平成28年度 高等部1学年 道徳感想文 第4回(9月13日実施) 

1組 「国際社会に生きる」
 今回の授業で外国人との接し方について、改めて考えることができました。僕には中学校のときにブラジル出身の友達がいました。その友達は日本に住んでいる期間が長かったため、文化の違いを感じることはあまりありませんでした。そのため、外国人と接するときも普通に日本人と同様に接して良いものだと思っていました。しかし、この授業で、色々な班の人の意見を聞き、それではいけないということが分かりました。
 その友達に外国での生活について質問したとき「外国人は陽気な人が多いので真摯に対応していれば何も怖くない」と言っていたのを思い出しました。つまり外国人と接するときは、相手の出身国やその国の文化、考えなどを「差別視」するのではなく、「尊重」することが重要なことであるということです
 僕が将来医師になった時は、外国人の患者に接することもあると思います。その時に今回の授業のこと、中学校のときの友達のことを思い出し、しっかりと対応することができるようにしたいと思います。
 また2020年には東京オリンピックが開催されます。多くの人が外国人と接する機会が増えるでしょう。そのときに、この江戸取で学んだ内容を日本人全員が共有することが大切だと思います。そうなれば、東京オリンピックは間違いなく世界中から賞賛される最高のオリンピックになると思います。
 自分の将来のため、日本のため、世界中の人々のために、今回の道徳の授業を生かしていきたいと思います。


  
 




2組 「なぜ私達は学ぶのか」
  「学ぶ」という言葉はただ単に五教科の勉強をする、という訳ではなく、いろいろな場面で行えることであると今回の道徳で再認識しました。
 私は今、高校生として学ぶことがたくさんあります。五教科の勉強はもちろん、それ以外の家庭科や体育などの教科、また社会的ルールなども学んでいます。それらはとても私たちに必要なことであり、今回も必要でない科目はあるのではないか?という話になりましたが、私は必要のない、無駄のない科目など、何ひとつないのだと考えます。なぜなら、それらには全てに明確な意味があるからです。
 しかし、必要がある、重要だと思っていながらも、嫌になってしまうこともあります。私の場合、家庭科が苦手なので、実技などでうまくいかないと、投げ出したくなる時があります。こんなもの何に役立つのか、と思うこともあります。ですが、そんな時でさえ、私たちは「学ぶ」ことができるのだ、と私は思います。その嫌な問題に対して、どうやって対処していくのかを学んでいくことができると思うのです。どうして嫌なのか、本当は嫌だと思い込んでいるだけではないのだろうか、と。そうやって自分一人で探していくと、自分の意外な一面に気が付くことができたり、好きになったりできると思います
 今、私たちは「学ぶ」ことができる環境にいます。今回の道徳でも勉強しましたが、世界には「学ぶ」ことができない子供たちもいるのです。「学」ぼうと思えばいつでも「学ぶ」ことができる。そんなすばらしい環境に私たちは生きているのです。 だからこそ、私達はこの環境に感謝して、やり残すところのないくらい「学」ばなくてはならないと、私は思っています。
 「学ぶ」ことは辛いことかもしれません。何回「学」んでも、人生うまくいかないことの方が多いと思います。しかし、そんな状況を我慢していけばきっと、未来の自分が喜ぶと思います。

 

    

 

 





10組 「国際社会に生きる」
 国際社会と聞いてもあまりイメージがつかめませんでした。確かにコンビニの店員さんに外国人がいるのはよく見かけます。しかし、お店などの他に外国の方と接することがないからです。外国の方とお話しするには最低でも英語を話せなければいけないと思います。私はどうしても英語に苦手意識を持っていて、嫌だと思ってしまいます。英語で話せるようになりたいと本当に思っています。しかし、英語で話す場所がないのも、現状としてあります。一人でコミュニケーションは取れません。少しでもと思い、教科書を読んだり、文法などの問題文を読んだりしていますが、なかなか上達しません。だから、自分から積極的に外国の方と関われる機会を作れれば良いと思います。
 また、外国人と交流する際に気を付ける点を知ることができました。話し合った班の中にオーストラリア短期留学に行っていた人が二人いたので、たくさん意見を持っていてすごいと思いました。どの班でも挙がっていたのが「文化の違いを尊重する」ことや「先入観を持たない」などで、平等に接することが大切だと知ることができました。また、私のように直接話をするのが苦手でもジェスチャーを用いたり、愛想よく接したりなど、言葉以外で伝えたいことを表現するのも大切だと思います。そして、日本人らしく振舞うということも挙げられていましたが、私はあまり「日本人らしさ」が分かりません。挨拶をすることやマナーを守れるのが日本人だと思っていました。しかし、それは日本の中だけであって、外国で通用するのかと考えたら、どうなのかと思ってしまいます。その国にはその国のマナーがあって、その国の常識があります。「郷に入っては郷に従え」ということわざのように、自分の国の常識だけでなく、自分の行っている国や話をしている人の国の常識などを意識することも必要なのかなと思います。他の国の人だからと理解するのをあきらめずに、文化や宗教の違いなどを大切にして、相手に自分のことも理解してもらえるようにしたいと思います
 4年後には東京でオリンピックが開催されます。私たちは日本の将来を担う者として、他の国の方が日本で気持ち良く過ごしてもらえるように今から考えて、取り組めるようにしたいと思います。

