平成27年度

中等部1学年 第11回 道徳感想文

1月 13日実施

 

    

 

 
【1組】 福祉社会

 
今回は福祉社会について考えました。高齢者や障害者が私たちと同じ環境、社会で生活していくには工夫が必要です。その一つが今回お話しいただいたバリアフリーやユニバーサルデザインだと思います。耳が聞こえなかったり、目が見えなかったり、車いすの方など、様々な障害の人が持つ障壁をすべて一度に取り除くことは簡単ではありません。私たちの周りにあるものは障害のない人に合わせて作られているものがほとんどです。これからは障害を持った人々が安心して暮らせる社会を積極的に作っていくべきだと思います。
 ノーマライゼーションの考えでは、障害のある人もない人も当たり前に、共に生活しなくてはいけません。確かに障壁を取り除く工夫は増えつつありますが、まだ十分普及し、理解が行き渡っているとはいえません。障害者や高齢者でも私たちと同じようにやりたいことができ、快適に生活できることが当たり前だといえる社会を作っていかなければならないのです。
 福祉社会を実現させるには、まず私たちが自分の意識を改革していく必要があります。バリアフリーやユニバーサルデザインだけではなく、自分のものの見方一つで彼らの障壁を取り除くことができる のです。これらはもっと視野を広げ、困っている人がいれば声をかけたり助けたりしていこうと思いました。小さなことでもできることから始めることで誰かを助けることができる はずです。一人ひとりが社会的弱者をちゃんと配慮することができなければ何も変わりません。障害のある方としっかり向かい合っていくことが大切だと思いました。
 
 【1組】  福祉社会

 福祉とは社会の人々が等しく受けることのできる安定した生活環境のことです。高齢者、障害のある人もバリアフリーのおかげで安定した生活を送れます。バリアフリーとは障害や障壁から解放された自由な状態、妨げがないという意味です。車いすの人のためには段差や階段が障壁となるので平らなスロープが作られたり、車いす専用のトイレがあったりします。また、目が 不自由な人のためには黄色い歩行プレートが歩道にあります。そう考えてみると日本は施設面では良い国だと言えます。しかし、これだけではバリアフリーの国とは言い切れません。車いす専用の駐車スペースはお店の近くにあり 、便利なので障害者ではない人も使用したりしています。また目が見えない人のための黄色い歩行プレートの上に平気で自転車を置く人もいます。これでは立派なバリアフリー 社会とは言えません。本来バリアフリーとは見知らぬ人でも助け合う人間関係だと思います。ということは日本は施設だけで満足しているのかもしれません。僕は思いやる気持ちが足りないんだと思います。ボランティアも同じだと思います。ボランティアは無償で自主的に奉仕するものです。そして「福祉」や「ボランティア」において必要なことは相手を思いやる心です。普段の生活や学校生活でもその気持ちは忘れないでいたいものです。
 今回道徳で強く感じたことは、関係のないことや知らないことに対して、私たちはあまりにも無関心であり、意識しないと何も気づかないということです。配布されたプリントの一般常識として知っておかなければいけないマークでも 、日々見かけるマークでさえ名前を知りませんでした。障害がある人への無関心や無理解は知らないということだけで、そのまま差別や偏見にもつながってしまうと思います。これからは知らないことを減らし、できることから実行していきたいと思います。
 

 【2組】  礼儀について

 私は今回、人としてのマナーや礼儀について、これからの人生において重要な事柄をたくさん学ぶことができました。
 まず一つ目は言葉の使い分けについてです。尊敬語、謙譲語、丁寧語の三つの敬語には、様々な表現があります。しかし、これらは本来学校で教わるものではなく、家庭での会話や友達との会話など、その人の身の周りにいる人の言葉遣いによって自然に身についていくべきものです。つまり、「その人はどんな環境で生活してきたか、あるいはしているか」がすぐに分かってしまうものです。だから、子供達の人としての礼儀を養うという意味でも、周りにいる大人が、下品で、相手を不快な気持ちにする言葉遣いをしないで、美しく、きれいな日本語を日々の生活の中で使うことによって、子供達はその場に応じた言葉遣いを自然と覚えることができると思います。そしてそれは、この世の中に存在する言葉によるいじめや暴言を次第になくしていくことにつながり、皆が平等で尊重しあえる世の中へと変化していく一助となるにちがいありません。
 二つ目は、昔から日本には礼儀が存在していたことについてです。「平家物語」では、合戦の際、鏑矢を射る時に、自分の名前、出身地、身分を名乗ってからやることを初めて知りました。そして私は、このことを受けて、「昔から礼儀がどんなときも大切にされている」ということに気づきました。この礼儀を日本の伝統として後世にも受け継いでいくためにも、私たち一人一人が今の自分の言葉遣いを見直して、正しい日本語を日々、使っていくことが大切だと思いました。私も今から、自分の今までを振り返り、改善していくべきことはしっかりと改善していき、正しい日本語を使っていきたいです。
 そして三つ目は、日常の礼儀についてです。私はやはり一番大切なのは挨拶だと思います。挨拶というのは、全く知らない人同士をたった一言で結んだり、人を快い気持ちにさせたり、その場を和ませたりと様々な意味合いを含んでいて、どんな場面でも用いるべきものです。時には挨拶が自然にできるか、できないかの違いだけで人格を判断されてしまうことも少なくありません。礼儀は大人になっても大切であることは変わらないものですので、しっかり今のうちから身につけていきたいです。

