2018年度 中等部1学年 道徳感想文 第3回 6月4日

 
1組 「なぜ私たちは学ぶのか」
 今回の道徳で考えたことは、まずなぜ学ぶのかについてです。
 僕はこのなぜ学ぶのかについて人との関係を築くためだと考えました。僕は人との関係があって協力することによって新しい物ができたりするのだと考えました。
 次に「しあわせ」になる為にはなぜ教育が必要かということについてです、僕はまず幸せとはどのようなものかと考えました。幸せとは毎日苦労せずに生活が出来ることや争いが起きない事ではないかと考えました。教育を受けることによって生活や生きる為の知恵や争いが起きないことにつながることがあるのだなと思いました。例えば道徳や技術・家庭があって教育は人が不便無く生きていくことだと思いました。
 しかし世界には生活が不便な所や争い戦争などの地域などの「しあわせ」とは言いがたい場所があり、そのような地域の人達は教育を受けられて無いからそのようになってしまっているではないのかと思いました。しかし教育を受けても戦争にはなることはあるのでやはり簡単なものでは無く難しい物だと思いました。
 最後に人は学んだことを発展・応用していかなければならないと思いました。未来では、教科書に書かれていないことがたくさん起こりえますが、その時に応用や工夫をして考える力が必要だと思いました。この道徳で学んだ事や考えたことを未来で応用したり工夫をして生活をしていかなければならないと考えました。

   

      
2組 「命の尊さを知る」
 私は今回の道徳の授業で、命というものについて考えてみました。今、私には命があります。と言っても、「命」という名の物体があるというわけではなく、今私が生きているということを表す言葉です。命がある、命がないという言い方をすると、自分は生かされているのだという意識が生まれてくるのを感じます。自分は今周りの人のおかげで命を失わないでいられるというニュアンスを感じます。「命」というのは、そんな言葉だと思いました。
 しかし、いくら周囲の助けがあっても、若くして命を失ってしまう人は多くいます。先日、がんを患った状態で出産し、二歳の愛娘をこの世に残したまま病気で亡くなられた方の話をドキュメンタリー番組で見ました。病気と戦いながらも娘の将来を心配する母親の姿がありました。自分の母親もその母親と同じように、自分を毎日心配してくれているのかと思うと、自分は恵まれていると改めて実感しました。残された娘さんは現在私と同じ年だそうです。母親の死を踏まえて、自分も前を向いて歩むという決意の手紙を読んでいたのを聞いた時は、胸が熱くなりました。
 命という概念、命の重さについて考えたことを踏まえて、今私にできること、私がすべきことを考えました。まず、私を支えてくれる周囲の人々に感謝すること。別れはいつやってくるかわかりません。当たり前の日常が当たり前でなくなるのは容易いことです。家族、友人、先生・・・。言えなくなってしまう前に感謝の念を伝えたいと思います。
 次に、自分の命を燃やすこと。「命を燃やす」という表現はなかなかに言い得て妙です。確かに死は絶対不可逆ではありますが、ある程度の事故などは防ぐことができます。ましてや自殺などは以ての外です。今ある命を大切にし、生きたくても生きられなかった人々の分まで努力することです。今できる努力の種類はやはり勉強でしょう。数学や英語だけではなく、この道徳のような倫理的な物も含めてた「勉強」に励んでいきたいと思います。命の尊さを知り,生きたくても生きられない人のために尽くす。大切な人へ感謝する。今回知ったことを忘れないように胸にとどめ、生きていきたいと思います。

 

        

 

 





3組 「友人の多様性を受容する」
 今回の授業では、「多様性」について考えました。「多様性」や「ダイバーシティー」という言葉は、最近テレビ等で耳にするようになりました。これからの日本は、多様性を受け入れる世の中でないと成り立たないと思います。なぜかというと、日本は少子高齢社会になっています。若い人たちが減少しているので、外国人労働者の受け入れが必要となっています。外国人は、人種はもちろん、文化、宗教、価値観なども日本人と違います。日本は、外国人にあまり寛容ではありません。それは、江戸時代に鎖国などの政策を行っていたので、慣れていないのかもしれません。しかし、これからは外国人労働者を受け入れないと日本の産業が衰えてしまいます。つまり、これからの日本には「多様性」を受け入れることが重要なわけです。そこで、多様性とは何なのか、改めて意味を調べてみました。
 多様性とは、幅広く性質が異なるが、類似性のある群が存在することだそうです。つまり、共通点のある人が集まって群れを成し、その群れがたくさんあることのようです。これは学校のクラスのことだと思います。「群れ」のなかで生きていく上で、ストレスを感じることも多々あります。小学5年生のときです。僕は班でトイレ掃除をしていました。そのとき班のある子が、トイレの床にひざをつき、手をついて掃除をしろと言いました。僕は汚いと思ったので断りました。すると相手は怒ってトラブルになってしまいました。これは、僕の中の清潔に対する常識と、相手の清潔に対する常識が食い違ったために起きたのだと思います。頭の中の常識は、人それぞれです。このように人とぶつかってしまった場合、自分の常識と考えているものを、冷静に分析することが大切です。そうすれば、自分は相手をどのように見ているのかが分かるかもしれません。
 僕は「多様性」のある社会は利点もありますが、生きづらいことも多いと思います。しかし、自分の可能性を広げるためにも、多様性を受け入れることができるようになりたいです。

