1組 「いじめの無い社会」

 今回はいじめについてでした。いじめはどんな所でも起こりうることだと思います。私がいた中学校でもそのようなことがあり、このテーマはとても身近に感じられました。いじめは悪いことだと誰もが分かっているのにもかかわらず、無くならないのは、ついやってしまう人がいたり、ただ見ているだけの人がいるからだと思います。例で出てきた友人の三角関係は私も経験したことがあります。気が合う人と一緒にいたいという気持ちはよく分かりますが、今回の例の対処法としてはBさんとCさんが黙って遊びに行かなければよかったのだと思います。その後のAさんは3人でよく話し合えるようにしたら良かったのではないかと思います。もしそのような場面に出くわしたら、見て見ぬふりをするのではなく、声をかけていけるような人になりたいです。女子は些細なことで仲間外れにしたり、無視したりする人が多いと中学校では感じたので、ここでは自分はそのようなことはせず、みんなで仲良くやればいいと思います。今後社会に出た時、必ずしも気の合う人と仕事ができるとは限らないので、接しにくいなと感じる人がいたとしても避けたりせず、コミュニケーションを取れるようにしていきたいと思います。最後に、見て見ぬふりをする人がいじめの一番の協力者だと思うので、その様な人にだけはならないよう、毎日生活していきたいと思います。










1組 「なぜ私たちは学ぶのか」

 今回の道徳の授業を受けて私たちは主に2つの議題について議論しました。1つ目は、「何を学ぶのか?」。日本は、江戸時代から就学率がとても高く、江戸時代末期には皆、寺子屋で学び、その後各藩に藩校が置かれ、そこでの武士の階級の識字率は100%だったということに大変驚きました。また武士階級より下の階級の人々もこのころから識字率は60〜70%と階級問わず日本全体の識字率は約150年前から安定して高かったことにとても感心し、我が国に誇りを持つことができました。また、現代の日本人が世界的に優れた技術を持っている所以がここにあるのだなとも思いました。今日、世界で問題になっているのは、各国の識字率の格差です。現在の日本の識字率は99%で世界28位とそこそこ高い位置にいます。そして世界で一番識字率の低い国は、南スーダンで28%です。これは南スーダンの人々の72%は文字が読めない状況にあるということです。さらに、この順位にランクインしている国はまだ良いのですが、アフリカの地域では、そもそもデータがないという場所もあるのです。私たち一人ひとりがこの問題について積極的に考え行くことが大切です。また、私たちが日々、勉学に励めることへ感謝し、勉強したいのにできる環境の整っていない地域の人々の分まで学ぶ姿勢で努力することが必要です。私たちが勉強に取り組めることが決して当たり前のことではないということを改めて確認することができました。










2組 「働くことの意義」
 今回は、人は何のために働くのかということについて考えました。福沢諭吉が言ったように、世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つ事、一番さびしい事は、する仕事が無い事だと思います。自分のやりたい事を見つけ、それを一生涯仕事としてやり続けている人を、テレビ等で見かけた時、大抵そういう人は活き活きとしていて、他人から褒められたり、尊敬されたりしています。前に、僕の中学校で出された課題で、身近で働いてる人に、仕事についてインタビューするというものがありました。僕は迷わず父にインタビューしようと思いました。父は自分の尊敬する人であり、身近で一生懸命働いている人だからです。僕は父に、「仕事をしていて一番嬉しいと思う事は何か。」と尋ねました。すると、医師である父は「自分が治療してあげた患者さんから、心から感謝される事、また、その患者さんの嬉しそうにしている顔を見る事。そこに医師としての仕事のやりがいがあり、その為に自分は働いている。」と、答えました。そこから僕は、仕事をするのには、家族や自分を養うためのお金を稼ぐためや、自分のやりたい事をひたすらやるため等、色々あると思いますが、どんな人でも働いていたら多少のストレスは心や体に溜まるものであり、それを軽くしてくれる周りの人の支えがあるんだなと思いました。周りの人の支えには、感謝される、信頼される、褒められる等様々ですが、もしそれが無ければ人は、仕事に対してやりがいを感じなくなり、それがいくら自分にとってしていて楽しいものでも、いつか飽きが生じてしまうと思います。だから、働くというのは、周りの人から支えられながら誰かに幸せを与える事だと思います。




