1組 「自由と責任」

 私は、今回の道徳の授業「自由と責任」をお聞きして、責任というものは、自由と密接な関係にあるということを改めて思いました。 また、責任は「信用」というものとも大きな関係があるのではないかと考えました。 なぜかというと、責任を持って行動する人や、責任感が強い人というのは、周りから信用され、頼りにされているからです。 反対に自分の言葉や行動に無責任な人というのは、他者から冷たい目で見られ、信用されにくいと思います。 信用は生きていくうえで必要不可欠のものだと思うので、自分自身もっと言動に責任を持っていくようにします。 特に医師という職業は、人の命を預かるので、他の仕事とはまた違った大きな責任が必要になります。 そのような責任を身に付けるために、今から、自分自身、他者、社会に対する責任を深く考え、実践していこうと思います。 信頼される医師を目指してこれからも努力を惜しまず頑張ります。 「自由」について、今まで深く考えたことはありませんでした。 しかし、今回の授業で「自ずと制約があり、相手を思いやり、尊重する」ということに感銘しました。 中学校の校長先生が「規則があるからこそ自由がある」とおっしゃっていました。 これらのことから、規則を守ることで自由が手に入るのではないかと考えました。 これからは、「規則に縛られるのは嫌だ」と考えずに「自由があるのは規則のおかげなのだ」と前向きに生活していこうと思います。 また、「自由」というのは、心の持ちようが関係しており、外見での判断が難しいと言うことが分かったので、相手のことをも見た目で決めつけるのではなく、まずは話してみてから判断していこうと思いました。 責任や自由は目に見えないものですが、しっかり意識して生活していきたいです。





2組 「ルールについて考える」

 ルールは私が生まれる以前からすでにあるものであったので、これまでそれが必要とされる理由については深く考えることがなくなっていました。 しかし、今回の授業では、仲間がルールについてどのような考えを持っているのかを知り、自分の考えを深める良い機会になったと思います。 話し合いの中で私が所属していた班では、ルールは身の安全を守り、多くの人が不快な思いをすることなく快適に生活をし、ある程度規制をすることで精神面を安定化させ、安心して暮らせるようになるものであるとまとめました。 また、他の班では、ルールとは安心して暮らすためのもの、相手を尊重するもの、人の道を踏み外すことがないようにし、一人の人間として当たり前のことを当たり前にできるようにして全ての人が平和に暮らせるようになるものという意見も出ていました。 それらの話し合いを通して、ルールについて私は以下のように考えました。 第一にルールは社会を構成する人全員のためにあること。 第二に過去の人も含め多くの人の知恵と経験を導入して作られていること。 第三に集団に参加している者はルールを守らなくてはならないこと。第四にルールを守らなければペナルティを課せられること。 この四つを普段の学校生活やスポーツなどの活動を通して学ぶことが大切であると考えました。 さらに私は、ルールはそれがないと社会が混乱してしまう大変重要なものだと思います。 今回の学習を通して、社会の一員として他人に迷惑をかけることのない良好な人間関係を築き、社会を安全で安心なものにするために、私自身がルールを守ることがまず重要だと再確認できました。 そこで、これからも罰せられる、罰せられないは関係なく、ルールを守っていきたいと思います。

 

 





9組 「自由と責任」

 「真の自由」とは何か。今回は改めてこのようなことについて考えました。私は講話をお聴きする前まで、自分がしたいことを好きなだけすることが「自由」なのだと思っていました。講話の前日に記入したアンケートでは私は「完全に自由ではない」と答えました。日中は学校で決められた時間、決められた教科を勉強し、夜家に帰れば出された課題や試験勉強をする。そんな日々を送っている私は趣味ややりたいことをする時間がありません。でも、良く考えてみると、たくさんの高校の中から、私が自由にこの江戸取を選び、入学が許可され、こうして通っているのです。江戸取に通えていること自体、すでに私は自由なのです。そのことを今回改めて感じました。
 副校長先生がおっしゃっていた「自由かどうか、見た目では判断が難しい」という言葉が、特に印象に残っています。
一緒にいる友達みんながやっているからという理由で、本当はやりたくないことを周りに合わせてしてしまうということを過去に経験しました。時には人に合わせることも大切です。でも、何もかも人と一緒ではない方がいいと思います。私はそのような経験をして以来、しっかりと自分の意見を持った軸のある人になろうと考え実践しています。そして今回の道徳を受けて、その気持ちが一層強くなりました。