   

    
4組 「自由と責任」
 今回の山本副校長先生の講話をお聴きして、何かを表現する時にしてはならないことについて学びました。僕達のグループでは実名を載せることは絶対にやってはいけないという話になりました。他のグループも同様のことを言っていましたが、別のグループでは本人にまず許可をもらった上でと言っていました。
 今回のインターネットの話は自分達が発信する時の注意点でしたが、それとは別に自分がサイトなどを見る時の注意点について調べてみました。今回の講話の中にも出てきていた表現の自由は、情報発信だけでなく、犯罪をあおる表現や差別的な表現もあります。この他にもまだまだありますが、このような表現の自由は注意しないと最近増えているネット犯罪や想定外の事件などに発展します。闇サイトやネット犯罪などを監視するネットハンターという警視庁の捜査員が一般人に紛れて潜入捜査をする組織があります。他にも警察庁から委託を受けているSIA(セーファーインターネット協会)というグループもあります。SIAはヤフーなどインターネットビジネスに携わる企業の有志によって平成25年(2013年)に設立されました。SIAの活動は、インターネット上で違法な書き込みなどを掲示しているサイトの管理者に対して削除依頼を行っています。違法な書き込みは普通の掲示板などに紛れて、時には危険ドラッグなどが販売されていたりしています。SIAの活動により、2016年の一年間で削除依頼3万1222件の中から3万281件が削除され、削除率は97%だったようです。自分がサイトを見る時は自分が発信する時と同じ位注意をしなければならないと思います。インターネットが便利だからといって使っていると、思わぬところで犯罪などに巻き込まれる恐れがあります。だから情報などは情報源がはっきりした新聞や本・雑誌で手に入れようと思います。


 





5組 「国際社会に生きる」
 道徳の授業のあとにもう一度「国際」と「社会」の意味について調べ、「国際社会」の辞書的な意味を考えました。授業で考えた意味とは異なり、世界を単位として生活を営む人々の集団という意味だと考えました。これは、江戸取が行っている教育活動にも意味があってると思います。アメリカアカデミックツアーや、オーストラリア短期留学、カナダ修学旅行などは、実際に外国へ行き、異文化を体験しています。関西・中国地方では、国内での異文化を体験しています。ネイティブ外国人教師や、イングリッシュカフェは日常で異文化を体験しています。このようなことから私は、国際社会というのは、自分たちとは違う世界の異文化を体験し学んだり、理解したりすることだと思いました。異文化を体験するということは、外国人の方と接する機会がたくさんあると思います。授業では、外国人と接する際、どのように対応するかを話し合いました。私が一番共感できたのは、「言葉づかい、マナーに気をつける」です。やはり外国人の方であれば自分たちと文化が違うため、いろいろとルールのようなものが変わってきます。自分の国ではよくても、相手の国では失礼なことだったりします。例えば、日本では授業で手を挙げて発言したりしますが、ドイツでは「手を挙げる」という行動は禁止です。このように、文化の違いを理解しなければならないのです。だから、「言葉遣いやマナーに気をつける」というのは、とても大切な事だと思いました。他に「積極的に話しかける」という意見もありました。これも、大切だと思います。なぜかと言うと、外国人と沢山コミュニケーションをとると文化も知りやすくなるからです。私は将来、たくさんの外国人の方と接する仕事につきたいと思っています。今はまだ外国人に話しかけられただけで緊張してしまいますが、これからこの道徳の授業を活かして、外国人と接して行きたいです。

 

        

 