 【2組】  礼儀について

 私は今回、親しい友達と接する中で、礼儀がきちんと成り立っているか考えてみました。本来、「親しき仲にも礼儀あり」ということわざがあるように、いくら親しくても、相手を尊重する態度がなくては、良い人間関係が構築されません。しかし、私の日頃の行いは、十分に相手を尊重しておらず、誠実な振る舞いができていないということが分かりました。中1も残り三ヵ月を切り、自分はこの先、どう振る舞えばよいのかを考え、三つのキーポイントを見つけました。
 一つ目は、言葉遣いに気をつけるということです。授業の中で取り上げられた「敬語」は、尊敬語、謙譲語、丁寧語の三種類に分けられます。丁寧語は、言葉を柔らかくする働きがあり、三種類の中では簡単で、私も使うことができます。しかし、相手のことを敬う尊敬語や自らのことをへりくだって言う謙譲語は少し堅苦しいイメージがあり、私が使う頻度は少なめでした。ですが、敬語を正しく使えば、相手がすがすがしい気持ちになり、自分の国語力も上がり、一石二鳥といえそうなので、これからは積極的に使っていきたいと思います。
 二つ目は、校門一礼や約束事など、決められたことをきちんと守るということです。校門一礼は四月からやっていることで、江戸取生として当たり前のことですが、これも学校や自分に対して誠実に一礼する点から、立派な礼儀だといえます。また、約束事を守るとは、具体的に、提出期限を守るということも含まれますので、期限をしっかり守り、先生との間にも確実な信頼関係を構築できるようにしたいです。
 最後に三つ目は、話を聞くときや会話をするときは、相手に身体と目を向けると いうことです。自分はあなたと会話がしたいんだ、話が聞きたいんだという気持ちを表現しなければ、相手が自分に興味を持っていないのだと思 ってしまうかもしれません。会話をするときは相手の目を見て、身体を向けるように心がけたいと思います。
 より良い人間関係にするためには礼儀は必要不可欠です。その中でも、言葉は特に深く関わっていると いうことが授業を受けて分かりました。十年後、二十年後に社会で輝くためには、学力のみならず、正しい行動力、判断力、そして正しい言葉遣い、振る舞いができなくてはなりません。未来のための訓練をしているつもりで、生活し、礼儀 正しいすてきな大人になりたいです。

 

 【3組】 いじめのない社会
 
 いじめは陰でコソコソと行われているケースが多いために、見つけにくいものです。いじめの標的にされる人は物静かで大人しい子が多く、いじめられていてもなかなか言い出せず、そのことがさらにいじめを見つけにくくしています。 そして周囲の人々の無関心さがいじめる側の人間をまずます増長させてしまうのです
 いじめる側はどうして人をいじめるのでしょうか? まず、よく挙げられるのは、「日々のストレスの発散」です。特に受験時期はちょっとしたことでイライラしてしまいがちになります。成績不振やそれに付随する劣等感が、自分よりさらに弱い立場にいる人をターゲットにし、いじめて喜びを得ようとしたりするのです。また他者に対する支配欲を満足させ たいという心理状態もいじめの原因にもなります。 弱いものいじめをすることによって、自分の強さをアピールしたりするのです。いじめは本当に卑怯な行為です。その卑怯ないじめがさらにエスカレートしていき、最後には自己を制御できなくなってしまい 、取り返しのつかない結果を招いたりするのです。
 
ではそれらをなくすためにはどうしたら良いのか? 以前よりいじめは減ったといわれるものの(少子高齢化の理由もある)、なくなってはい ません。でも「いじめはなくならないから仕方ない」で片付けてしまっていてはいけないのです。偏見や差別があるからこそいじめが生まれてしまうのだと私は思います。 まだはっきりした答えは私には出せませんが、いじめを止めるには根本的な思考を変えないと解決につながらないのではないかと今回の授業では深く考えさせられました。
 

