平成28年度 高等部1学年 道徳感想文 第8回(3月7日実施) 

1組 「友人の多様性を受容する」
 今回道徳の授業をお聴きして感じたことは、人間の思い込みや固定観念によって、いじめや戦争が起こっているのではないかということです。
 僕が中学1年生の時、とても不快なことが起こりました。あるクラスメイトに生活態度について注意した結果、その注意した友達の策略で、クラスのLINEから退会させられてしまいました。その手口はとても汚いものでした。心当たりがあった僕はそのクラスメイトに問いつめたところ、相手は知らないの一点張りでした。その件があって以来、僕と彼の関係は悪化したままです。このようなことが国家単位で起こったものが戦争なのではないかと思います。国どうしは友達とは言えないと思いますが、それでもお互いの国の宗教や考え方を受容するということは、戦争などの争いを防ぐ上で重要なことだと思います。
 また、お互いを受容するには自分自身をさらけ出すことをしなければなりません。表面だけの付き合いでは自分自身の経験にもなりませんし、言動が一致していなかったりすると争いの原因になります。
人間はすべてを「善」か「悪」で決めたがる生物だと思います。古くは奴隷制度などで見られ、現代では学歴社会など様々な場面で見受けられます。しかし金子みすずの詩にもあるように、「みんな違ってみんないい」という考え方を持つことで、これからの世の中はもっと良くなるのではないかと考えました。まずは自分から友人の多様性を受容していこうと思います。


 




2組 「自由と責任」
 今回の授業を受けて、私は、「自由」や「責任」と一言に言っても、その本質的な意味は一つには決められず難しいものだと感じました。
 例えば自由という概念は、今回の授業にもあったように、自分の好きなことができる、束縛されないという側面以外にも見た目では自由かどうか分からない、相手の自由も尊重しなければならないなど、いろいろな面があるということが分かりました。しかし、そのような抽象的な概念も、よく考えることによってそれぞれの人なりの答えが出るし、社会の色々な問題を解決するのに役立つと思います。自由については、私は今まで「自分のやりたいことを自分で決めてやる」ということだと思っていましたが、よく考えてみると、相手の自由も尊重されるべきだから、完全にやりたいことができるわけではないと思いました。そして、自分なりには、自由とは「全員が、相手に大きな迷惑をかけない範囲で、必要な選択を自分でできる状態」だと考えました。
 また、責任については、グループワークで意見を交換し合い、多角的に考えることができました。その中で、責任は義務と似ているという意見が出て、確かにその違いはあまりないように思えましたが、よく考えてみて、責任は自分から取るものだが義務は他人に与えられた、もしくは拒否することができないものだと思いました。責任は、私の意見では、「自由に何かを選択した後の結果を受け止め、問題が発生したらそれを解決する」ということだと思っているので、本来は自分から負うものだと思います。例えば、自分でどんな風に生きていくか自由に選択したら、それを達成するという自分自身への責任がついてくると思います。つまり、自由があれば責任が生まれるということだと考えました。これから年齢を重ねていき、大学生や社会人になるにあたって、保護者の保護から離れて自由に自分で選択する機会が増えていくと思うので、それに伴う責任や義務もしっかりと考えられるようにしたいと思います。また、医学部を目指す人間として、様々な人の一人一人の自由と責任についても深い考えを持てるようにしようと思います。

 

  

 

 





10組 「友人の多様性を受容する」
 「私達は同じような者同士で集まりたがる生き物である。」と武居先生は、おっしゃっていました。私の場合はあまり当てはまらないと思いましたが、武居先生のおっしゃることにはとても同意します。少し違った方向に個性が向いていたり、強すぎてしまうと「嫌な子」「合わない子」といっていじめの対象になったり、排除されてしまいます。特に日本人は皆が同じでなくてはならなくて、特別などは許されないとてもつまらない集団であると感じました。友人として受け入れるには、心の広さ、理解しようとする心がなくてはならないと思います。外国人から見た日本人は集団的な統率が取れた素晴らしい人たちと思えるかもしれません。しかし、個性を押し殺してまで揃える必要はないと思います。自分から発信することができずに苦しみ、学校に来られない子がいるというのが今の日本の実態だと思います。だから、私は少なくとも私の周りにいる友人が自己を発信して受け止めてあげられる人になれるように努力したいと思います。そうは言ったものの、友人を受け入れるにはまず自分が自身のことについて知る必要性があると思います。ジョハリの窓に当てはめてみると盲目の窓が10あり、圧倒的に盲目の窓が多いということは自分についてあまりまだ分かっていないのだと感じました。もう少し自分に関心を持ち、自分を知るところから始めていこうと思います。

     

    

 