 

                    

 

9組 「自由と責任」

 自由とは自分の好きなことを好きなだけできると考える人が多く、僕もそう考えていました。しかし、副校長先生の一言で、僕は自分の考えを見直すようになりました。その一言とは「自由と言っても、自ずと制約がある。君たちの最初の考えとの間に矛盾がないか」というものです。僕たちは自分の好きなように何でもできることを自由と定義しました。しかし何かをするときには必ず周りに気を遣わなければいけないのです。つまり、この点で矛盾が生じているのです。完全な自由などは存在しないのです。このように考えると、僕たちの生活は自由でないと感じてしまいます。ところが、世界には貧しく、今日を生きることが精一杯な人もいると考えると、僕たちは自由な生活を送れていると感じることができます。このように、考え方次第で正反対の感じ方をすることがあるということが分かりました。
 講話のまとめで「自由は自分の内にあるもの。自分の良心に従って行動することを自由と言うのではないでしょうか」と副校長先生はおっしゃっていました。
 自分の良心に従って行動すること、つまり周りに思いやりを持って行動することが、自由なのだと思います。そのことを今回の道徳で学ぶことができました。

 

 





10組 「友人の多様性を受容する」

 この人とは合わないと敬遠していた人でもよく話してみると実は面白かったり、話が弾んだりするということがあります。だから、お互いに両面性を受け入れていくことはとても大切です。生理的欲求さえも満たすことの出来ない人が世界にはまだたくさんいるという現状の中、私は生理的欲求や安全欲求が当たり前のように満たされていることに気づかされました。今、社会的欲求の充足を目指していますが、そう思えることもありがたいことなのです。
 ジョハリの窓で、開放の窓が無かったのが意外でした。しかし、心当たりが無いというわけでもありません。 私は自分のことを細かいと思っていましたが、中学の時の友達からは「意外と大雑把」とよく言われたので、自分は自分が思い込んでいた自分とは違うということを感じていました。 また、盲目の窓がとても多かったことにも気づきました。一番自分の中で違うと思ったのは「前向きに考えそう」という項目です。 私はいつも何についてもマイナスな方向に考えてしまい、落ち込むことがあります。 まだ出会って数週間の間柄なので、イメージだとは思いますが「前向きに考えそう」という印象があったのなら、少しは前の自分から変わることが出来たのかもしれないと思い、嬉しかったです。 班の人に書いたものを渡したときの反応を見ると、「こんなことを思ってくれていたのだ」という感じの人と「やっぱりそうか」という感じの人がいました。 クラス全体として盲目の窓の項目が多かったという、私と同じ感想を持っている人が多かったです。 このことから分かるのは、自分を客観的に見ようと思っても、そう簡単に出来ることではない、ということです。 他の人の意見を聞かないと分からないような自分もあるのです。 そして、自分の知らなかった相手の部分があり、それにその本人さえも気づいていないことがあるかもしれないということも覚えていなくてはなりません。 なぜなら、それがその人の個性であり、それが友人の多様性であると思うからです。 私も他の人と変わったところがあるかもしれませんが、多くの友人が受容してきてくれたので、私も受容出来るような広い心を持ちたいと思います。

 

          

 

