1組 「命の尊さについて知る」
 今回の道徳のテーマは「命の尊さについて知る」でした。私が考える命とは、生命、人の気持ち、自分の生きている時間などです。 そんな命を大切にするということはつまり相手を受け入れること、むやみに生き物を殺さないこと、相手を尊重することだと思います。 道徳の授業の事前に配布されていたプリントは両親と私が幼かった頃の写真を見ながら書くことができました。 普段はなかなか聴くことのない、生まれたころのことや成長過程におけることなどをゆっくりとお聴きすることが出来て、とても良い機会になったと思います。また、話をお聴きして、自分が両親から大切に育ててもらっていることを実感しました。  先生のお話にあった東日本大震災のとき、私は小学校5年生でした。震災の話を聞いていて、私が以前に読んだ「想像ラジオ」という本を思い出しました。 みんなが想像することによって聞くことができる「想像ラジオ」のパーソナリティーを務めながら、妻からの投稿を待ち続ける一人のDJの話です。 津波を受け、家族の安否を知ることが出来ない彼は、たくさんの投稿者たちや、リスナーたちとのやり取りを通じて、少しずつ真実を受け入れてきます。 生きることに希望を持ち、語り続ける彼に少しずつ引き込まれていきました。そんな彼もそうですが、震災で大きな被害を受けた人々は、たった一瞬で大切なものをたくさん奪われ、とてもつらい思いをしたと思います。 そして、それまで当然だった日常が、二度と戻ってこない人々がいます。 生きたくても生きられなかった人、やりたいことを叶えることが出来なかった人、いろいろな状況に置かれた人々がいます。そんな中で、家族がみんな揃っていて、学校に通うことが出来る私はとても幸せだと思います。 これからの私の人生、いつ、どんなことが待ち受けているかはわかりません。あまり考えたくありませんが、明日、急にどのようなことが起こっても悔いが残らないように、一日一日を精一杯生きたいと思います。 そして、自分を産んで、育ててくれた両親に感謝の気持ちを忘れずに、生活していきたいと思います。また、自分の命を大切にしていきたいと思います。





2組 「自由と責任」
 自由について,今まで私は深く考えたことがありませんでした。単純に自由とは「人が何かに束縛されることなく行動することができること」と思っていました。 しかし,今回の道徳の授業を通して,それだけが自由ではないということを理解しました。副校長先生は,自由とは無制限に好きなことができることではないと話してくださいましたが,私も同じ思いでした。 ある少人数の人たちが束縛されることなく思うがままに振る舞い,その結果周りの人たちに迷惑をかけていたならば,それは自由とはいえないと思います。集団生活の中では特にそうだと思いました。 一方で,無制限に自分の好きなことをしない人,また,我慢できる人は周囲のことを考えているからだと思います。私は,そのような人たちは周りの人たちの自由を認めていることと同じなのではないかと思いました。 自由とは外見で簡単に判断することができないものということでしたが,確かにその人の気持ちや状況を理解しないで,一方的に決めてしまうという姿勢は,その人の自由を奪ってしまうことになりかねないといことも分かりました。 さらに,自由は誰かに与えてもらおう,誰かに自由にしてほしいと他者に頼るのではなく,自らの良心に従って行動することであると話されていました。 私も誰かに頼っての自由だと,その人がいなくなってしまったら自由そのものがなくなってしまいます。自分で考えて行動することが最も大切なことだと思いました。
 責任は今までの学校生活の中で,与えられた役割を果たすことを通して、少しずつ身に付いているのではないかと思います。そして,授業内で,自分自身・他者・社会に対する責任についてそれぞれ話し合いました。自分自身に対する責任は,自分の様々な側面を成長させる責任で,他者に対する責任は,自分の過ちを自分で償う責任,社会に対する責任は,社会に貢献し子孫を残す責任だと自分の班ではまとまりました。 責任は今だけでなく将来にわたって必要なものであり,それがないと集団生活ができなくなってしまうと思います。とりわけ学校生活では重要ですから,今後の生活に役立てていきたいと考えました。

 

 





