平成28年度 高等部1学年 道徳感想文 第6回 (11月22日実施) 

1組 「福祉社会」
 今回の道徳では、福祉社会についてお話をお聴きしました。今回のお話をお聴きして、身近な福祉について考えてみました。
 1つめは駅で見かけた点字です。これは取手駅にもありましたし、馬橋駅にもありました。特に、切符売り場で多く見ることができました。僕も前に目を閉じて点字を触ったことがありますが、文字を区別することがとても難しかったことを覚えています。目の不自由な方は相当な訓練をしているのだと思いました。
 2つめは車椅子などに乗った足の不自由な人が押す、横断歩道のボタンです。これは普通のボタンと違って、周りが黄色ではなく白くなっています。そしてこれを押すと普通よりも青信号の時間が長くなります。このボタンはあまり見かけないので、もっと増やした方が良いと思います。
 今回はバリアフリーに関することを中心に挙げましたが、身近な福祉というものはたくさんあります。もっと僕たちは福祉に関して興味を持ち、改善すべき点はどんどん改善していかなければならないと思います。
 障害者の方たちに対する差別を完全になくするということは、決して簡単ではないと思います。特に変な同情をせずに、健常者の人と同じように接するということはとても難しいことですが、1人1人の心のあり方を変えていけば、きっと実現できることだと思いました。僕たちはこの実現を諦めずに目指していかなければならないと思います。



 




2組 「命の尊さを知る」
  最近一週間ほどは地震が多発していて、授業の当日にも大きな地震があったので、私は、自分がいつ死んでもおかしくないということを意識するようになっていました。そして、授業を受けてさらにそれに対する考えが深まりました。地震だけでなく、病気や事故など命が失われる可能性はたくさんあり、命は大切だけれど、すぐなくなってしまうものだと思いました。だからこそ、もし何かがあった時は危険を回避できるようにしなければならないし、自分にできることはすべてやって悔いが残らないように準備しておくことが必要だと思います。
 授業の中では、遠藤未希さんの話が印象に残りました。彼女は自分の命を犠牲にして、町の人々の多くの命を助けたのだと思います。しかし、もし私が彼女だったら、自分が死にそうになったらすぐ逃げてしまうと思うので、遠藤さんの精神力と他人を思いやる力はとても強かったのだろうと思いました。でも、私は他人の命を救うことだけでなく自分の命も大切にしたいです。なぜなら、あいだみつをさんの詩にあるように、自分の命はとてもたくさんの命によってできたもので、親や祖父母によって大切にされてきたので、そのようなたくさんの人々が繋いでくれたものを絶やすことはしたくないからです。また、そこで生きのびれば自分の未来は増え、もっとたくさんの人を救える可能性があると思うからです。また、私は医科コースにいて、医師を目指す人間として、命についてはとくに考えなければいけないと思います。医師になって他人の命や生活を救うのはとても大変なことだし、医師になるまでの過程も厳しいと思いますが、医療という方法はたくさんの人を救えると思うので努力していきたいです。また、状況によっては命だけを優先するか、患者さんや家族の気持ちを優先するかという選択などもあり、それは難しい問題だと思うので、今のうちから命に対する考えを深めておきたいです。命はわからないことも多く不思議なものですが、失われると戻らないということはわかるので、自分と他人の命を大切にすること、失わないようにすることを常に考えていく姿勢を持ちたいです。

 

      

 

 





10組 「福祉社会」
 今回の道徳の授業を受けて、福祉について考えることができました。日本は福祉社会が進んでいるかという質問で、私は進んでいる国だと思っていました。しかし、昔の日本と比べると進んでいるが、世界的に見ると進んでいないという答えでした。よく思い出してみると、私の祖母は足が悪く、電車で乗り換えをする際に、エレベーターがある駅を選んだり、降りる予定の駅にエレベーターがない場合は一つ前の駅からタクシーに乗ったりしています。そのことを考えると日本はまだ福祉社会と言い切ることはできないと思いました。
 日本は福祉社会が進んでいる国だと私が思っていた理由を考えてみました。道路には視覚障がいを持っている方のための点字ブロックが設置されています。信号機には聴覚に障がいがある方のための音響装置が付いています。その他にもたくさんありました。授業中に配布されたプリントには世の中にある様々なマークがあり、見たことのあるマークもありましたが、見たことがなく、意味が分からないマークもありました。意味が分からないマークの意味をしっかりと覚えようと思いました。
 話し合いでは、身近な福祉について、自分がやったことがあるもの、これからやってみたいものについて話し合いました。私は電車やバスで席を譲ったことがあります。これからはもっと積極的に福祉社会に貢献したいと思いました。パラリンピックのコピーの話を聞いて、障がいを持っているから、お年寄りだからといって手伝ったり、譲ったりするのではなく、その人が今、何を必要としているのかを考え、行動しなくてはいけないのだと分かりました。
 この授業を受けて、福祉社会のために、まずは自己の意識改革をすることが大切ということ、できることから少しずつ始めること、嫌々やるのではなく、他人のために尽くすことの喜びを実感することなどを考え直すことができました。これらは当たり前のことですが、忘れがちなことでもあります。皆が小さいことからでも行い、日本が世界的にも福祉社会と言えるようになってほしいです。

