平成30年度 中等部1学年 道徳感想文 第7回 9月3日

 
1組 「国際社会に生きる」
 私は、「国際社会に生きる」という千葉先生の講話をお聴きして、二つのことを学びました。 一つ目は「国際社会」についてです。今回の授業の中で、「国際」とは、国家間の交際関係のことであり、「社会」とは、共同生活を営む人々の集団のことである。このことから、「国際社会」とは、他国の人々と一緒に生活する集団であるというお話がありました。私も「国際社会」を辞書で調べてみたところ、「たくさんの国の人と関係を持っている社会」とのっていました。「社会」がつく言葉の中に「高齢化社会」という言葉があります。今、日本では少子高齢化という大きな社会問題があります。これは、将来働く人がいなくなり、人手不足が深刻になってしまう大きな問題です。しかし、最近では日本人だけでなく、外国人も働いている光景をよく目にします。これは、まさに他国の人々と一緒に生活する集団である「国際社会」だと感じました。このことから、今の少子高齢化の進む日本では、他国の人々を差別せずに、その文化を受け入れて尊重していかなければならないと思いました。二つ目は、「国際社会」で生きるために注意すべきことについてです。他国の人々と私たちの間には、文化や言葉の壁があります。これは、一緒に生活する間に自然と起きてしまうことです。けれども他国の人々の文化や言葉を学び、その違いを受け入れ、理解・尊重すればよい関係を築けると思います。異文化や異国語だと決めつけずに尊重することが大切なのではないかと今回の授業を通して感じました。江戸取には、短期留学など様々な異文化交流がたくさんあります。まずは、「イングリッシュカフェ」等の身近にある交流からはじめ、外国の文化を理解し、大きな異文化交流にも挑戦していきたいです。

   

      
2組 「社会の一員として」
 私は、今回の山田先生の道徳を通して、今まで自分が固定観念のようなものを持っていたあるものが、少し違っていたと分かりました。それは、社会を円滑に営むために、まずSTEP1として相手のことを考え、STEP2として相手のことを理解するということです。私は今まで、これらSTEP1、2を段階としてではなくイコールのような関係として考えていて、1つ1つの意味をきちんと見つめていませんでした。確かにたとえ相手の事を考えても理解しようとしなければ一人一人の個性を受け止める事にはならないのです。
 次に先生は社会とは集団であり、人間が相互に関わり合う場だとおっしゃっていました。私もその通りだと思いましたが、それは人間だけではなく、生物全体についても同じ事が言えるのではないかとも思いました。例えば、食物連鎖なども植物や人間、その他の動物などが関わって成り立つものです。それらも私は1つの「社会」であると思います。そして、これらに共通して言うことのできる「社会の一員として」どうあるべきか。それは、私は一人一人が社会の一員だという自覚をしっかりと持ち、それに値する思いやりを持った適切な行動をすることだと思います。なぜなら、人間は絶対に社会から抜け出すことはできません。そのため、自分が適切でないことをすれば、周りの人に迷惑がかかり、反対のことをすれば、逆に周りが笑顔になるなど自分の言動が周りの人に様々な影響を与えているのです。それは自分だけでなく、周りの人もみんな同じです。ですから、日々自分が「社会の一員」であることを意識して行動することがとても大切だと思うのです。
 これから私は、豊富なコミュニケーションや日々の生活を通して、一人一人の多様性(個性)を理解し、その場に応じた気を遣った言動を心がけていきたいと思います。そして、自分の役割というものをしっかりと果たし、また新しいものを自分から探しに行きたいです。またこれらを通してお互いを尊重した関係を築きたいと思います。山田先生、貴重なお話をありがとうございました。
 





3組 「ルールについて考える」
 今回は、「ルールについて考える」というテーマで青野先生からお話をお聞きしました。まずは、スポーツのルールについて考えました。スポーツのルールには、以下のようなものがあります。
一.双方のチームが公平な条件で競技ができる。
二.競技者が安心して競技に打ち込める。
三.観客も安心して観戦を楽しめる。
 これらのルールを無視したり、意図的な反則が行われたりしてしまうと、当然、個人・チームとしての勝負において不利益を得る(ペナルティ)となってしまいます。だから、個人の時は別として、チームでの勝負の場合は1人のペナルティが連帯責任となってしまいます。「そのようにならないためにはどうしたらいいか」について、みんなで考えてみるべきだと思いました。
 続いて、社会のルールについて考えました。社会のルールは成文律・不文律の二つに分かれています。成文律とは、明文化されているもので、違反すると罰を伴います。一方、不文律とは、暗黙のルールという意味です。私が考えた成文律と不文律の違いは、「社会から罰を伴うか伴わないか」だと思います。また、「明文化」と「暗黙」も一つの違いだと思います。成文律には例えとして、憲法・法律・条例があります。それとは逆に、不文律には、モラル(道徳・倫理)・マナー(行事・行動等)があるようです。
 最後に、学校のルールについて考えました。学校のルールには、伝統と建学の精神を合わせた独自性を持ったルールがあります。私の通っていた小学校で独自だと思うルールは、「髪の毛が肩にかかっていたら縛らなくてはならず、肩にかかっていなければ縛らなくてもいい」というルールです。
 これらの三つのルールについて、たとえルールの内容がほとんど違ったとしても、守っているのといないのとでは大きく変わると思います。ルールとは、人と人とがよりよく暮らすためにあるものだと思うので、守ることができない人についてはルールについてもっと知り、どうしたら今後そういう人が増えなくなるのか考え、みんなでより平和な未来を作っていけるように努力するべきだと思います。