10組 「友人の多様性を受容する」
 今回の道徳では、人間関係について考える機会になりました。15年間生きてきて様々な個性を持った人達と出会いました。その中にはとても仲良くなれる人と苦手だと思う人の2つに別れてしまいます。私が仲良くなれる人は、趣味が合ったり、相手の話が面白かったりなど、自分に好印象を与えてくれる人達です。一方で、仲良くなれないと思う人は、話をしていると常に自分の主張ばかりで私の意見を聞いてもらえなかったり、自分と価値観が合わなかったりする人でした。今までは「あの人は話を聞いてくれない」などと相手ばかりを批判していましたが、本当は自分が壁を作っていただけなのではないかと思います。この人が合わないと思うきっかけは、たった一度そういう行為をされたというだけで、相手がどんな人なのかを深く理解せずに自分から壁を作って切り捨ててしまっていたのではないかと思います。第一印象が悪かったからといって、その人はとても優しかったり、共通の趣味があったりすることもあります。
 周りの人があの人を嫌っているからという理由で、自分も嫌おうとします。そしてその嫌われた人は孤立して、いじめへと発展したりします。人には価値観があり、それによって好き嫌いを決めるのですから、多数の人が嫌っても、自分とは意外と気が合うという可能性は十分あります。私も含めて今の若い世代の人達は、すぐに答えをだそうとし、人を選別してしまいます。しかし、長い目を持ち、自分で相手のことを理解しようとする努力が必要です。


 





11組 「自由と責任」
 今回の道徳では、自由と責任について学ぶことによって、人間はどれほど自由であるのか、またどれだけ自由でいてよいのかなどについて考えることができたと思います。人は、自由ではあるけれども、完全に自由であるとは言えません。法律やそれぞれの場所でのルールなどがあり、ある程度の自由しかありません、人によっては完全に自由であるべきだと考えるかもしれませんが、完全に自由であることは何からも束縛されないので、法律なども犯してよいことになってしまいます。ですから、自由は、ある程度であればそれで十分なのだと思いました。自由というのは、私は今まで他の者から干渉されない、束縛されない、自分の思い通りにやりたいことができるというものだと考えていましたが、自由にはその人がやりたくてやっているわけではない自由や、またほかの人から見たら自由とは見えないけれど本人からしてみればやりたくてやっている自由など、見かけでは判断が難しい事由があることを、今回の授業で知りました。このように、自由とはどのような物であるのかを、具体的に知ることができたと思います。また、今回は責任についても学びましたが、自由には責任も必要であるという風に思いました。自分でしっかりと、あらゆる物事に対して責任を持つことにより、例えそれが自分がどうしてもやりたいことであっても、他人に迷惑をかけるのであればそれをやらないなどというように、責任によって自由を自主的に制限することができます。私は、これから生きていく上でも、自由の意味をよく考え、また、責任をしっかり持って生活をしていこうと思っています。

 

       

 

11組 「自由と責任」
 私は今日の道徳の授業を受けて、今まで考えたことの無かった「自由と責任」について考えました。私にとって、自由であるということは生まれながらの事であり、そこまできちんと考えるようなものではないと思っていました。同様に責任だってそうでした。しかし今日の授業を受けて、自由であるということは当たり前についてくるものではないことがわかりました。私は、自由とは自分らしくいられることだと考えています。しかし、自由にもいろいろな自由がある様に(精神の自由や身体の自由など)何を持って自由というかを決めるのはとても難しいことだと思います。化粧の例でもあったように、身体的には自由でも、精神的に自由でないことはたくさんあります。ですから、自由であるかどうかの判断は一概にはできないし、見た感じでは判断できないことが分かりました。責任については今日の授業で、たくさんのことを考えました。私は、自分に生じる責任は身近な対人関係だけだと考えていました。しかし私には自分自身に対する責任も、社会に対する責任も負う義務があるということを知りました。私は、生まれてきた以上、常に向上心を持ち、一日一日成長していかなければならないと思います。そうでないと生きている意味はないと思うからです。社会に対する責任は、法を守る責任、社会に貢献する責任があると思います。そう考えると、私たちは生きているだけでたくさんの責任を持つことは当たり前の事なので、「生きていること=自分がしていること」と考えればそれも当然のように思えます。責任はとても重いものですが、逆に重いからこそ、自分自身を奮い立たせたりしてくれることもあると思います。立場が人を作るという言葉があるように責任を感じる人はしっかりすることもあると思います。このように、責任を持つということは良い面と悪い面があると思います。社会に出たら、もっと責任は多く、重くなるし、ストレスになることも多いと思います。しかし、だからこそ、自由と責任のバランスをとってうまくやっていくことが大切だと思いました。そのためにも、今のうちから自分の責任を意識しながら生活していきたいと思います。私は今日の道徳の授業を受けて、今まで考えたことの無かった「自由と責任」について考えました。私にとって、自由であるということは生まれながらの事であり、そこまできちんと考えるようなものではないと思っていました。同様に責任だってそうでした。しかし今日の授業を受けて、自由であるということは当たり前についてくるものではないことがわかりました。私は、自由とは自分らしくいられることだと考えています。しかし、自由にもいろいろな自由がある様に(精神の自由や身体の自由など)何を持って自由というかを決めるのはとても難しいことだと思います。化粧の例でもあったように、身体的には自由でも、精神的に自由でないことはたくさんあります。ですから、自由であるかどうかの判断は一概にはできないし、見た感じでは判断できないことが分かりました。責任については今日の授業で、たくさんのことを考えました。私は、自分に生じる責任は身近な対人関係だけだと考えていました。しかし私には自分自身に対する責任も、社会に対する責任も負う義務があるということを知りました。私は、生まれてきた以上、常に向上心を持ち、一日一日成長していかなければならないと思います。そうでないと生きている意味はないと思うからです。社会に対する責任は、法を守る責任、社会に貢献する責任があると思います。そう考えると、私たちは生きているだけでたくさんの責任を持つことは当たり前の事なので、「生きていること=自分がしていること」と考えればそれも当然のように思えます。責任はとても重いものですが、逆に重いからこそ、自分自身を奮い立たせたりしてくれることもあると思います。立場が人を作るという言葉があるように責任を感じる人はしっかりすることもあると思います。このように、責任を持つということは良い面と悪い面があると思います。社会に出たら、もっと責任は多く、重くなるし、ストレスになることも多いと思います。しかし、だからこそ、自由と責任のバランスをとってうまくやっていくことが大切だと思いました。そのためにも、今のうちから自分の責任を意識しながら生活していきたいと思います。
 