9組 「命の尊さについて知る」
 今回の道徳では命の尊さや大切さについて深く考えさせられました。私は普通に生きて、普通に生活していけることが当たり前だと思い、幸せだとは感じていませんでした。私は、今回のお話を聴き、「当たり前」は「有難う」の反対の言葉だということを思い出しました。「有難う」ということは有ることが難しいという意味で、すなわち奇跡ということです。私たちは生きていること、歩けること、友達と会えること、毎日の行動が当たり前になってしまい、感謝することを忘れてしまっているのではないかと思います。命とは、と聞かれたときに私は長い時間考えてしまいました。しかし、命とは自分自身に与えられた時間であると言われたときに、なるほどと思いました。そんな時間を与えてくれたのは紛れもなく自分の両親だということを忘れてはいけません。そして私たちの誕生日には自分がおめでとうと言われるだけでなく、両親に私を生んでくれてありがとうという日であることも知りました。
 そんな当たり前の生活の中で起こったのが、東日本大震災です。私たちの地方は東北に比べ、大きな被害はなかったのですが、とても苦労しました。東北地方の海岸では大きな津波が押し寄せ、家を奪い、友達も家族も、私たちに必要なものすべてを奪っていきました。そのような中で気仙沼市立階上中学校の卒業式の答辞で、梶原裕太君は「命の重さを知るには重すぎる代償でした。苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え助け合って生きていくのが私たちのこれからの使命です」と泣きながら言っているのを見て、私は強く心を打たれました。
 東北地方の人たちは震災を忘れることはできないと思います。彼らは目の前で友達や家族が泣き叫び、助けを求めながら津波に流されていく様子を見ているしかできなかったのです。
 幼いながらこの体験をした人たちも多いと思います。私自身も今回の話でたくさんのことを学び、涙することも多かったので、忘れることはないと思います。

 

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9組 「命の尊さについて知る」
 今回の道徳では、自分の出生時のことや、名前の由来などを家族と話し合うことができてよかったと思いました。僕が印象に残っていることは大きく二つあります。
 1つは、誕生日は自分が祝われる日だけではないということです。自分は両親なしには生まれてくることはできず、このように生を受けたのは両親のおかげなのです。だから、両親に感謝する日でもあるというお話を聴いたとき、「なるほど!」と思い、深く印象に残りました。明日は僕の誕生日です。直接「ありがとう」と言うのは恥ずかしいので、心の中で両親に感謝したいと思います。
 2つ目は生きたくても生きられない人がいるという話です。これは僕よりもずっと小さい年齢で癌になり、9年間で生涯を閉じた少年の話です。僕がこの話を聴いて感動したところは、少年が大変重い病気のときに、家族や医師、看護師への気遣いや思いやりを持っていたということです。病院へ来る母に、「弟が寂しい思いをしているから明日は病院に来なくてもいいよ」と言ったそうです。 普通ならば自分が寂しくて一緒にいてほしいと言うはずなのに、そのように言った彼の思いやりの心に胸を打たれました。生きる事が困難な人がいる一方で、僕たちは毎日無事に生きることができて、幸せだと思いました。一方で、最近は生きていることが当たり前で、軽率に人を傷つけるような言葉を使っている人が多いと思います。また、凶悪な事件や、自殺が絶えません。4年前の震災で生きることの有難さを痛感したはずなのに、このようなことが減ることなく非常に残念に思います。生きたくても生きられない人に申し訳ないと思います。生きることができるのだから、自分の命を大切にして、さらに他の人の命も大切にする必要があります。

 

 





10組 「社会の一員として」
 クラスに係や委員会があるように、社会は一人一人が何らかの役割を持った上で成り立っているのだと思いました。当たり前の事ではありますが、その一人一人が役割を持ち、実行することに意味があると改めて感じました。
 私は家での役割が特に決まっているわけではありませんが、家族の中で最後にお風呂に入ったときにお風呂掃除、2週間に1回は必ず自分の部屋に掃除機をかける、自分の洗濯物は自分で片付ける、夜ご飯の準備の手伝いをする、など自分の事は自分でやる他、気づいたら積極的に母や父の手伝いをしています。また、父と母の帰りが遅いときは弟の面倒もできるだけ見るようにしています。しかし今は、中学の時と比べて家の手伝いがあまりできていません。入学してからもう2ヶ月以上経つので、自分のことだけでなく周りの様子にも目を配り、もっと親の負担が軽くなるように努力したいです。家の中だけでなく、クラスの中や友人関係においても気配りを心掛けたいです。
 社会というのは誰かが非協力的だったりすると成り立たないと思います。同じ場所で同じ生活をしている仲間同士だからこそ、お互いに思いやりの心を持ち、気遣いを大切にしていかなければならないと思います。 私は校外委員です。体育祭が終わった後、自分のクラスの周りだけでなく他の団や応援席でない場所もゴミが落ちていないか、ということの確認をして使う前よりきれいな状態を目指して点検しました。 まだその1回しか仕事をしていませんが、自分の仕事に責任を持って取り組んだつもりです。今後、紫峰祭などでも委員としての仕事があると思います。私は第一志望でこの学校に入学しました。 同じように文化祭などを見て江戸取に憧れを抱き、入学したいと思ってくれる後輩が一人でも増えるように頑張りたいです。 行事だけでなく、最終的には自分の夢に近づく大学に合格できるよう、日々の生活態度や勉強をしっかり行って、本当の意味の社会に出ても尊敬される人になれるように頑張りたいです。

 