   

    
4組 「公共心・公徳心を養うために」
 僕は公共心と公徳心ともに、これまでも、そしてこれからも、社会に出たらとても重要になってくる考え方だと思います。自分や身内などの利害関係のある人のみでなく、社会一般の利益を図ろうとする公共心は、社会に出て働き始めるより前から必要とされ、身に付けておくべき精神だと思います。また、この公共心は遠藤先生がいつもおっしゃっている「目配り・気配り・思いやり」という三つのことにも深く関係していると思います。自己中心的な考え方では公共心を身に付けることはできないと思います。公共心をしっかりと身に付けるためにも、常に周りに目を向けて生活していきたいです。自分が社会の一員であるとの自覚に基づき、社会生活の中で私達が守るべき道である公徳心は、以前の山田先生の道徳の授業の内容と深く関わっていると思います。多数の人間が互いに関わり合うことによって成り立っている社会生活がより円滑に営まれるために、人間の多様性を理解したり、人間それぞれの役割を理解するだけでなく、先の公徳心を身に付けることが重要であると思います。先の二つの心をしっかり身に付けていきたいです。
 ただし、街に出て周りにいる大人達を観察してみると、公共心や公徳心に反する行為や行動を数多く見ることができます。電車の中でまるで自宅にいるかのようにスマートフォンなどで遊んだり、くつろいだりしたり、煙草や包装用のプラスチックを路上にポイ捨てしてしまったりなどの行為が見られますが、なぜこのようなことをしてしまうのかと考えてみると、おそらくそれは周りや近い将来に対して目を向けられていないからだと思います。周りや近い将来に対して目を向けられていないため、自分自身を抑止できないことにつながるのだと思います。周りに目が向けられていないと、周りにいる人の大半が困惑したり、不快に感じたりしてしまうし、近い将来に目を向けられていないと、必ず後で自分や他の人の労力が使われなければならなくなります。これからも自分自身抑止していきたいです。

 





5組 「なぜ私たちは学ぶのか」
 今回の道徳の授業で、私は学ぶことの大切さを改めて感じることができました。私たちの住んでいる日本では、ほとんどの人が字を読むことができ、書くことができます。私はこの授業を受けるまではこれが当たり前だと思っていました。しかし、世界には全く字を読めない人、書けない人がたくさん存在すると言うことを知り、とても驚きました。字が読めないと本を読むことも、買い物をすることもできません。それに、字が書けないと勉強することが出来ません。国中のほとんどの人が字が読めないとなると、普通の生活も出来ないと思います。そのような人が世界中にはたくさんいる中で、私たちは私立の中学校に通わさせてもらっています。こんなにも恵まれている環境で育ち、学ぶことが出来るだなんて本当に幸せなことだと思います。そんな環境の中で「勉強なんてしたくない」など言っていると学校に行きたくても行けないような人たちにとても失礼だと思います。私たちは遊びにこの中学校に通っている訳ではなく、自分の将来の夢を叶えたいという思いでこの中学校に通っています。家族や先生、友達などたくさんの人に支えられて今の生活が成り立っています。支えてくださっている人たちに恩返しができるようにこれからも一生懸命勉強を頑張ろうと思いました。そして、今回の授業で、いらない教科など1つもないということを改めて感じました。授業では、理科や数学、技術などいくつかいらないと感じる教科が出てきました。しかし、本当にいらないのならばとっくに無くなっているはずですし、何かしら将来役に立つものだと思います。今はまだ、社会にも出ていないし、一人暮らしもしていないからわからないけれど、大人になってから気づくことも沢山あると思います。その時に、あの教科をしっかりと勉強していたら後悔しなかったのにと思いたくはありません。なので、今は何のためにやっているのか分からなくても、絶対に自分のためになるので、全てのことに一生懸命向き合いたいと思います。

 

        

 

