平成29年度 高等部1学年 道徳感想文 第2回(5月16日)

 
1組 「ルールについて考える」
 私は今まで社会の中や中学校内にあるルールは自分一人だけが守れば良いと思っていました。だから仮にルールを破ってしまった時は自分で責任を取って終わりにすれば何も問題がないと思っていました。しかし個人がルールを破ることで必ず不利益を被る人が出てくることに気づきました。自分一人のせいで自分に関わっている人の多くに迷惑をかけてしまうのです。社会の中にはたくさんの種類のルールが存在しています。暗黙の了解のレベルから国で決まっているルールまで幅広くあり、国によって決められているルールを破った場合には法律に則った罰を受けることになりますが、暗黙の了解レベルのルールには罰がありません。罰がないとルールを破ってもそれが普通だと感じてしまう人もいるのではないかと思います。そうすると姿形だけは大人になり、心だけは成長しないで周囲の人に迷惑をかけている人になってしまいます。場所を気にせずに大声を出したり、狭い空間で携帯電話による通話を行ったり、挙げたらきりがありませんが、この人たちは自分では「おもしろい」という感情や「周りから注意を浴びている」という気持ちしか持っていないだろうと思います。私たちの年齢の生徒が学校でルールを破る原因はこの年齢による反抗心によるもので、ルールを破る自分がかっこいいなどと考えているのではないかと思います。ルールを破ることでどれだけの人に迷惑が掛かっているかを考えずにただの自己満足のために動いてしまう事がわからないのだと思います。まずはこのような高校生にならないようにし、今後ものこのような大人にならないようにしたいと思います。

 

        

 




2組 「国際社会に生きる」
 「国際社会に生きる」というテーマで道徳の授業がありました。その前に、千葉先生から「受験に受かる生徒」はどんな生徒かについてお話しがありました。まず、「授業中に寝ない」ことが一番なのだそうです。当たり前のことのように思えることですが、授業中に寝ない生徒は受かるものだと千葉先生はおっしゃっていました。次に、「教科書を徹底的に読み込んで、覚える」ことです。これは努力なしにはできないことだと思います。これからの勉強で覚えられるくらいにしっかりと教科書を読み込みたいです。そして、「受験に受かるかどうかは高二までの授業で決まる」そうです。まだ一年生だからと緩むのではなく、しっかりと受験を見据えて今から頑張っていきたいです。今日は、「共生するために」というテーマでグループ内で話し合いを行いました。様々な意見が出てきて、みんなが「共生」についてどのように考えているのかを知ることができました。私たちの班では、「互いの文化を認め、尊重する」「自分の文化をしっかりと確立する」「相手の文化を理解する」といった意見が出ました。また、他の班の人たちの意見は、「自国の文化を深く知って広げる・発信する」「互いに理解を深める」「言葉を知ることが重要」「相手とコミュニケーションをとる」など様々でした。みんな、相手のことを深く知り、理解することで共生できるというふうに考えていました。私もそれが一番大切だと思います。でも人にはそれぞれ自分の考え方があり、それが個性であるので、「知る」ことはできても「理解」をすることは難しいのではないかと思います。お互いの良い部分を見つけ、それを尊重し合うということ、またお互いの言語を知ってコミュニケーションをとることも重要だと思いました。これからの国際社会を生きていく上で、今回考えた「共生」というものをしっかりと意識していきたいです。

 

        

 

 





10組 「ルールについて考える」
 ルールについての歴史を世界史の授業で学んでいて、「慣習法の成文化」という出来事がどれだけすごいことだったのかについて思いを巡らせることがありました。成文法ができたことで、ルールは特権階級だけのものではなくなり、平民にも開かれたものになりました。それはつまり、平民の政治参加、市民権を認めることにつながっていきました。
 ルールを知らされていないと、いろいろな問題が日常的に起こります。江戸取に入学して部活に入り、私は部活の中での不文律の多さに驚きました。そして、それは不公平であると感じました。慣れてくると普通に守れるようにもなりましたが、やはりルールは成文化されている方が、分かりやすいのだと思いました。
 スポーツにおいてルールを破るという行為は、そのスポーツ自体の存在を否定することに変わりありません。サッカーで、手を使ってボールを抱えてゴールまで走っているような選手はあり得ません。サッカーをサッカーたらしめているのは、共通のルールと、それを守り抜く選手です。私はこの発想が学校生活にも必要だと感じました。罪悪感を覚えて生活することも大切だと思いますが、罪悪性ばかりを助長しても、違反する人は違反してしまいます。なぜ人はルールを破るのか、という問いかけがありましたが、ルールを守り、場を成立させようという意思がその人に欠如しているからだと思います。高校生活という「ゲーム」を楽しむために、私はルールを守って生活することを自分に約束します。

 

        

  

 

10組 「ルールについて考える」
 私の中学校はとても荒れていたこともあり、ルールは多かったもののあまり守られていませんでした。髪を染めている人、ピアスをしている人、スカートを折っている人や、法律すらも破っている人がいました。だからこそ、江戸取のルールはとても厳しく思いました。ルールを破れば、生徒指導になってしまうという罰があり、変に違反したりするものばかばかしい気もしました。江戸取に入った以上は、三年間どうにか我慢しようと思います。
 ルールを破ると徳を失うという話については、勉強についても同じことが言えると思います。カンニングは自分のためにもならないし、良いこととは思えません。しかし、時間がなく宿題にしかたなく答を写して出してしまったことがあります。怒られませんでしたが、私は怒られるべきだったと思います。中学時代の最後の最後で、冬休みの宿題で答を写してしまったことがあります。受験生に宿題を出してくるのも悪いと思っていましたが、それでも気持ち的にすごく嫌で、一生写さないと自分に約束したつもりです。答を写したことについて罰がなかったのは、その時間が無意味であり、本人が一番その徒労を理解しているということを、先生も分かっているからだと思いました。
 「なぜ人はルールを破るのか」という問については、私はいろいろ考えた結果、やはり「ルールがあるから」だという結論に至りました。