6組 「社会の一員として」
 「社会」というくくりが、家族や地域などの「集団」という意味であるという事はこれまでの道徳の授業で分かっていました。しかし今回の授業によって新たな発見が2つありました。1つは、人間は生まれてくる前から亡くなった後まで社会が続いているということです。先生が、「生まれる前でも亡くなった後でも家族という事には変わりない」という事をおっしゃった時、考えてみればその通りだと思いました。それは学校でも共通し、入学が決まった時から卒業した後も、生徒だ・生徒だったという事に変わりありません。改めて納得しました。もう一つは生きている上で、徐々に社会が増えていくという事です。以前の授業で説明してくださった「社会」のように、社会は沢山あり、それはだんだんと家族から、地域、学校など、だんだんと増えていくことが分かりました。次に、社会で生きていく上で必要不可欠であるものについて、僕達の班では話し合いの結果、江戸取生の一員としての自覚を持った「思いやり」や、一人一人の関係性を縮める「コミュニケーション」、人としての最低限の「マナー」、「常識」の四点が出ました。他の班から出た、「団体行動」などの意見に、とても考えさせられました。社会では一人では生きていくことは出来ないため、「団体行動」について意識することは、確かに重要だなと思ったからです。また、「江戸取としてどのような事を自覚し、実践していくべきか」という課題については「常に集団行動であることを自覚し、他人にとっていい刺激になるよう、一人一人が自分の役割を実践していくべき」だと話し合いました。これは社会の集団の一人であり、他の人が見て利益になるような行動をとることを目標にしたことから意見が出ました。僕は特に集団行動という点に重心を置いて心にとどめておきたいです。そして、「家族の一員として自分が出来る事」という議題に対して僕は、日頃家族という社会での生活を支えてくれている親に対してきちんと礼を尽くし、その恩返しとして「お手伝い」などの役に立てる行動を自分から取り組めるようになることが大切だという意見にたどり着きました。今回の授業では、「社会」というくくりが身近であるという事実に気付くことができました。最後に、これからは社会で生活していく上で言葉や行動に注意し、日々支えてくれている家族への感謝を忘れずに、自分が出来ることは自分でやり、先程の話のように他人にとっていい刺激になるようにしていきたいです。 
 





7組 「ルールについて考える」
 私は青野先生の講話をお聴きして、たくさんのことを感じました。私が特に感じたことは、ルールは守るためにあるというよりも様々な人がより良く生活するものだということです。守ることで周りの人たちから良い風に見られ、自分自身もよい気持ちで過ごせ、いいと思います。ルールを破ると必ずいやな気持ちになる人がいます。私はルールを皆が守れるようにするには、いやな気持ちになってしまった人の立場に立って理解した方が良いと思います。そして、ルールを皆が守れるようにしたいと思いました。
 ルールは自分たちをよくするためにあるものだと思います。ルールには必要のないものなどは含まれていないと思います。もし、ルールの中で守りたくないルールがあったらなぜこのようなルールが作られたのか、このルールを守るとどのようなことがあるかなど、考えを深め、理解したいと思いました。周りにルールを守ってない人、守りたくないと言っている人がいたら、ルールの必要性を教えたいと思います。注意をしても、ルールがある理由を理解してもらえないと直らないと思うからです。逆に、ルールがない状態で生活するとします。そうするといいことは何一つありません。つまり、ルールがない限り、気持ちよく過ごせないので、ルールは必要だということです。やらされるより、やりたいという気持ちが大切だと、感じました。
 守れることの良さを知り、行動にうつし、人を笑顔にさせられればと思います。それを習慣づけ、毎日気持ちよく過ごしたいです。このように、私はやらされ、理解せずルールを破ってしまうということよりも、やりたいと思い、理解していて、ルールを守って気持ちよく過ごしたいと思います。今回の講話がなかったときはルールはあるべきものだと思い、理解していなかったルールもあり、深くは考えたことがなかったけれど今回の青野先生の講話があったことで深く理解することができたのでこのような機会があったことへのありがたさも感じられました。

 

            

 

8組 「公共心・公徳心を養うために」
 今回の貝森先生の道徳の授業で江戸川学園取手中学校や高校の基本となっている規律はとても大切なものであるということがわかりました。規律とはマナー礼儀を守ることや公共の場で迷惑をかけないこと、人として良い行いをすること、周りを気遣うことであり規律は大切なものであると思いました。そして、ルールも学校生活や学校以外の公共の場所で大切なものになると思いました。
 でも、規律とルールは同じ意味の言葉ではないこともわかりました。主に規律とは支配や習慣のことを言うので、規律と規則も意味が違うことがわかりました。そして、規律の事以外にも公共心と言う言葉も知ることができました。公共ではなく自分自身が社会一般の利益を図ろうとする精神を持つことです。その心は自分を社会の中の1人であると自覚している大切なことだと思います。だから、社会のことに無関心にならないで常に社会のことに、目を向けて生きていくためには欠かせない心であると思います。そして公徳心と言う言葉も自分が社会の一員であることの自覚を持っていて社会生活の中で私たちが守るべき道のことを言っています。以前バスで隣にいた人に対して僕の荷物が邪魔になってしまいました。それは周りに気を配っていなかったと言う事と自分が社会の一員であると自覚していなかったからだと思います。これからは、常に自分は社会の一員である自覚を持って生活していこうと思いました。そして、その自覚をみんなが持てば、江戸取に来る苦情も少しは減ると思います。自分は、社会の一員であると思う事は本当に大切なことなのだとわかりました。こからの生活で苦情が減るように江戸取生の一員として努力していきたいです。