     

       

 

10組 「福祉社会」
 今回の道徳の授業を受けて、障がいのある人に対しての考え方を見つめ直すことができました。僕は障害のある人のことを考えて、きちんと支え、積極的に手伝うことが最も重要だと考えていました。もちろん、支えることも大切です。しかし、実際は障がいのある人もみんなと同じように同じことをしたいと思っています。確かに、僕が障がいのある人の立場になって考えてみると、過剰にフォローされるのは、少し嫌になるかもしれません。だから、障がいなどの有無に関係なく、全ての人が人間らしく快適に過ごすことのできる「本当の福祉社会」を目指していくことが大切であると思いました。
 もう一つ、今回の道徳を通して学んだことはマークについてです。実際にマークを見ると、ほとんどが知らないものばかりでした。ところが、電車や道で気を付けて見ていると、そのマークはあふれるほどありました。だから、これからはそのようなことを意識して、マークを見かけたら、席を譲るなど、できることから少しずつ始めていこうと思いました。
 また、ボランティア活動なども積極的に参加していこうと思いました。そして、それらを通して、他人のために尽くすことの喜びを実感したいと思います。


 





11組 「命の尊さを知る」
  今回の道徳でテーマの「命の尊さを知る」ということについて、多くの事を学び、考えることができました。まず、遠藤先生の話を聞いて、東日本大震災の事を思い出しました。あの時、小学校5年生で今まで体験したことの無い大きな地震に恐怖を感じたことを覚えています。そして、ニュースなどを見て、宮城県や福島県などの被災地の状況を知り、とても驚き、悲しい気持ちになりました。そんな中で気仙沼市立階上中学校の卒業式で答辞を読んだ梶原雄太さんの言葉は悲しみや辛さよりも強い意志や将来への希望を強く感じました。もし自分が梶原さんの立場であったらと考えると、梶原さんほど前向きな答辞を読むことができる自信はないです。答辞を聞いて、大震災で起きた大きな被害、多くの命が失われてしまったことをずっと忘れてはいけないと改めて感じました。また、南三陸町では遠藤未希さんの、一人でも多くの命を救いたいという強い気持ちも感じ、大切なことだと思いました。
 次に10万人に1人と言われる難病を抱えたなおや君と家族の話です。病気を患い一番つらいはずのなおや君の、家族に対する気遣いや励ます言葉にとても感動しました。なおや君がとても5歳とは思えませんでした。きっとなおや君はもっと生きて、やりたいこと、頑張りたいこと、たくさんあったはずです。命を代わることはできないので、なおや君のような人々のためにも精一杯生きていかなければいけないと思いました。
 この授業を通して親と「命」についての話や私の小さいころの話をすることができました。母は生まれたばかりの私を見て「かわいい」「元気に生まれて安心」と感じたそうです。しかし「小さくて壊れそう」など複雑な気持ちだったと教えてくれました。少し恥ずかしかったけれど、とてもいい機会だったと思います。親が書いてくれた手紙を読んだときは、自分のためだけでなく、親のためにも、強く、懸命に生きていこうと思いました。「命の尊さを知る」これはとても大切なことで、これからもずっと意識しなくてはいけないことだと学びました。限られた時間をもっと充実させられるように、一日一日を大切にしていこうと思います。

 

          

 

11組 「命の尊さを知る」
 私は今回の授業で改めて命とは何かを考えることができました。テレビなどを見ていると、病気と戦っている人を紹介する番組がある一方、ニュースでは自殺した人の話を見ます。命とはなんだろうかと考えさせられます。遠藤先生は病気と闘う男の子の話を紹介してくださいました。自分が死んでしまうかもしれない状況で必死に生きようとするところにとても感動しました。まだ小さいというにもかかわらず、もうだめだとあきらめることなく周りにも気を配れることにもすごいなと思いました。もし私が同じ立場だったら、病気になって不安になると思うし、家族にそばにいてほしいと思うでしょう。それでも母親に「弟のそばにいてあげて」と言えることがとても大人に見えて優しい子だなと思いました。
 今回の授業前のプリントに関して、両親に私が生まれた時の話をしてもらい、私への手紙を書いてもらいました。今まで、そういう話をちゃんと聞いたことが無かったので、とてもいい機会になりました。私が生まれる時に大変だったこと、心臓が止まりそうだったことなどいろいろありました。それでも母親が頑張ってくれたことに感謝しています。もし自分がいなかったら、どうなっていたんだろうと考える時があります。でも、その中でも楽しい事や嬉しい事もあるし、これからもそういう事が続くと思うと、小さなことでも生きていてよかったなと思います。今は妹がいて、反抗期なのでぶつかることも多いですが、家族仲良くやっています。そんなことで普通に生活できることって幸せだなと感じました。両親は私にいい成績をとりなさい、いい大学に行きなさいなどとは言いません。普通に生きてくれれば今のままでいいと言ってくれます。私一人ではできないことが多いかもしれないけれど、これから先できることは増えていくだろうし、今は迷惑もかける側ですが、もう少ししたら親孝行できるかもしれません。でもいつになっても笑顔で傍にいたいと思いました。今回の授業で自分が生まれる時の話を聞けて、改めてよかったなと思いました。普段の会話でも出てこない話なので、聞けて良かったです。自分のことを頑張って生んでくれたのだから、私もちょっとぐらいで物事を諦めたりせず、努力をできる限りしてちゃんと前を向いていこうと思いました。
 





