平成29年度 高等部1学年 道徳感想文 第3回(6月27日)

 
1組 「いじめの無い社会」
 僕は今まであまり「いじめ」という体験がなかったため、自分にはあまり関係ないものだと思っていました。しかし今回の授業を受けて、ひょっとしたら今までの友達関係の中で自分が加害者になっていたかもしれない、その逆に被害者にもなっていたかもしれないと思う事がたくさんありました。友達と仲良くしていれば絶対にいじめが起こらないというわけではなく、人間と人間の関わり合いなので、ちょっとした気持ちのずれからトラブルが起こることがケーススタディを読んでわかりました。今回の授業を受けて今ある楽しい学校生活が、知らず知らずのうちに他人を不幸にしてしまったり、場合によっては自分がそのような状況になってしまうと思うとても怖くなりましたが、言い方を変えれば、学校生活で落とし穴となるところを見つけることができたともいえるのではないかと思いました。相手の気持ちを考えられるようになる事や、親しい友達でも行きすぎないようにするように自分を戒めていこうと思いました。また、このようなことに気づかずに友達関係を築いている友人がいたら一声かけてやめさせることができるだろうかと自問自答しました。本当に仲良く遊んでいるだけかもしれないその状況に声をかけるのは勇気がいるかもしれませんが、ちょっと気になったら勇気を出して声を掛けようと思います。

 

        

 




2組 「ルールについて考える」
 私が通っていた中学校には髪型や服装についての詳しい規定がありませんでした。全て自分で考えて行動しなさいと言われていたので校則について考えることはあまりなかったです。しかし、江戸取に入ってから校則について深く考えるようになりました。入学したての頃は中学校の頃と比べてしまったりして厳しいと感じることが多々あり、「どうしてこんなに厳しいんだろうと」疑問に感じることもありました。今回の道徳の授業では、その疑問に対して自分なりの答えを二つ見つけることができたと思います。
 一つ目は、学校の看板を背負っているからという答えです。制服を着ている以上は、周りの人からその学校の生徒の1人として見られます。だから、少しでも社会のルールや決まりから逸れていることをすれば、逸れていることをした一人だけではなく、学校や生徒全員に対し悪いイメージを持ってしまうかもしれません。ルールは他の人に迷惑がかからないように心掛け、行動するためにも必要なのだと思います。
 二つ目は、社会のルールを今のうちから知っておくことが大切だからという答えです。校則を破ればまだ生徒指導ですみますが成文化された決まりに触れてしまえば、罰則が伴うため逮捕されてしまうこともあります。学校の生徒として守らなければならない最低限の決まりをしっかりと守ることで社会人になった時に大事なルールを守れるようになるのだと思います。自分を律してことの良し悪しを判断して江戸取生だということを忘れずにルールを守って生活していきたいです。

 

        

 

 





10組 「いじめの無い社会」
 自分は、岡室先生の道徳の授業を受けて、改めていじめはよくないと思いました。今回の話の中で、「衆人環視」の実験がとても印象に残りました。その例は、一人の女性が助けを呼んでいて、様々な状況下においてその女性を助けるかどうかというものでした。一人でいるとき、仲のいい友達といるとき、全く知らない人といるとき、わざと無関心を装う人といるときのうち、自分は仲のいい友達といるときが一番助ける確率が高いと思いました。しかし結果は、一人でいるときが一番助ける確率が高かったです。結果は、一人でいるときが、一番助ける確率が高くなっていましたが、自分は、仲のいい友達と一緒に助けたほうが助けやすいと思いました。これは、今回の議題となっている「いじめの無い社会」にするために必要なことだと思います。
 ところで、自分は、毎朝電車で学校に登下校しています。その中で、自分と同じ高校生たちが、ふざけあったりしているのを見たことがあります。自分は、ただふざけているように見えていましたが、もしかしたら、それはふざけていたのではなくいじめが起こっていたのかもしれないと、今回の道徳で気づきました。これからいじめをもっと減らし、いずれなくすためには、自分だけでなく周りの友達や、無関心を装っている人たちが「いじめ」は決して見逃してはいけないことだということを知ってもらう必要があると思います。そしてその先駆けに自分がなりたいです。

 

        

    

 

10組 「いじめの無い社会」
 私は今まで「いじめ」ついて、あまり考えたことはありませんでした。この道徳の授業を聞いて、初めて、平成二十五年」九月施行された、「いじめ対策推進法」を知りました。中学の頃に、「いじめ」をされた人が、「いじめ」だと思ったら、それが「いじめ」になると言っていたのを思い出しました。今回の授業では、多少、言葉が異なってはいましたが、ほぼ同じで、「認識のズレによって生じてしまったもの、心身に苦痛を与えてしまったものだ」とおっしゃっていました。また、心理的なこともお話しされていました。一人の女性が助けを呼んでいるときに、一人でいるとき、仲のいい人と一緒にいるとき、全く知らない人と一緒にいるとき、わざと無関心を装う人と一緒にいるときの助ける確率を実験してみると、その結果が一人でいるときより、わざと無関心を装う人たちが集まっている方が、「いじめ」は発生しやすくて、また、「いじめ」は無関心の数に相関するおっしゃっていました。確かに、「いじめ」はよく集団でやっているということをよく聞きます。これから、友人との心理的距離が近づいてくることがあるので、「いじめ」らしきものが起きないように、自らの行動や、言動を客観視して、気を付けたいと思いました。


 