10組 「友人の多様性を受容する」

 人は見た目から受ける印象があります。僕はどのように見られているのでしょうか。よく「しっかりしている」と言われます。人の話をしっかりと聞いて理解して行動する。しかし、考え方を逆転してみると間違いや失敗を恐れる臆病者なのかもしれません。自分自身をきちんと見つめ直す必要があるかもしれません。自分をよく知らないと他人とのコミュニケーションも円滑にとれない気がします。人には個性があります。その個性を大切にすることも重要です。金子みすずさんの詩の「みんな違ってみんないい」や「十人十色」。色々な考え方があってその考えを尊重することで自分の足りない部分に気づく力となります。僕は友人のことをよく理解する必要があると思います。理解することによりコミュニケーションが円滑にとれるようになると思います。自分の価値判断と違う人がいても世間一般から見たらその人は普通で、僕がおかしいというようなことがあるかもしれません。人間とは不思議な生き物で相手が自分を嫌っているということを敏感に感じます。決して「嫌いだから」の一言で片付けず、相手の色々な面を尊重し、相手の多様性を受容するようになりたいです。
 僕は、生命としての基本的な欲求は当たり前の事だと考えていました。今の自分は何の不自由もなく生活できていますが、世界をよく見てみると満足に食事も出来ず、学校にも通えず、水汲みをしたり、空き缶を拾ったりしている子供がいる事に気付きました。自分はとても恵まれています。しかし、日々の生活に不平不満がでてきてしまう弱い自分がいます。今の僕は社会的欲求まで満たされています。同じ夢を持った仲間と勉強ができているからです。だからこそ、その上の欲求の充足を目指したくなります。あるべき自分になりたいという欲求を満たす為に、日々努力し、切磋琢磨し続けたいと思います。色々な事に気付かされた講話でした。僕にとって当たり前の事が決して当たり前ではないという現実。今、僕に与えられた僕に出来る精一杯の事を一所懸命行い、人として一回りも二回りも大きくなりたいです。

 

 





11組 「ルールについて考える」

 私は今回の授業を通して「ルール」というものの多様性を感じました。
 私自身は、ルールに対して「安全を守る」というイメージを持っており、人々の命を危険から守るものであるという認識がありました。その理由は、例えばスポーツのルールや交通ルール等が挙げられるように、皆がルールを守ることはそれぞれの安全につながると思ったからです。
 しかし、実際道徳の授業でクラスメイトの意見を聞いてみると、同じ「ルール」というテーマに対して自分とは異なる視点から考えていた人もいて、とても興味深く感じました。人としての道について考えた意見や、社会的に弱い立場の人の視点に立った意見など、自分では思いつかないような意見がたくさん合ったことで、人によってルールのとらえ方が違うことを実感しました。
 そして私はいくつかの意見を聞いて、皆のルールに対する着目点は大きく分けて2つあるのではないかと思いました。それは、個人としての人間性を見るか、私たちの暮らす社会全体を見るかということです。人間性に着目した場合、ルールを守ることで人への思いやりの心が身についたり、規律を守る自律性が得られるといった考えがあると思います。ルールによって人として成長することができるということだと考えられます。
 社会全体に着目すると、公共の場を快適なものにしたり、社会的に弱い立場の人でも安心して暮らすことができるようになるという考えがあります。こちらは、ルールを守ることがより良い社会そのものを作り上げていくということだと考えられると思います。
 ルールの多様性を知った今、ルールを見て「堅苦しい」と感じる前に、そのルールの持つ様々な存在理由について考えられるようになりたいと思います。

 

                    

 

11組 「ルールについて考える」

 私は今回、道徳の授業で木村先生のお話を聞きました。「ルールについて考える」というテーマで身近にあるルールにはどのようなものがあり、なぜ存在するのか、ということを学んだり、みんなで話し合った結果を発表したりしました。そして私は改めて「ルール」とは大切なことであり、私たちがこれから生活していく社会において必要不可欠であるものなのだと思いました。
 私はこれまでに「なぜこのような厳しいルールがあるのだろう」と思ったことがありました。高校に入ってからこのことについて考えていたとき、先生から、厳しい規則や細かい規則、あらゆる規則が私たちの周りにあると言うことは私たちが周りの人たちから一定の年齢として認識されている、つまり一定の年齢となった証しである、と教わりました。そのお話を聞いて、規則への意識が少し変わりました。これまでは厳しい規則と思っていたことも、自分が成長した証しなのだと思うと普段の生活で辛く苦しいように感じたことでも普通の行動の一部であったり気分の良い行動のように感じるようになりました。
 またルールは誰かの行動を制限したりするだけではないのだと学びました。まずスポーツでは、ルールによって白熱した闘いができます。そうなることでスポーツを通して人と人とがつながっていくことができると思います。次に、ルールというその集団内における決まり事があることによってお互いに尊重できるようになります。そしてそれは、自己の人間的成長につながるのです。私はこれから規則を意識して生活し、社会に出たときに社会のルールを当たり前のように守れる人間になっていきたいと思います。