平成28年度 高等部1学年 道徳感想文 第3回(7月12日実施) 

1組 「命の尊さを知る」
 僕はこの授業で「生」に対する意識が変わりました。このようなテーマは小中学校のときもやってきて、「日々頑張って過ごせば良い」というくらいしかこれまでは考えていませんでした。しかし先生のお話を聴いて、「生」を軽視することがどれだけ愚かであることかがよく分かりました。
 お話を聴く中で、僕は祖母の死を思い出しました。祖母は僕が小学校3年のときに心不全で亡くなりました。そのときに家族の生活は変わりました。幼かった弟の世話をする人がいなくなり、みんなが忙しくなったり、外出時にきちんと鍵をかけなければいけなくなったりしました。このように、たった1人の死でも生活が変わり、多くの影響を与えます。つまり「生」はとても重いということを思い知らされました。
 最近紫峰舘の医科教養で「犠牲―わが息子脳死の11日」という本を読むように言われました。これは精神を病んでしまい、自殺を図って脳死状態に陥ってしまった人と、その家族の物語です。僕はどんな状態になったとしても、苦しみから決して逃げることをしてはいけないと思います。それを死という形で終わらせてはいけないと思います。自分一人は楽になれるのかもしれませんが、周りの悲しみは果てしないものだと思います。命を軽視してはいけないと思います。
 1つの命で世界は良い方向にも悪い方向にも進んでいきます。たった一つしかない命、この命を将来医師として、何万人もの命を救えるようになりたいと思います

   

 




2組 「福祉社会」
 私は「福祉」と聞くとすぐに、障がいを持った方のための何かだろう、と思い、自分には関係のないことだと決めつけていました。しかし、「福祉」とはだれでも人間らしい快適な生活ができることである、と今日の授業で聞き、自分にも深くかかわっていくことなのだなと思いました。
 私の近くにはこれといった障がいを持った方は存在していません。ですから、「障がい」というものがどういうものなのか、いまいち理解ができていません。少し前の自分は、障がいを持った方を見ると少し怖いな、と思っていました。やはり、理解が足りなかったのだと思います。
 「理解」しないと、どうすればよいかわからなくなる。このことは、誰もが同じことであると思います。理解をしないと、何も始まらないのです。それは例えば英語という教科であったら、英作文は一文字も書けないであろうし、数学においても問題に答えることができず、勘で数字を並べることしかできなくなってしまうと思います。
 では、理解をするためには何をすればよいのだろうか。
 まずは、「知る」ことだと思います。
障がいを持った方の障がいについてであったり、障がいについてのことを調べて、自分の知識にする。これだけで、自分自身の物の見方が変わっていくだろうと思います。
 次に、実際に見てみる、ということです。実際に会ってみて、話を聞いてみる、関わってみる、このことをするだけで、人を見る目が変わっていくと思います。ですが実際に会うというのは結構難しいことであって、なかなか機会がないだろうと思います。しかし、私達は「ボランティア」に参加することができます。「ボランティア」に参加することによって自分の考え方や意識を変えることができます。
 今、私達は障がいを持った方々にかかわる機会がなかなか取れない状況下にいると思います。確かに、ボランティアよりも仕事や勉強の方が大事かもしれません。しかし、私たちが自由に活動できているのも、今ある(少しだけかもしれませんが)福祉社会のおかげなのではないでしょうか。ですから、この福祉社会を守り、さらにより良くしていく、それが私達若い人達の成すべきことなのだろうと思います。大事なのは、視野を広げることなのでしょう。

 

  

 

 





10組 「命の尊さを知る」
 当たり前のように学校へ行って、おいしいご飯を食べて、家族が待つ家へ帰る。 そのことがどれほど幸せなことか、考えてもみませんでした。 でも今回の遠藤先生のお話を聞いて、命について深く考え直すよい機会になったと思いました。 私達はたった5年前に起こった東日本大震災を忘れてはなりません。 幸い、取手や龍ケ崎など茨城県の南部の内陸部には大きな被害がなかったため、東日本大震災の記憶は私達の中で薄れつつあると思います。 けれど、ここからそう遠くない気仙沼市や大洗市ではたくさんの命が失われました。 その中には、私達と同世代、もしくはそれより小さい子供達もいます。 私達はその子供達の思いを背負って生きなければなりません。 気仙沼市立階上中学校の梶原裕太君が震災から10日遅れで行われた卒業式の答辞でこのようなことを述べています。 「『あたりまえ』に思える日々や、友達がいかに貴重なものかを考え、いとおしんで過ごしてください。」 今まで普通に過ごしていた日常がある日突然奪われたらどのような思いなのでしょうか。 だからこそ、私達にできることは何なのでしょうか。 私達が何となく消費している一日は、その人達にとって生きたかった一日です。 命は代われない。その分、私達は残されたものとして強く生きていくことが必要だと思います。 そしてどんなに小さなことにでも感謝の気持ちを持って生きていくことが必要だと思います。 お母さん、私を産んでくれてありがとう。いつもおいしいご飯をありがとう。お父さん、私達のために働いてくれてありがとう。私達にいつも優しくしてくれてありがとう。 お姉ちゃん、いつもわがままを言ってごめんね。私に何だかんだいつも最後まで付き合ってくれてありがとう。 そして、こうやって素直に感謝の言葉を伝えることができる毎日にありがとう。 考えるときりがないくらいに感謝の気持ちを伝えなければならない人がたくさん浮かんできます。 私よりお金持ちだったり、美人だったり、頭が良かったりする人は何人もいます。 でも、私は私に生まれてきて本当に良かったと心から思います。 何も特別なものは持ち合わせていないけれど、家族や友達からの深い愛情を感じられるこの平凡な日々が、私はとても幸せだと思うのです。 けれど、命は有限で必ず終わりがあります。それがいつかは分かりません。 だからこそ、この当たり前にある幸せをかみしめて、毎日を一生懸命、力の限り生きていきたいです。 この先どんなにつらいことがあっても、自殺だけは絶対にしません。 親やその親・・・と受け継がれてきた命のバトンを、自分の番として胸を張って生きていきます。

