1組 「なぜ私たちは学ぶのか」

 日本の就学率が世界でもトップクラスであるということを授業で知った。しかし、就学率が100%でないということは、1%でも就学できないこともたちがいるということで、私たちのような夢や希望をもって学習することができないという事実は非常に心苦しく思った。理由は様々だろうが、虐待などを受けて声を出せないでいる子供たちもいるかもしれない。私も含めてこれから考えなくてはならないことは、国民や世界中の子供たちが平等に学習にできる環境を整えることだと強く思う。私たちは恵まれている。学問を学ぶのと同じように、いろいろな欲をもち、幸せになるための生活を営むことができる。その幸せを強く感じ毎日の学習に向かわなくてはいけない。例えば数学は、普段の生活に受験で用いる公式は使うことはないだろう。でも、その考えかたや発想、理論の構築は、思考の方法の確立に役立つであろう。また、ずっと以前から教科として残り、今も消えることがないということは、その科目の重要さがもっとあるかもしれない。これからもいろいろな方向から考えて、学ぶ意義を確かめていきたい。










1組 「ルールについて考える」

 昨今メディアを騒がしているあるスポーツでの試合中の問題によって、逆にフェアプレーの大切さに気付かされた人も少なくないと思う。すべてのスポーツはそれぞれのルールがあるから成り立っているし、もしそれがなくなったらただの“闘い”に成り下がってしまう。あの問題はこういったことを考えるきっかけになった。
 現代の社会においても同様のことがいえる。人々の生活はすべて憲法、法律、条例、いわゆるルールの上に成り立っている。この成文律があるからこそ、人の社会は滅びの道をたどらずに済んでいるといえるだろう。では不文律はどうだろうか。相手に対する心無い言葉は、不文律を守っているといえるだろうか。そして、現代の社会はそれを守れているといえるだろうか。私は、全てがそうとは言えないと思う。
 そこで、私ができること。江戸取での生活に置き換えて考えると、まずは集団の中で良いといわれることを意識して生活すること。生徒指導になってしまうという低いレベルで考えるのではなく、皆の規範になるくらいの意識をもつことが大切であると考えた。










2組 「いじめの無い社会
 いじめというのは些細な仕事から発展していって、起こります。例えば、今までの人生の中でちょっと間違えば、いじめに発達しそうな場面は多々ありました。しかし、いつ起こるかわからないようないじめはあります。そこで私はそのようないじめの予兆をどのようにして、防ぐのかについて考えてみました。いじめられている人というのは大抵一人です。すなわち、いじめられている人には味方がいません。では、なぜ味方がいないのか。考えられるパターンは二パターンです。一つ目はクラスの輪に溶け込めず、一人孤立しているパターンです。二つ目はクラスの餓鬼大将みたいな人がいて、その人からターゲットになった人をまわりは「助けると自分もターゲットになる」という恐怖から離れていき、ターゲットの子が一人になっていくパターンです。一つ目は、自ら望んで一人になっているのか、はたまたクラスの輪に入りたいのに入れないのかによって大分異なりますが、自分は様々な人と日常で少しづつ会話を取って、その一人という状況から「味方が一人でもいますよ」というのを考えさせられるようにします。「0」と「1」はまったく違い、「一人」でも共感者がいてくれるだけで人間はとても楽になります。だから自分は「その一人」になりたいと思います。二つ目だとすると、自分ならその餓鬼大将がいない所で、声をかけてフォローしていくと思います。すなわちどちらのパターンでも同じように頼る人がいるということが大切です。そのための自分の行動は陰に徹しなければなりません。表で様々な事が起こっている時こそ、陰から物事を支えてフォローし、解決していくことでいじめの予兆も防げるようになると思います。




 




9組 「なぜ私たちは学ぶのか」
 授業後、幸せになるために必要なもののうち、「伝統文化に誇りを持ち、楽しむ」とはどういうことなのか考えてみました。日本の伝統の象徴に、お寺や神社、花火やお祭りが挙げられます。日本の人々はこれらに足を向け、楽しんでいることに気づきました。授業の中では幸せになるために必要なものの「教育を受けられる環境」を考えました。今まで全教科の勉強は必要ないと考えてきましたが、今回の道徳で考え方が変わりました。今はすべての教科を勉強する必要があると考えます。たくさんの教科や分野を学習することで視野が広がります。そしてそこから好きなことを見つけ出して生涯学び続ければよいのです。ですから今は、どの教科もわからない、つまらないから捨てるということはやめます。また、人生の中で一番大切だと思うものは人との関わりです。どんなに勉強が出来るといっても、社会通念上のルールやマナー、礼儀が備わっていないと活躍する場を与えてもらう機会が減ります。専門的な学び以上にそれらを学んでいきます。そして将来、南スーダンやアフリカなどで幸せになるために必要なものがそろうようにボランティアなどで活動したいです。