12組 「命の尊さを知る」

 東日本大震災という大きな災害が起きたことで、悲しい話もたくさん生まれたけど、その数よりも多くの心温まる話もあったのではないかと、今回の遠藤実由喜先生の道徳を受けて感じました。人間が辛い目に合って生まれた話だから、良い話としてひとくくりにすることはできないと思うけれど、その数多くのエピソードから、学ぶべき大切なことを受け取ることは大事だと思いました。私は東日本大震災によって、生きたかったけど死んでしまった人の話や、病気によっておじいちゃんになりたかったけど死んでしまった男の子の話を聞いて、十五、十六と多感な時期である私たちが生きていることの大切さや、大事さ、昨日まで笑っていた友人たちが死んでしまう悲しさやむなしさを知ることは大切だと感じました。私が最も心に残った話は、病気によって亡くなった男の子の弟が「僕がお兄ちゃんの代わりになれたら良いのに」という言葉です。その時、既に兄は亡くなっていて、亡くなってしまうというのがどういうことか理解したうえで母親に、そう言ったのを聞いた時、私も姉がいますが、姉の代わりに死ぬことを選べるかどうかわかりませんでした。だから、小さな男の子が、私よりも強い覚悟を持っていることに驚いて、すごいと感じました。私は誰かを守るために死ぬことは最もかっこいいけど、最も難しいことであると感じています。だから、この小さな男の子が母親が悲しんでいるのを見て、身代わりになろうとする行為が、とても難しいことだと思いました。最後に、私は母親からの手紙を読んで、私も大変なことはあるけど、それ以上に母は大変だったんだなと思いました。私の失敗は私しか困らないけれども、母の子育ての失敗は子供がケガをしたりすることにつながってしまうので、私をここまで大きく育ててくれた両親に感謝しています。命を大切にすることは私だけでなく、私に関わったすべての人を大切にすることにつながるのではないかと感じました。

 

   

 

12組 「命の尊さを知る」
 現代の高校生(学生)の死亡率で最も高いのが「自殺」です。その理由は人それぞれだけれど、本当にまだ若い自分達が簡単に命というたった一つのものを手放してもいいのでしょうか。理由の中で一番多いのはいじめだと考えました。いじめは差別や相手のことを人として尊重していないから起きてしまうのです。与えられた命を大切にするのはもちろん自分自身ですが、他人にも関わってきていると思います。毎日他人のことを考えて気を使って生活するのは面倒かもしれないけれど、意識していない範囲で傷つけている可能性があるので、責任を持つということも大切です。この授業を終えた後、気仙沼市立階上中学校の答辞の動画を見ました。「人間の力はあまりにも無力」という言葉に心を惹かれました。当時、自分は小学四年生で命の重みははっきり理解していませんでした。ですが、もう高校一年生なので今になってこの災害の重みや、災害に対する憎しみ、被害を受けた人の苦しさがしみじみ分かってきました。「残されたものとして人間らしく生きる」の言葉で、生まれて命を与えられた一人の人間として、たった一つの影響くらいで命まで手放すのはやはり人間としてあるまじき行為です。現在、自分の弟が反抗期で、それに対して自分の親は、誰もが通る道だからと言っていました。自分は自分を生んでくれ育ててくれたのは親で、自分達にとっては一番の権力者と言っていいほど上にいる立場であるべきと考えていました。人生というのは大半は大人として生きているけれども、親がいる生活というのは自分が自律して生きていくよりも、もっとかけがえのない大切なものでもあると思いました。人の命というのは守る守られる関係と言えば正しいと思います。なぜなら生まれてきた自分達は親やたくさんの人達に見守られだんだん成長していくのです。一方、大きくなったら逆に見守らなければいけない存在になってきます。そういう命のバトンという名でつながれているのだと考えました。大切なものは「もの」じゃなくて人の命というかけがえのないもので、そんな命を受け継いでいる自分達は引き継がなければならないので、簡単に命を手放してはいけないし、失ってはいけないものだと思いました。