11組 「ルールについて考える」
 ルールには大半の人が守れるものと、意識次第で守れるか守れないか傾く危険性のあるものと二つあると思います。前者は、社会の常識だからだと思いました。例えば、授業で寝ない、内職をしないことは先生への感謝を私達が授業を真剣に聞く姿勢で表す為だと思います。しかし、後者の本質的な意味の社会の常識であるモラルやマナーは守られていないことが多いと感じます。電車内での通話などの行為が他者に迷惑をかけます。その他者は不快感を感じ、マナーの悪い行為が他者の中の行動選択に存在することになると思います。これらの原因は、一人一人の意識だと思います。マナーを守る環境を壊すのも成り立たすこともできるからです。もし、ルールを破って注目を浴びたい人は自分の技術を磨くことで注目された方が本人も他者もより良い印象を持たれ、相互の関係で新しい分野のつながりが増えると思います。自分の欲求は満たされるはずです。ルールを破らない人達は充実した選択肢が複数あります。だから、ルールを破る選択肢を選ぶこと。それ自体が自然となくなっていくと思いました。以前、教養を深める為には様々な事に興味を持つことが大切だと思っていました。しかし、人と関わることでも深まると思いました。知識が豊富な人と関われば、その人を通して知識を得ることができます。ルールも同じことが言えると思います。ルールを守っている人と関わることで自分もルールを守っていこうと思っていけると思いました。

 

       

 

11組 「ルールについて考える」
 ルールというものはなぜあるのか。社会が安定して生活をするためのものであると思う。世の中にはいろいろなルールが存在している。その中には明文化されているものとないものがある。明文化されていないものはマナーなどである。明文化されているものを守れないのはなぜか。欲に負けたり好奇心などがあげられる。これをしたいと思ってもそれは今はしてはいけないという場合にそれをしたいという欲に負けてルールを破ってしまう。また、ばれなければ大丈夫という軽い気持ちがあるかもしれない。そのルールの意味が分かっていない、また、分かっていても行動する前にそのルールの意味を考えることができていないからであると思う。私の中学校には黙働清掃というものがあった。これは一言もしゃべらずに清掃に取り組むというものでしっかりと取り組みきれいにするためと心を磨くためのルールである。また、昼休みに校庭を使うのはローテーションというルールがあった。これはトラブルが起こらず気持ちよく遊べるようにするためのものである。もしそれを破ったらどうなるか。その日が外遊びの学年は気分を悪くするだろう。もしかしたら違反した学年はしばらく使えないということになっていてかもしれない。このように、自分たちが生活しているのは他人がいる場所なのだから、一つや二つは周りに影響が出てきて迷惑となる。そういったことを考えるということが「ルールの意味を考える」ということだと思う。ルールの意味を考えることでルールを破らなくなっていくかもしれない。
 





12組 「働くことの意義」
 私は今回の授業を受けて、仕事とは、どんなものでも自分以外の誰かに対して、何か役に立つことをすることだと考えました。これは、自分のためにならないこととは違って、誰かのために何か役に立つことをすることによって、充実感やお金も自動的に付いてくるものだという考え方です。誰かのためにやった仕事が自分のためにもなる、それは、自分も他人も幸せにできることだと思います。だから仕事をするのは誰かのためだと考えました。やはり、いつまでも成功している会社は、自分の利益だけを追い求めている所は少ないように思います。それは、人のためを思っているからこそ新しい考えなどが浮かび、成功する会社を築くことに繋がっていくと考えたからです。私の尊敬する人に以前「自分を育ててくれた親には感謝しなさい」と言われたことがあります。私はこれを「自分をどんなに些細なことでも成長させてくれた他人には、感謝しなさい」という風に受け取っています。私は、そんな人達のために働ける仕事に着きたいです。それは、将来の「幸せ」を掴むための一つの手段だと思うからです。だから自分の着く仕事の選択肢を増やすためにも、高校生活の三年は、大事なものだと思います。この三年間をどう活用していくかは、私の最大の課題です。しかし今回、副校長先生の授業を受けて、自分の将来を少し想像することができたので、これからは少しでも自分の理想に近づけるように日々努力していきたいです。

 

            

 

12組 「働くことの意義」
 仕事は、人間が生きていくには必要不可欠なものです。だからといって、自分の好きなことでなければ、うまくいきません。うまくいくどころか、「意義を持つこと」さえ危うくなると思います。さて、その「働く意義」とは一体何でしょうか。まずは、「他人の為」。確かに、自分の為だけを目的にしてはいけません。仕事をする以上、「誰か」の役に立つことをすべきです。では、その「誰か」とは、一体誰のことなのでしょうか。私は、その中でも「身近な人」のことだと思います。もし、「誰か」のことが最初から「顔も名前も知らない誰か」のことであったら、その人たちの役には立つでしょうが、もっと大切な存在である「身近な人」の役には立たなくなってしまいます。なので、働くことの意義のまず一つは、「身近にいる大切な人の役に立つこと」だと思います。そのような意義を持てるようにするにも、先に「他人の役に立つこと」を考えるのではなく、まず、「自分の強みを育てて自分自身のことを肯定できるようになること」を考えて働くべきだと思います。仕事に対してネガティブな感情を抱いたりしたままで働いても他人の役に立てないどころか、自分自身の役にも立てず、仕事を辞めてしまうかもしれないでしょう。「働くことの意義」。道徳の後にもいろいろと考えましたが、よくわかりません。他人のためか、自分のためか。お金のためか、そうではないか。一つに決めることはできませんでした。ですから、今は、「働くことの意義」を「自分だけでなく自分の周囲にいる人のことを幸せにすること」だと考えたいと思います。