ離れ、「偉そうなリーダー」「自分勝手な世界が必要としてくれない人材」になってしまいます。それを防ぐためにも「責任」という事が必要になってきます。「責任」とは、自己の言動が他者に及ぼした影響に対してしっかりと対処ができる事を言います。その2つが相互に関係し「自由」=「責任」として、他者の調和を図る、他者を重んじる、過ちを素直に認め合う事を日々の生活に取り入れられれば良いと思います。そのような事を踏まえて、不自由の中の自由で成り立っている「社会」をもとに、それぞれの場における「自分」を時によって考えていくように、日々何でも努力します。それらをまとめ、木村先生がおっしゃっていた「共生社会」で生きていく。それをもっと良くするために「自由」と「責任」を体得する。それを生かして江戸取中高が目指す「心豊かなリーダー」、「世界型人材」を目指す。7つの習慣をもとにして、中1から高3までの間に第1の習慣「自分で選択する」から最終課題である第7の習慣「自分で磨く」までをすべてできるように自分で努力するだけでなく、友達と一緒に切磋琢磨したいと思います。今日の木村先生の道徳の授業を自分で最大限に生かし、もっと意見を考えだし、先生のアドバイスをいただきながら、自分なりに日々がんばります。

                         

 



8組

「社会の一員として」

「社会」と聞くとよく大人が言っているのを耳にする「社会に出たらどうするの。」そう言うセリフが浮かびます。そんな会話から自分はまだ社会に出ていないという事なのだろうかと思う事が度々ありました。今回の山田先生のお話は江戸取生として過ごしていく上で基盤となるものになりました。社会とは…。今までそんな事考えた事もありませんでした。この道徳の授業で、人間が関わり合う場。家族やクラスもある一つの社会なのだと知り驚きとともに自分にのしかかる責任の重さも感じました。人との関わりが増えていくたびに社会が大きくなっていく。可能性は広がっていきますが、その分迷う事、苦労する事も多くなっていくと考えられます。そのために教えていただいた二つの事を大切にしていきたいです。

一つは多様性を理解する事。もう一つは自分に与えられた役目をしっかり果たすという事。社会を素晴らしいものへとしていくためには人に頼りきってしまうのではなく自分から、良くするためにはどうすれば良いか考え、実行していく力、主体性が必要です。自分から動く事のできる仕事などを、これから主体性を持ち取り組んでいきたいです。さらに、新しい社会に出会った時。お互いのルールが違うので、無理やり意見を突き通そうとしたり、相手の事を何も考えない行動が命とになります。自分の事もしっかりできつつ、人のために役立つ事ができる人。前の二つの事を守れている人はこんな人だと思います。私の将来の夢として考えている医師は特に気を使うと思っています。詳しく言えば私の将来の夢は精神科医です。人をまた、笑顔にできるように医学を学ぶ。これも社会で生きていく上で大切な二つの事につながってくると思います。ですから今過ごしている社会で(学校だけでなく家でも)自分の役割を決め実行していきたいと思っています。江戸取という一つの社会をどれだけ良いものにつくりあげる事ができるか。それは自分たちにかかっています。校歌にもある「知恵・誇り・責任」を持ち努力を積んでいきたいです。自分の未来と次の世代の人々の未来のために。