     

  

 

10組 「命の尊さを知る」
 僕は、今回の道徳の授業を通して、命の尊さについてより深く学ぶことができました。
 一つ目は、命の誕生に対する両親の想いです。僕は自分の生まれて間もない赤ちゃんのときの写真を見ても、当時の自分がどのような様子なのかを思い出すことはできませんでした。 しかし、母の話から、誕生時の気持ちや幼い頃の僕について聞き、自分が大事に育てられたことを改めて感じることができました。
 二つ目は、東日本大震災で被災した人の辛さです。 被災した一人の少年の答辞の一部始終を聴いて、自分と同じくらいの年の少年(当時の年齢)が友達、家族を失ったにも関わらず、天を恨まず、強く生きようとする姿に感動させられました。 彼の気持ちを百パーセント理解することはできませんが、震災の恐ろしさや悲しみを感じ、僕も毎日を強く生きなければならないと思いました。
 三つ目は、余命を宣告されながらも強く生きようとする子供達の姿です。僕は将来、医師を目指していますが、今回の授業のような深刻な話に触れることはありませんでした。 もし今、僕に余命宣告が下されたら何も考えられなくなると思います。 しかし、そのような中でも必死に生き、両親や弟のことを考えられる少年の姿はとても力強かったです。
 今日、僕は生きています。そして、今まで数え切れない人達に支えられて今日があります。 神が、祖先が与え、多くの人に支えられている僕には生きる責任があります。 この貴重な命を大事に、そして価値のあるものにするために、一生懸命生きなければなりません。 体に不自由のある人達の分も、自分にできることを精一杯行い、「長さより重さ」のある命にしたいと思います。 そしていつか、病気を抱える人達をできるだけ多く救いたいと思います。


 





11組 「福祉社会」
  私は身近にあまり年配の方や障がいを持つ方がいないので、あまり「福祉」について考えることはありませんでした。しかし、今回の授業を受けて「福祉」というのは年配の方、障がいを持つ方ばかりに関係するものではないということがよく分かりました。私は、授業中に行った話し合いの中で「福祉社会を実現するためにどういうことを意識すべきか」ということを考えたのですが、私の考えはまず一番に「差別意識」を持たないことが大切だと考えました。なぜなら、私も同じような経験をしたことがあるからです。私は膝が弱くて、松葉杖を突くこともあったのですが、その時に「かわいそう」や過剰に気を使ってもらって嬉しかったことはありません。むしろ「普通に接してよ」と思うことの方が度々ありました。もちろん体に不自由している分、どうしても助けてもらわないといけないこともありますが、それ以外は普通にしてほしいと思うのが本音です。松葉杖でこの気持ちになるのだから、目が、耳が不自由な人たちはもっとそういう思いをしていると思います。ですから、私たちはそのような人たちに、なるべく差別的な目を持たないことが大切だと思います。また、そのような方々に対して、私たちができることは沢山あります。例えば、いつでもできるのが困っている人を助けること。これは年配の方々や障がいを持った方々のみを対象とするのではなく、全ての人が対象です。福祉社会の定義として、「全ての人が人間らしい生活を」とありますが、これを達成するためにはお互い助け合うことが一番良い方法だと思います。お互いに思いやりの心を持って接することで、必然的に福祉社会になっていくのだと、今回の授業を受けて考えました
 「何かできることはないか」そう考えた時に、やるべきこと、できることが沢山ありました。一人一人がもっと福祉社会を理解し、実行に移していけば、どんな人もより暮らしやすい環境ができると思います。内面のこともそうですが、自分がそのようにどこかが不自由だったりという立場になった時のことを考えて行動することができたら、不快に思う人も減っていくと思います。日本は世界と比べて福祉について劣っていると言わざるを得ないですが、私もこれから日本を担っていく若者の1人としてこのことをきちんと受け止め、自分にできることをしっかりとやっていきたいと思います。相手の気持ちや状況を考え、しっかりと行動したいです。

 

     

 