6組 「命の尊さを知る」
 私は、この授業を受ける前、命について深く考えたことはありませんでした。しかし、今回の授業を受けて、命についてたくさん考えることができました。特に私が深く考えたことは、命の大切さ、命のバトンについてです。私は授業を受ける前、命を大切にするとは、自分のことも相手のことも考えて、幸せに過ごすことだと思っていました。しかし、この授業を受けて少し考えが変わりました。先生からいただいたプリントを見て、親の親というように遡っていくと、自分の二十五代も前は三千万人を超える人がいることが分かりました。そのたくさんの人々のおかげで今私がここにいることは、とても幸せなことだと思います。ですから命を大切にするということは、自分と相手のことを考えるだけではなく、私まで命のバトンを繋いでくれた先祖にも感謝をしながら生きることだと思いました。また、私には弟がいます。この弟が生まれたときは、私も母も、みんなとても喜んでいました。逆に、祖父が亡くなったときはみんなが悲しんでいました。私はこのとき、自分の命は自分だけのものではないと思いました。命のバトンを渡してくれた先祖や、私がバトンを渡す子孫など、みんなのものでもあると思いました。また、最近あった北海道胆振東部地震のように、身近な人や自分の命が突然奪われてしまうことがあるかもしれません。そのときに大きな後悔をしないように、周りの人や、毎日朝を迎えられる幸せを大切にしたいです。今回の授業で学んだ「命の尊さについて」を、これからの生活で活かせるようにしたいです。また、命の尊さを周りの人にも教えることで、みんなが命を大切にして、自殺などのような自分を傷つける行為がない社会になってほしいと思いました。
 




7組 「友人の多様性を受容する」
 今回、私は「多様性」という事について学びました。「多様性」とは、一人ひとりの違う所、それぞれの良い所、人種、言語、居住地、宗教、特技、性別、民族、国籍、価値観、生き方、考え方を言います。けれど、これ以上にまだまだあります。私は、趣味、出身地、年齢、誕生日、名前も「多様性」に含まれると思います。これらは、一人ひとりの個性を生み出していて、私はとても良いものだと思います。ですが、こういう「多様性」を受け止めず、「この人と私は違う。だから、友達じゃない。仲間はずれにしちゃえ」と思っている人もいます。ですが、こういう気持ち、境界線は全て、人の心が作り出しています。勝手に自分で決めつけてしまっているのです。私たち人間の残念な特徴は、「集団で行動するのを好む一方で、考え方や価値観の違うものを、排除しようとすること」です。このようなことが起きるせいで、いじめや仲間外れにされ、一人で悲しい気持ちになってしまう人がいるのだと思います。自分と100%同じ人はいません。なので、自分とは少し違っても、相手のことを受け入れて、みんなで仲良くなればいいと思います。周りの人とも仲良く出来ないのに、知らない外国の人となんか、もっと仲良くなれないと思います。まずは、周りの人のことを受け入れて、仲良くしていくことから、始めたいと思います。
 「多様性」とは逆に、今度は、「同調圧力」について、考えたいと思います。「同調圧力」とは、全ての人が共通して思っていることです。「同調圧力」とは、世界平和、金持ちになる、核のない世界、そして、幸せになること、人から認められること、居心地の良さ、安心して過ごせる雰囲気を言います。この中でも、私達が一番必要としていることは、人から認められることだと思います。マザーテレサの言葉で、こういう言葉があります。「この世の最大の不幸は貧しさや病ではなく、自分が必要とされていないことだ」正にこの通りだと思います。人から必要とされず、認められていなかったら、「自分なんて生きる価値もない」と思う人がいると思います。けれど、のはとても悲しいことだと思います。相手を認めているなら、相手に対して頷いてあげたり、合いづちを打ったりしてあげれば良いと思います。そして、相手が必要とされていると、伝えてあげれば良いと思います。私は、全ての人に生きる意味があると思います。私にだってあります。良い大学へ行き、将来の夢を叶えたいからです。全てに人にそういう夢があると思います。なので、友達を仲間外れにして、悲しい思いをさせたりするのは、その人の人生を傷付けてしまっているのと、同じことだと思います。なので、みんなで仲良くしていきたいと思います。

   

     
8組 「自由と責任」
 人が自由を得ることにより責任を負うことになる。それが人である。責任を捨てれば、罪となる。それもまた人である。人が人である限り、自由と責任は伴う。自由は自然に来るもの、責任もまた自然に来るもの。
 たとえば、生まれた時に負う生きる自由と責任。10代から負う学習する自由と責任。大人になる時に負う社会に生き貢献する自由と責任。など、そのものは時と人により変化する。我々学生は学び、先生は教え、親は守るなど、この三パターンだけでなく、組み合わせは人によって違い、団体によって違い、国によっても違う。もちろん、それはマイナスの点もあればプラスもある。ほとんどの国では、憲法があり、大体の国と国民は、自由権がある。人の考えは様々で、自由の形も様々。自分の持つ自由に不満を持てば、反乱する。そうでなければ、賛同する。当たり前のことである。それが良いことか悪いことかということは置いとくとして、人が正当であれば、何をしても、人の迷惑にはならない。それがインターネット上であろうと現実上であろうと、一緒である。
 人は自由をいろいろな方法で使う。人の迷惑になれば「罪」。罪も、元はと言えば自由である。自分に対し、罪を負わせるかどうかの自由である。つまり、人は自由と一生を過ごし、自由を使うことができる唯一の生物。良いことか悪いことかは、人によって考え方が違う。自由は時に責任に変わり、罪にも変わる。使い方次第で、全てに変わる。人は自由と同じものと言っても良いぐらいだ。戦争の時に、自由なんてなかった。だから、人がどんどん死んでいったことが一番わかりやすい例としてあげられる。人がいる世界、つまり自由のある世界。自由は人が作り、自由が人を作る。今はこういう世界である。