 




9組 「いじめの無い社会」
 小説や漫画で見るようないじめでなくても、本人が嫌と思ったらいじめになる。多くの人が無意識のうちにいじめにつながることをしているのではないかと今回の授業を通して感じた。クラスの友人と心理的な距離が近づいているからこそ、冗談のつもりで言ったことが冗談に聞こえない、コンプレックスに思っていることを言われて傷つくなんてことはある。現に私もその一人だ。仲が良く、常に一緒にいるからこそ嫌と言えないこともある。しかし、友達はその一人だけではない。仲がいい、悪いに関係なく、気がつくことがあれば声をかけるようにしたい。授業の中で出てきた衆人環視の話から感じたことは人が多いほど自分の意志に従えないことだ。仲の良い友人がいれば多数派に流され、無関心な人が多ければ視線を気にしてしまう。「誰かがやったら自分も動こう」と人任せで無責任な気持ちを持ってしまう。だからこそ、日常生活において「自分が言われたらどう思うか」「本人はコンプレックスに思っていないか」の2つを気にしたい。「自分がされたて嫌なことはしない」ということは小さい頃からよく言われるが、これを全員が守れることで、みんなが楽しく学校生活を送れるはずである。









9組 「いじめの無い社会」

 今回の授業を受けて、いじめに対する考え方が大きく変わりました。いじめというと、暴力や仲間はずれ、無視をイメージしていました。しかし今回の授業で、いじりやからかいなどもいじめの一種だと気づきました。いじめは受けている方がいじめと感じたらいじめです。授業でケーススタディとして扱った男子生徒の例を通して、友人をいじるようなことに対してそれは相手の気持ちを考えての行動なのかを振り返ることができました。相手が嫌がっていることは行わないように一つ一つのことを意識していきます。また、いじめが行われているときに、見て見ぬ振りをしてはいけないと思いました。いじめが無くならない理由は第三者の行動に大きく左右されると学びました。いじめが行われているであろう所に、口を出すことは面倒で、もしかしたら自分にも敵意を向けられるかもしれません。しかし、そこで何も行動しなければ現状は何も変わりません。ほんの少しの勇気と行動で、いじめによる自殺を思いとどまらせることもあるかもしれません。日頃の生活において相手の気持ちを考えて、周囲を見渡して主体的である行動を選んでいきたいと思います。





 




10組 「なぜ私たちは学ぶのか」

 今回の道徳を受けるまで、何を学ぶのかについて深く考えたことがありませんでした。字が読めないと不便なことがたくさんあります。先生が例で見せてくれた写真には知らない字が書いてあり、安全なものを選ぶ方法が「勘」しかなかったです。このように、字が読めないままの人は、いろいろなところで困るという事が分かりました。私たちは、よりよく生きるため、幸せになるために学びます。生活の中で必ず人と関わります。そのときのマナーや協力の仕方、人間関係を学べるのが学校であり、学ぶことだと思います。また、人から教わるのではなく、自分で身につける必要のあるものを学びから知っていくことが出来ると思います。そもそも、「幸せ」とは、感じ方は人それぞれですが、私は当たり前のことが当たり前にできることだと思います。私たちにとって当たり前のことであっても、外から見れば当たり前でないことが多くあります。生活するだけでも厳しい人が世界には数多くいて、当たり前のことが当たり前にできる私たちは「幸せ」だと思います。良いことと悪いことを覚え、理解し、将来に役立てていくためにも教育は必要であり、「幸せ」をつかむための柱だと思います。義務教育までは全てを学び、それ以後は将来自分が使うもの、夢に関わるものだけを選択し、学んだ方が効率が良く、自分の夢にも近づいていけると思います。