12組 「なぜ私たちは学ぶのか」
 自分は今、何のために勉強しているのか。という疑問をもってしまったのは小学三年生の時でした。そしてその時の担任の先生はとても熱い人でした。私がその先生から教わった大事なことがあります。それは「いろんな人の分まで生き延びろ」ということです。いや、そんなのは当たり前じゃないですかと先生に対して思いました。でも、それが当り前じゃないことに気付いたのは五年生の時です。先生の教え子が亡くなったという知らせです。生きることが当り前でないことを本当に近くで感じました。学校で私が学んでいるのはただの勉強じゃない。生き抜くための勉強だ。そう思いました。そして今回の道徳の授業で「なぜ私たちは学ぶのか」という議題をうけ、そして海外での「学ぶ」ことに対しての過酷な状況を知りました。学習できていない人がいるとは知っていたけどこれほどのものなのかと。私たち日本人や他の先進国の人々は生き抜く知識を持っている。でも発展途上国の人々は生き抜く知識を持っていない。だから先生はいろんな人の分までと言ったんだ。学校を建てても、物資をあげても、それが全員に届いているわけではない。やっぱりもとを変えなければいけない。発展途上国において「男に女は大切という教育を行う」とありましたが、私はそういう所に住んでいる全員をどこかの先進国にホームステイさせてあげればいいと思いました。どこの国の人たちも嫌だといいそうですが。でもどこかで変えないといけない。やっぱりここで外務省の人に憧れてしまいます。そうしたらそこへ行くために学校での学習に戻っていきます。でも、私が学校で教わってきたことも、今教わっていることも、全部が今の自分を作り上げてくれているものだし、これからの自分を支えていってくれるものです。このことを感じて日々精進したいと思います。自分は世界でスターになりたいと思います。

 

    

 

12組 「なぜ私たちは学ぶのか」
 僕はこれまで、学ぶことの意味について、学べない立場にある人々の観点から考えたことはありませんでした。今回のお話に出てきた、計算はおろか常識さえも学べなかったために、十年以上も召使として働かされた女性のことは、非常に衝撃的でした。親からも恋人からも愛を受けられない子供のことを考えると、その仕打ちの残酷さに絶句してしまいます。幸いなことに、僕たちはそんなことは無く、ある程度の常識とアイデンティティを持っています。では、現在の僕達にとって、学ぶべきものは何なのでしょうか。六日後のテストの勉強なのか、二年後の受験の勉強なのか…と、勉強に関することがよく頭に浮かびます。先生も仰っていたように、最終的には大学に行って、会社に勤め、お金を手に入れる…という、理想に最も近づくようなことを学ぶのは必然であり、テスト勉強もそれに含まれます。しかし、これには趣味や、先に書いた愛情が含まれていません。趣味からは集中力や特技、友が得られます。また、愛情からは道徳的な精神を得られます。たとえ例の女性よりも得られていても、その供給がストップしてしまうと、心がすさんでしまうことも想像できます。つまり、人は継続的に、教科面でも道徳面でも娯楽面でも、学び続けなくてはならないということです。こう考えると、学校を終え、働き終えても、学ぶことは重要とわかります。また、学ぼうという意欲が出ないことも、僕にはありました。今回の授業でその事柄の知識がないのだということを初めて自覚しました。運動や世界史は僕の苦手な、意欲は持てない教科ですが、理解できた時はうれしく、またやろうと思えます。好きなことに関する勉強の方が当然頭に入りやすいため、これからの勉強は、何か一つでも興味の持てるものを見つけてから、それと関連させて考えていきたいと思います。目標点への到達は、幸福の実現とは全く違うことを、これらのことからは想起させます。目標の設定は前からよく言われることですが、目標のために何をすべきか考えて、学んでいきたいと思います。