11組 「福祉社会」
 今回の道徳で自分の何気ない行動や、「福祉社会」について深く考えることができました。まず「福祉社会」とはどのようなことかについてです。当たり前のことですが私は障がいがある人も無い人も同じ人間であり、ともに生活できることが福祉社会の一番理想的な形だと思っています。しかし、今までは自分にできること、福祉社会につながることが見つけられていませんでした。今回の道徳を通して、ボランティア活動に参加したり、ノーマライゼーションの考え方を意識して生活するなど自分にできることを学ぶことができたので、これを忘れずに理想的な福祉社会の実現につながればよいと思います。
 次に障がいのある人もない人も、一人一人が快適な生活を送ることについてです。私たちには階段の上り下りは難しいことではありませんが、足の悪い人や年配の方々には困難であるはずです。このような事柄が今の社会ではたくさんあり、改善していかなければならないと思います。障がいがあるために自分の夢や目標を諦めなければならなかったり、日々の生活を楽しめないのは、まだまだ理想的な福祉社会を実現できていない証だと思います。そのため、今回配られたプリントの様々なマークのように、不自由のある人も、人間らしく快適な生活を送るための工夫をしっかり考えることが大切だと感じました。私自身、プリントの様々なマークの意味はあまり理解できていなかったし、気に掛けることも多くありませんでした。しかし同じ班の人とたくさんのことを考え、話し合った結果、今まで以上に標識やマークをしっかり見るとともに、障がいのある人のことも考え、尊重して生きていくのも福祉社会につながることだと感じました。
 最後に、理想的な福祉社会を実現するためには、自分から意識の改革を行い、一人一人が自分にできることをよく考えていくことがこれから絶対に必要になると思います。そして、これらを続けて努力すれば、障がいの有無に関わらず誰もが快適な生活を送れると思います
 





12組 「自由と責任」
 今回、中山先生の「自由と責任」という道徳の授業を受けて感じたことは「自由」や「責任」というものはあやふやなもので定義として存在している訳ではなく、良心に従うものや、自律心に任せるものだからこそ、人それぞれ自由や責任についての捉え方や考え方があると思いました。そして、自由や責任は、捉え方の範囲が様々で人によって自由や責任の大きさが違うと感じました。
 ディスカッションやアンケートの結果や発表の時に、クラスのみんなの様々な意見を言いて、一つのことについて話し合っているのに色々な意見が出ていておもしろいと感じました。例えば、責任についてのディスカッションについて、私は自分自身に対する責任は、自分の力をコントロールすることだと思っていましたが、健康に過ごすことや体調について他の班から意見が出て、根本は相手に迷惑をかけないという同じことなのに、異なる視点からの意見を聞けておもしろいと思いました。また、ディスカッションを通して、三つの責任すべてに通じることは、思いやりの心を持つことではないかと思いました。なぜなら、健康でいることも他者の幸せを願うことも社会に貢献することも他人に強制されてするものではなく、自分自身で決めることだからです。また、自由と責任は似ているものだと私は感じました。自由であるためには責任が必要で、責任感がある人は自分で意思決定する機会が増えるので、より自由になると私は考えました。日本では憲法で言論の自由や思想の自由が保証されています。これは誰でも自由になれる権利があるということではないかと思います。自分が自由である、自由でないということは他人ではなく自分自身が決めます。どんなに他人から見て、自由そうに見えても本人が自由でないと感じたら不自由で、不自由に見えても本人が自由だと感じていたらそれは自由です。私は、他人から見ても自分でも責任感のある自由を手に入れたいです。そのために思いやりの心を忘れずに生活していきたいと思います

 

  

 

12組 「自由と責任」
 今回の道徳の授業では、これまで普段の生活であまり意識してこなかった「自由」というものを深く考えることができました。今回の道徳の授業を受けるまでは、僕の「自由」というものに対しての考え方は、「何かに束縛されないこと」、「好きなことができる」、「強制されない」という様なものでした。しかし、この道徳の授業を受け、「自由」というのは、人それぞれ違ったものであり、正解など無いということを感じました。例をあげると、世界には、食事などもまともにとれない子供達もいます。僕達は、そのようなことはあたりまえと思って生活しているかもしれませんが彼らにとってはそれが「自由」に値するかもしれません。このように「自由」とはその人がどういう環境におかれているのか、どういう考えをしているのかなどで人それぞれ違うものになってくると思います。また、「自由」という言葉を聞くと、好き勝手、自分の思い通りにやっていいと勘違いする人もいると思います。僕は「自由」とは、無制限に好きなことをやるというわけではなく、自分の良心に従うことが大事だと思います。自由だから何でもやっていいわけではなく、良心に従い、物事の善悪をつけて行動していかなくてはならないと思います
 また今回の道徳に授業をうけて「自由」には「責任」が関わっていることを学びました。僕は普段、「自由」と「責任」の関係性はあまり考えたことがありませんでした。しかし、この道徳で「自由」を求めるなら「責任」が伴ってくるという新しいものを学べました。今回の道徳では「自由と責任」についてでしたが、僕の「自由」というものへの考え方は、ありすぎてもよくないが、程良い自由は必要だということです。「自由」や「責任」について新しい考え方や意見を聞けた、今回の道徳の機会を今後も大事にし、活かしていきたいです。