10組 「なぜ私たちは学ぶのか」

 私達はなぜ学ぶのか。そのような疑問は今までに何度も感じたことがあります。しかし、今まではその疑問に対して、「そういうものだ」と解決していました。しかし、今回の話を聞いて、少し答えとなるものに近づくことが出来ました。私は、「人は人間生活をより良いものにするために学ぶ」と考えました。例として、先生は江戸時代の識字率について話されていました。これは、生活を向上させるために学んだのだと思います。しかし、南スーダンは、紛争などのせいで識字率がとても低いままのようです。これは、勉強したくても出来ない人たちが多くいる象徴だと思います。字が読めないのはとても恐ろしいことなので、日本語、英語以外の言語も学んでみたいと思いました。学びの継承も重要です。先人が学んできたものを学び、それを発展させる。これは最も重要なことの一つだと思います。科学はその典型的なもののひとつだと思います。科学的思考を持った紀元前の人たちから、今の研究者に知識が受け継がれ発展していったと考えると、とても素晴らしいと感じます。だから、私たちが学校で学ぶ教科は全て必要だと思います。先人からつないできた知識を学ばないことは、とてももったいないことだと思います。私は全ての教科をしっかり学んでいきたいと思います。そのうえで、将来学びたい法律について学んでいきたいと思っています。しっかり学んで幸せになります。





 




11組 「働くことの意義」

 私が今回の道徳で印象に残ったことは、二つあります。まず一つ目は「二人の石切職人」を例に教えていただいた、同じ仕事をしていても、人によって捉え方は異なるということです。私も日常生活で皆で同じ活動をしていても、「なんであんなに楽しそうなんだろう」、「なんであんなに熱心なんだろう」と思うような人を見かけます。何事も、楽しめる人とそうでない人との違いが、物事の捉え方にあるなら、ネガティブな考え方をしがちな私でも変われるかもしれないと思いました。考え方を変えるというのは簡単なことではないと思いますが、少しずつ習慣づけていきたいです。二つ目は、ピーター・ドラッガーの卓越した仕事をするために向き合うべき一つとして、あげられていた「強み」についてです。何かを成し遂げるには自分の強みを集中して伸ばすことが大切だという考え方でした。例え自分の中に強みを見つけても、それを生かし育てるには、やはり努力が必要だと思うので、自分に自信を持つためにも、将来の目標に近づくためにも、積極的に強みを伸ばしていきたいと思います。私は今回の道徳で、働くことの捉え方は多くあり、考え方次第で楽しむことができること、様々な幸福を仕事によって得ることができることを学びました。将来就く仕事だけでなく、学校生活の中でも、自分に与えられた仕事を大切にし、多くのことを学んでいきたいと思います。










11組 「働くことの意義」

 今回の道徳の授業「働くことの意義」を聴いて第一に将来絶対に何らかの仕事に就いて、しっかりと働かなくてはいけないと思いました。そしてそのためにも今は勉強を頑張らなくてはいけないと単純にそう思いました。先生が例に出された福沢諭吉の「心訓七則」からは何かしらの仕事を任されて、それをこなしてお金を稼ぐという行為はとても立派なことであると認識しました。今までは働いてお金を稼ぐことは大したことではないと捉えていましたが、「心訓七則」からそうでないと気づきました。任される仕事があり、それを継続して行えることは立派であり、今の自分の日常生活に通ずることです。学校で行う「掃除」をしっかりと取り組む、部活で任された仕事をきちんとこなす、これらのことは一見当たり前のことのように思えます。しかし、それぞれに意味があることなので、責任を持って仕事を続けていきたいです。次に「二人の石切職人」のお話にはとても共感しました。他人と同じことをするにしても、その仕事への意識、考え方の違いで成果が変わってくることは常日頃からわかっており、実践してきました。その意識の違いで結果は変わるので、今のうちから物事に対する考え方をプラスにしていきたいです。仕事を任されることは、例えそれが面倒なことでも、必ず意味のある、大切なことだと心に刻んでこれからの人生を過ごしたいと思います。