     

   

 

10組 「国際社会に生きる」
 私たちが生きる今の世界は変わり続けていると思います。人類の科学技術が進歩を重ね、以前よりも簡単に諸外国に行けるようになりました。また、社会の情報化が進み、傍にいない人々とスムーズにコミュニケーションが取れるようになりました。このような社会の変遷から、実際に私たち日本人が外国人たちと話す機会が増えました。そもそも普段話している言語が両国間で違うため、日本人が英語を学ぶことが当然となってきました。しかし、言語さえ同じであればコミュニケーションが上手くいくとは限りません。
 そこで、「どのような点に留意して外国人と交流していくべきか」を考える必要がありました。今回の授業ではそれをテーマにして、数人ごとに集まって話し合いを行いました。授業テーマが「国際社会に生きる」ということで、グローバル化した現代社会の現状についても話し合いました。数々の案を出し合った上で、大まかに2つの点が挙がりました。
 一つ目は「文化の違いを尊重する」ことです。宗教、生活様式、言語、考え方など、それらは各国、各民族ごとに様々であります。そのため、異文化をまたいだ交流では、これらの違いを理解した上で行うことが大切となってきます。これに留意しないと、相手と会話を交わした際に、無意識の内に相手を傷つけたり、不快にしたりしてしまうかもしれません。そのような事態は極力避けたいので、違いを尊重する必要があります。
 二つ目は「コミュニケーションの取り方」です。これは若干一つ目のものと似る点がありますが、「言わなくても分かる」日本人と「言わないと分からない」外国人間の交流ではどうしても話し方・聞き方に差が生じてしまいます。母国語が異なるため、できるだけ相手に伝わりやすいように表現する工夫があると思います。それを心掛けることで、気持ちの良いコミュニケーションが取れ、お互いの信頼を築くことができると思います
 今回の授業を通して、英語を用いた仕事に対しての考え方がまた改まり、自分を成長させる糧になったと思います。


 





11組 「なぜ私達は学ぶのか」
 今回の講話では、日本以外の話を聞くことによって、私たちが学ぶ必要性をよく考えることができました。講話の中でインドの人の話がでてきました。まず、識字率が日本に比べてはるかに低いことに驚きました。勉強などができるのは一部の人だけだということを知り、日本に生まれてよかったと思いました。勉強ができない環境にいると、しっかりとした学力を身につけることができず、安定した職業に就くことができません。私は、日本という国に生まれ、勉強する環境がしっかりと整っているので、それを無駄にせず、勉強を頑張りたいと思います。しっかりとした学力を身につければ、将来の選択肢や様々なチャンスが広がります。また、自分に自信をつけることもできます。そうして将来は、安定し、満足できる職業に就きたいと思います。
 話し合いでは、5教科以外は必要かということを話し合いました。それらは将来の職業のことを考えるとあまり必要が無いようにも思えますが、よく考えてみると、それぞれの教科には普段生活するうえで必要な基本知識や、それによって、コミュニケーションがとれるというようなものがあります。このような教科があることによって、人としてある程度必要な知識が身につき、まともな人間になるのだと思います。5教科以外だからと言って気を抜かず、どの教科にも学ぶ意味があるのだという意識を持って頑張りたいと思います。
 勉強をして損をするという事はないので、今のうちにたくさん勉強をして、しっかりとした学力を身に付けたいと思います。そして、社会人となった時に、世の中を生き抜く力をしっかりと身につけた状態で、仕事など様々なことを頑張りたいと思います

 

      

 

11組 「なぜ私達は学ぶのか」
 なぜ学ぶのかと考えたことは今までになく、ただ何気なく勉強していたので、今回の講話はとても考えさせられました。勉強することは普通で、皆も同じようにしてきたのではないかと思っていましたが、日本でも識字率が99.8%であるということに驚きました。教育を受けられない子供たちが増加していくと、その子供たちが大人になった時、社会に悪い影響を与えかねないと思います。道徳を学ぶことで他者への思いやりの心が生まれ、より平和で住みよい社会が形成されていくと思います。また、専門知識を学ぶことで生活を便利にしたり、豊かにしたり、人の命を救ったりと色々なメリットがあると思います。もし、人々が学ぶことをやめてしまったら人類の進歩が途絶えてしまいます。しかし勉強ができない子供が世界にはたくさんいます、その原因は周りの環境によるものだと思います。勉強したいと意欲はあっても、教育をうけさせてもらえない子供がたくさんいると思うと、学校に通える一日一日を大切にしていかなければならないと感じました
 地域によっては男女差別も行われていて、人間らしい生活を送れていなかったり、お金が無くて子どもさえも一日中働かされたりと理不尽な目に合っている人はたくさんいると思います。このような問題を解決するためには教育を受けてきた人々の援助が必要だと思います。教育を受けていないから何が正しくて何が間違っているのかわからないまま生活してしまう。それはとても危険なことであり、周りにも危害を及ぼしかねないと思います。だから教育を受けた人はそれを次の人につなげていく必要があると思うし、それは教育を受けた人の義務でもあると思います。自分が普段何気なく生活している社会は多くの人々が学んできたことによってできているのだと気付かされました。なぜ学ぶのかという問いに対して様々な理由があると思いますが、その本質は人間らしい生活をするためだと思います。そして、その上に将来の夢や世の中の役に立つなど個人の理由があるのだと思います。普段、特に意味も考えずにしていた勉強や学習が気付かぬ間に生活の中で生かされていると知り、学ぶことの大切さを改めて感じました。そして学ぶことの意味を一つ一つ考える必要を感じました。難しいことだとは思いますが、全ての学習を大切にしながら学校生活を送りたいと思いました。
 