 





11組 「国際社会に生きる」
 今の国際社会でよい国際関係を築いていくためには、まず、みんなが班で話し合って意見を出した時に言っていたように、自分の国の文化や歴史を詳しく学ぶことが大切だと思います。そして、他国の文化や歴史も学び、違いをしっかりと理解しなければ、よい国際関係は築いていくことができません。他の国も自分の国とは違った考え方や感じ方、言葉の意味のとらえ方に違いがあります。自分の意見や考えを伝えるだけではなく、相手の国のこともしっかりと理解した上で、良い国際関係を結ぶべきだと思います。そして国境を越えて助けあうことが今の国際社会では必要なことでもあります。今、たくさんの団体が国境を越えて他国を支援したりしています。自分の国、1つの国だけでは解決できない問題も色々な国で助けあい、理解していくことが今の国際社会で求められている大切な事だといます。自分の国のことを伝え、相手の国のことを学ぶためには、外国の方々とコミュニケーションをとらなくてはなりません。そして、私たちが社会人になる頃には、外国の方々と一緒に働くことが普通になると思います。そこでお互いの意見を伝え合うためにも、外国語は話さなければならないと思いました。私は、今まで、外国の方々と関わりを持つことは大切だとか、外国語を話すことが大事だとか、あまり考えたことがありませんでした。でも、今回のLHRで違う視点から世界を見つめることが出来て良かったです。

 

      

 

11組 「国際社会に生きる」
 この世の中には2種類の人間が存在します。国際社会に目を向け、自ら自国の文化や意見を発信する人間とそうでない人間です。その中でも日本は特に後者の方が多いと思います。なぜなら、日本人は人の意見に合わせることが多く、意思表示をあまりしないという人が他国と比べて多いからです。しかし、この先そういう人が増えていってしまうと自国の良さを発信する人間が減っていき、完全に日本という国は他国の人の頭の中では存在しなくなります。それを防ぐためにも、前者になる必要がありますが、自国を発信するだけというのも、他国から敬遠される可能性があります。なぜならそれぞれの国にはそれぞれの文化、考え方などがあるからです。また、相手の意見に耳を傾けることも大切です。相手の話を聞かなければ、それこそ敬遠されてしまいます。よって、私たちが他国との交流で重要なことは相手の国の文化、考えを理解し、尊重しながら自国を発信し、また、相手の意見に耳を傾けることだと思います。これらの重要なことを踏まえて、前者の様な人間になりたいです。そして、世界中の人々が日本という国を知って欲しいです。また、国際社会の中で生き抜くためには、外国語の習得が必須となってきます。しかし、僕は英語があまり得意ではありません。ですが、苦手のままにするのではなく、しっかりと勉強し、世界で羽ばたくリーダーシップをもって、どんどん進むグローバル化の中で世界で活躍できる人間になりたいです。
 





12組 「いじめの無い社会」
 授業の中の話し合いで、対人関係の難しさを感じました。私の通う小学校では、一年生の時から相手が嫌がるような「トゲトゲ言葉」を言ってはいけないと教わってきました。また、総合学習の時間には「いじめ」や「嫌がらせ」などについて何度も授業を受けてきたので、いじめをやってはいけないことや相手の嫌がること、自分で嫌だと感じることを相手にやってはいけないことを教わってきました。しかし、友達の悪口を陰で言う人は多かったと感じます。いつも仲良くしているあるグループの中で、そのうちの一人がいない時に残りの人が悪口を言い合っているというのがあったのを覚えています。私はそのグループに入ってはいませんでしたが、こんなふうに陰で自分のことを悪く言われるのは嫌だなと思いました。私の小学校は、一学年に二クラスある小さい学校で皆お互いの長所や短所を知っている仲だったと思います。それぞれ嫌いな人がいたし、複数で陰口を言う人がいましたが、個人や集団のいじめにつながらなかったのは、いじめを絶対にやってはいけないことを理解している人がいたからだと思います。今、テレビや新聞で、いじめが原因で自殺に至ることをよく耳にします。いじめが起こった原因の一つは、周囲の人の中にいじめをやってはいけないと本当に理解している人が少なかったことにあると思います。やってはいけないと理解している人が多かったならば、いじめは少なくなると私は思います。

 

          

 

12組 「いじめの無い社会」
 江戸取では「いじめを見ていた人も共犯」という決まりがあります。最初は、いじめをしている人だけが悪いと思っていたのでその決まりには驚きました。しかし後にその決まりは正しいのではないかと思いました。いじめを見ている人はいじめられている人を助けないのでいじめている人と同じです。言い難い話ですが、小学生の頃いじめられたことがあります。単純に言うとちょっかいをかけられ、次第にエスカレートしていき、悪口を言われました。辛い出来事でしたが、中学生になると陰口を言われていたかもしれませんが、言われなくなりました。この経験があったのでいじめられる人の気持ちはわかります。しかし、中学生の時「いじめを見ている人」になってしまいました。いじめられたことがあるのにやってしまいました。今でも心残りになっています。
 ところで、なぜいじめが起きるのか自分なりに推理してみました。いじめている人が「いじめ」と認識していないのではないかと思いました。いじめている人は軽いちょっかいとしか思っていないと思います。ですから、いじめがなくならないと思います。いじめは結局なくならないと思いますが、一人一人が意識する必要があると思います。また、いじめられている人も嫌なことは、はっきりと言うべきだと思います。いじめている人にいじめられている人が辛いと認識させなければならないからです。このようにすれば誰もが安心して生活できると思います。