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10組 「社会の一員として」
 普段考えない大切な事を考える貴重な機会となりました。まず、社会の定義として複数の人間が、ある決まり事を守り、生活している集団とありました。「家族」や「クラス」なども一つの社会としてとらえることが出来るとわかりました。自分の中にある社会のイメージとは必ず上下関係のある職場のようなものでした。確かにクラスも一つの立派な社会だと思いました。私が中学二年生の時、クラスの人達がお互いの陰口を言ったり、他人の悪口を言ったりしている環境が常でした。私はその環境が大嫌いでした。なぜ過剰にそんなことをするのか全く分かりませんでした。江戸取はそういった環境ではありませんが、もしそのような雰囲気になりそうになったらそれを絶対止めようという気持ちが芽生えました。
 「社会の一員とは」という授業展開の中で、自分の家族の一員としての役割を書く時に、自分の役割が全然思い浮かばず、とても親に申し訳ないという気持ちになりました。そして、前々から思っている、人間的に素晴らしい人間になって、今までの恩返しをしようという思いがさらに強まりました。そして、江戸取生の一員として、私はその時々のやるべきことに全力を注ぐことを意識して過ごしていこうと思います。それは私の親が「何かの一流になる人は必ずそうだ」と言っていたからです。私は将来、明確に何をして生きていくのかが決まれば、必ずその道の頂点を目指します。そして、絶対に自分の夢を忘れないようにします。そのためにも、まずは江戸取で『心力』を磨くのは素晴らしい機会だと思っています。こんなことが書ける学校に感謝しています。本当に自分のためになるお話でした。ありがとうございました。

 

 





11組 「自由と責任」
 今回の道徳授業では「自由と責任」について考えました。
 まず自由とは何か。私は「何にも縛られないもの」と考えました。他の人は「自分の好きなことができる」「自分の意志を持って行動する」などの意見を出していました。何人かの人は「周りに迷惑をかけない程度に」や「常識の範囲内で」という言葉を加えていました。自由とはある程度制限されていて、やりたいことを全てできるわけではない、ということがわかりました。また先生がおっしゃっていたように相手の自由も思いやり、尊重することが、自分が自由であるために大切なことだとわかりました。
 事前学習のプリントには「自分が自由だと思っているか」という質問があり、私は迷わず「自由である」を選びました。普段、母と話していて、そのような内容のことをよく言われるからです。また、休日にどこかへ出かけたときも、いろいろなものを自分が欲しいと思えば買うことができるなど、大抵のことは自分の思い通りになるからです。以前は、毎日宿題が出され、決まり事を必ず守らなくてはならないということも、縛られているようで嫌でしたが、受験という大きなものを超えたとき、自分で学校を選んだことで考えが少し変わりました。当たり前の決まりを守ることが自分の自由へとつながる、という考えです。
 「責任」というものについて、授業であった自分に対する責任では「生きる責任」、「成長しようとする責任」などの意見が出ました。私たちには家族がいて、お互いにいつまでも元気に「生きていて欲しい」と思っています。そのために自分は「生きていかなければならない」と思います。そして、このような責任を果たすことで自由を得ることができると思います。
 最後に先生は「自由は自分の内に求めるもの」で「自分の良心に従って行動することを自由というのではないか」とまとめられました。私はこの意見に「自分の責任を果たすこと」という意見も含めて、本当の自由について、これから考えて行こうと思います。

 

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11組 「自由と責任」
 今回のテーマは「自由と責任」でした。まず先生の講話をお聴きしてから班の人と話し合いをしました。僕は事前学習のときから、自由である事は大切であり、僕自身は自由だと感じていました。なぜなら僕はいろいろなことを自分の意志でできていると思ったからです。そして先生のおっしゃっていた「紛争地域の生き延びようとしている人たちを差し置いて、私は自由がないなどと言えない」という言葉にものすごく感銘を受けました。その言葉で僕は自由とは何かというものを考えることができました。他人の自由について、先生は「自由は外からは判断しにくい」とおっしゃっていました。僕は友達を見て、時々「自由でいいな」と思っていたことがありました。しかし、今日、この考え方は正しくなく、本当は自由ではないのかもしれないと気づきました。
 次に班になって責任について話し合いました。今回はいろいろな類の責任について話し合ったので、活発ながらも落ち着いた議論ができました。その中でも印象に残っていたのは任されたことをしっかりとやるということです。それまで僕は、責任という言葉は知っていても、はたしてそれが何なのか、というはわかりませんでしたが、今回の話し合いやクラスの発表を聞いて、責任という言葉の意味がだんだんわかってきました。僕もこれからは本当の意味で責任をしっかり理解して、果たすことができるように頑張ろうと思いました。
 最後に自由というのは良心に従って行動することであると教えていただきました。僕は良心というものは自ら身につけるものだと思います。
僕がこの江戸川学園取手の道徳授業は良心を身につけ、将来、正しい自由を得るためにあるのだ、という解釈ができると思いました。今回の道徳授業を活かして、今自分は何をすべきかを正しく考えて行動していきます。