12組 「福祉社会」
 今回は「福祉社会」についての講話をお聞きしました。これは全ての人が快適に生きることのできる社会です。日本国憲法第二十五条でも同じ内容が定められています、「私たちは憲法に反している」というのは全く考えたことがなかったので驚きました。改めて私たちの立場について考えさせられました。「福祉社会」とは「障がいの有無や年齢を特別視しない」ものだと何度もおっしゃっていましたが、どの程度までその人たちへの配慮ができた上での考え方なのかが気になりました。そのように、生活するときに不便がある人が完全に健常者と同じ能力を持つようになった社会でなのか、今の時代から考え方を変えていく必要があるということなのかその状況によって考え方が変わることによって現れる影響も変わっていくと思います。また、そのような人のために「できることをやる」という意識が大切だという考えにはとても共感しました
 改めて考えてみると私自身小さなボランティアをやっていたことに気付きました。教室でゴミを拾う、というのもボランティアであれば私たちの周りにはボランティアのきっかけがたくさんあると言えます。これらの行動が「人」のためであるのは同時に障がいを持つ人を普通の人ととらえ、全ての人に等しく思いやるということなのではないかと私はとらえました。特別視して思いやるのではなく「人」を思いやる、ということです。特別視は悪いことではないと思いますが、特別視することによっておこる弊害には注意しなければなりません。先生がマークの説明でおっしゃっていたように妊娠している方々に逆効果になってしまったり、差別、必要以上に対応が良いとねたむ人も出てきたりします。他に他人からの視線によるストレス、入場制限などもあると思います。適度な意識をもって対応できるようになることが必要です。そのためにマークを知ることはとても効果的だと感じました。今回、今まで知らずにいたマークについて知れてよかったです。車イスが全ての障がい者を示すということに驚きました。他人のために尽くすことに喜びを感じ、無償の思いやりをもつ、というのを目標として提示していましたが、これはとても難しいと思います。誰でも誰かの感謝の言葉などがあるから仕事でも勉強でも努力ができます。だからこそ、私たちが毎日感謝の言葉を忘れずにいうことが重要になります。「情けは人のためならず」を心にとめて全ての人が思いあえる社会になれば良いと思いました

 

  

 

12組 「福祉社会」
 自分にとって福祉の考えは、人を助けたり、老人に対しての気遣いなどだと思っていました。でも、ただそれだけではなかったことに気付きました。自分たちは今当たり前に生活を送っていますが、実際には同じように生活できない人もいるのです。中学校に上がる前、障がいを持っていた人がクラスの人の物を度々盗んでいたことがありました。自分はなかったのですが周りの人は色々な物を盗まれていて、その人はもはやクラス全員の敵でした。もちろん自分もその人を嫌がり、学校の帰り道が同じだったことを嫌に思っていました。中学に上がり、クラスが一緒にならないことが良かったとも思っていました。今考えてみるとそういう障がい者に対しての考えが本当にそれであっていたのかというと、違ったのかなと思います。自分はボランティアの面で福祉をやったことがあります。それは、門のゴミ拾いです。でも、ボランティアはいつでもできることに気付きました。教室、廊下、いろんなところの掃除だけでボランティアになっているのです。そういうことは、いつでもできるものなので、これからはしっかり考えてやっていきたいです。ほかにも、電車やバスなどの公共交通機関などにも、障がい者のために優先席や、マークなどを自分はよく見かけますが、その席に座っている学生などもいます。もちろん自分も座りますが、目の前に優先席に座るべき人がいたら譲っています。良く考えると、そういうのは差別なのではないかとも思い、しかし、なくてはいけないのかもと思い矛盾しています。
 授業のはじめに、福祉社会という言葉がでてきたときに一番はじめに福祉センターの人を想像し、老人を助ける社会なのかと予想していましたが、授業を通して、国民全員が生きる社会であり、差別はあってはならないはずだけど、なくてはいけないときもあり、そういうことは本当に大切だと思っています。もしかしたら、将来自分もそのような人になってしまうかもしれませんが、もしそうなってしまったら、悲しくなったりしないような環境が欲しいと思います。ほかに、バリアフリーなどを障がい者ではない人が使っているのを見ると、少しイライラします。だから、障がい者の人の気持ちをしっかり考えて公共の場や、普段の生活を行っていきたいです。福祉についてしっかり学べてよかったです。