9組 「なぜ私たちは学ぶのか」

 中学三年生の時、なぜ私たちは学ぶのかを少し考えたことがありました。その時出した答えは「なるべく学力の高い高校に進学し、その後自分が行きたい大学に進学し、お金を稼ぐため」というものでした。今回、先生の話を聞き、友達と意見を交換することで、この答えとは違う答えが出てきました。それは、自分の身を守るためや、自分の将来をつかむためという答えです。自分の身を守るためという答えは、字が読めない、計算ができない、言葉の意味が分からないと詐欺などにかけられる確率が高くなります。知識を身につけることは身を守ることでもあるのです。また、自分の将来をつかむためという答えは、こんな人物になりたい、こんな職業に就きたいと思っていることに具体性を持たせることです。たとえば外国で働きたいなら、その国の言語やマナーを学ぶ必要があります。授業の質問として、必要な教科とそうでない教科を考えました。最初は音楽や国語の古文漢文はいらないと考えましたが、人それぞれにやりたいことが違うこと、自分がやりたいことが変化していく可能性があることに気付き、今は学ぶ必要がない教科はないのではないかと考えています。どの教科も全力で取り組みます。





 




10組 「ルールについて考える

 スポーツや社会、学校のルールと、この世はルールでできているのかと思うぐらい、ルールはたくさんあります。しかし、ルールがあるからこそ、何かが成り立っているのだと私は思います。ルールを無視したり、反則行為をするとチームの評価が低くなってしまうので、結果的には、不利益になるとのことでした。それは本当に共感しました。マナー、行儀、行動、作法、言動はモラルなどと同じで、自分で学んで、正しいと思う行動をするべきです。しかし、その行動を間違えている人がいたら、きちんと教えてあげることも一利あると思いました。よく学校にくる苦情などは実際に江戸取生が、一般の方に迷惑をかけているので、そういうのも見かけた人は注意をしたり、やってしまった人は謝るなどをしたりして、次にやらないように気をつければよいと思いました。ディスカッションでは、クラスのみんなが高入生なので、公立中学校の規則などが挙げられ、校則が厳しいところや緩いところもあり、とても新鮮でした。生徒指導ゼロは、一番自分自身でどうすれば、生徒指導をうけないかなど分かっていると思います。だから、単純に学校の規則に沿った生活をしていれば生徒指導にはならないと思いました。 










10組 「ルールについて考える」
 僕も今までバスケットボールをやってきたのでルールがどれだけ大切かを知っています。もし相手のチームがルールを無視して違反すると自分のチーム内の雰囲気も悪くなると思います。社会のルールでは成文律と不文律があり、僕は成文律も大切だと思いますが、不文律の方が大切だと思います。理由は、人と人の関係を崩さないようにするためには、行儀や言動などの不文律が大切だからです。もし今まで僕が不文律をしっかりと守らなったら友達が全然作れなかったと思います。「本校において、これからの学校生活で生徒指導をゼロ、外部からの苦情ゼロを実現させるための方法」についてディスカッションしましたが、僕は生徒指導・苦情を完全にゼロにすることはできないと思います。理由は、人間は必ず失敗するからです。だからと言って失敗を理由に悪いことをしてはいけないと思います。また失敗はあるとしても最大限まで気を付けるなどして失敗を防ぐことができると思います。だから、一人ひとりが最善を尽くすことで生徒指導・苦情の数を減らすことはできると思います。




 




11組 「いじめの無い社会」

 今回、私はこの授業でいじめに対する今の社会の現状について様々なことを感じました。いじめの具体例として様々なひどく、悪質で相手を傷つける行為を知りましたが、これらは絶対にどんな人にでもしてはいけないと思います。ですが、してはいけないとわかっていても、いじめをする人は存在してしまいます。いじめはエスカレートすると、より相手を精神的、身体的に傷つけ、自殺に追いこんでしまう危険が生まれてしまいます。衆人環視の実験でも証明されたことですが、一人でいるときよりも、無関心を装う人と一緒にいるときの方がいじめが多く発生します。集団のうちの一人ではなく、個人として一人の人間として強くたくましい人が増えていけば、いじめは減っていくのではないかと思います。一人の人間として堂々とできるようにするには、えどとりでも重視されている主体性を持つ心豊かな人間にならなければいけないと思います。これから、えどとりで学んでいくうえで、個人として一人の人間として、主体性を持ち心豊かになるために、今自分が何をすべきかということを考えていきたいと思います。これは自分に足りない部分を探究していくことにもつながると思うからです。 










11組 「いじめの無い社会」
 私は今日の道徳の授業を聞いて、いじめは良くないことだと思いました。また、いじめには目に見えてわかるものと、目に見てわからないものがあると思いました。前者のいじめに関しては、嫌いになるのは仕方がないが、それをそのまま出していたら、不具合が生じるので、よくないと思います。後者は防ぐのが難しく、色々なパターンがあるので、それらに対応するために、頭の隅にでもいじめの可能性を考えることが大切だと思います。私はいじめのない世界を作るには二つのことが必要だと思います。一つ目は、言葉遣いについてです。汚い言葉や刺激の強い言葉で会話をすれば、人間関係が悪くなりやすいです。逆に優しく、丁寧な言葉遣いをすれば、自分も相手も気持ちが良いと思います。二つ目は、相手の気持ちを想像することです。いじめが起きる理由としては、「相手にこんな言葉をかけたらどう思うだろうか」、「このまま続けたら相手はどんな思いをするだろうか」と考えられず、きつい言葉や行動をしてしまい、いじめが発生すると思います。だから、次にどんなことが起こるかを想像し、いじめを防ぐための行動をすることが大事になると思います。これらのことを守れば、いじめはなくなると思います。