  【3組】  いじめのない社会
 

 私は今回「いじめのない社会」の道徳をお聴きして、いじめに対する見方が変わりました。小学校の頃、クラスメートである1人がいじめに遭っていました。クラスの中心的存在の子がいじめをしていたので、私は怖くて何も言えませんでした。けれども、私は今、昔の自分の行動を反省しています。今回の授業で木村先生はいじめの原因に、「いじめをすることで快感を覚え、それがエスカレートしていく」とおっしゃっていました。今、その時にいじめていた子がどうなってしまったのか、私は知りません。しかし、私がその時に、周りの大人である担任の先生や、親、カウンセリングの先生に相談することができれば、昔、いじめをしていた人たちは変わっていたと思います。私は、「いじめを見てみぬふりをすることは、いじめをすること」と同罪だと思います。私が昔していたことは、いじめと同罪だったと思い、深く反省しなければならないことだと思います。
 木村先生は、いじめを世の中からなくすために、1番大切なことは「相互に尊重し合い、自他共に命を大切にすること」だとおっしゃっていました。私は、「自他共に命を大切にする」ということの意味は、「自分、他人共に限られた命を楽しくいきいきと生きる」ということだと思います。命は限られています。限られた命を「いじめ」や「けんか」のために使うのはもったいないことです。今回の木村先生の道徳は私に大きな変化をもたらしてくれた授業であったと思います。命は他の何にも代えられない母や父から受け継いだものです。そんな大切なものをいじめは奪います。私は、いじめは本当にいけないことだと思います。木村先生は「いじめをしない、させない、見逃さない」とおっしゃっていました。私は、その通りだと思います。私が変わればクラスが変わる。クラスが変われば学年が変わる。学年が変われば学校が変わる。学校が変われば地域が変わる。地域が変われば国が変わる。国が変われば世界が変わる。このようにして少しずつ、「いじめ」を社会からなくすことができるように、相手のこともきちんと受け入れられるような人になりたいです。
 
 【4組】 礼儀について

 私は「頭を下げる」ということの意味と、「挨拶」は相手に近づき押すという意味の言葉だったということを初めて知りました。私は、毎朝校門一礼をするときは、先生方もおっしゃるように「今日も一日よろしくお願いします」と心の中で言いながら礼をしています。入学したばかりの頃は慣れない行動でしたが、「形から入って心に至る」という校長先生の言葉通り、今ではしっかりと定着しています。この行動は、自分の勉強する場所に感謝の気持ちを表すという意味を持っています。今の私は「校門の一礼」のおかげで、すっきりとした気分で快適に授業を受けたり友達と過ごしたりできています。
 次は「挨拶」についてです。中山先生は今回の授業で四組の教室に入って来られた時に、大きな声で「おはようございます」と挨拶をしてくださいました。私も教室に入るときはなるべく大きな声で挨拶をしながら入ることを意識しています。そうすると、先生や友達は「おはよう」と返してくれます。挨拶は人とコミュニケーションをとる時の一番最初のやりとりです。たった一言発するだけでも相手の具合が読み取れるからです。そういう点で挨拶は大切であり、さらにもう一つの大切な理由があります。それは、お互いが気持ちよく生活できるということです。人とすれ違っても挨拶をしないと、何だか気まずい感じがします。今は私の中で挨拶はしっかりと定着していますが、入学したばかりの頃は恥ずかしいと思っていました。しかし、先生方から声をかけていただいたことで自分も慣れていきました。もうすぐ中学二年生に進級して後輩もできるので、江戸取生としてこれからも挨拶を意識して 実行していきたいと思います。
 次は、「礼儀」についてです。私は、小さい頃に父から「靴を脱いだら揃えなさい」とか、「もっと上品にしなさい」とか言われていました。今思えば、品格や育ちのよさを身につけるようにと、そして相手に対しては失礼のない行動ができるようにと願いながらしつけをしてくれたのだと思います。小さい頃の習慣は大きくなってからとても重要な「礼儀」に関わってくるのだと身をもって感じました。「礼儀」には三原則がありましたが、全くその通りだと思います。なぜなら、もし「礼儀」をわきまえていなければ、周りの人は 私に対して怒りの感情を抱いたり、迷惑に感じたりするはずです。「礼儀」も一つの公徳心だと思います。それを守れば、いろいろな人が気持ち良く快適に毎日を過ごせます。私はバスの中で、お年寄りの方に「ここ、どうぞ。」と声をかけている江戸取生を見たことがあります。立派な人だなと思いました。そしてそれ以来、私も席を譲ることを恥ずかしがらずにできるようになりました。

 【4組】 礼儀について

 
僕は、今回の道徳で礼儀について考えました。まず、今の社会において礼儀を見直すことが重要だということを理解することができました。現代の社会は昔に比べ て、生活が貧しくないので、助け合うことが少なくなっています。その結果、「礼儀」をわきまえていない人が増えているようです。そんな現代の社会を生きているわけなので、出来るだけさまざま人と関わりを持ち、礼儀についてわきまえられるように私たちは努力しなければならないのです。
 次に、「挨拶」について学びました。挨拶とは相手の心の扉をノックすることで自分と相手との心を交流させることだと学びました。それは自分と相手とのコミュニケーションの第一歩 です。ですから相手がしてくれた挨拶には、必ず答えないといけません。相手がせっかく自分の心の扉をノックしてくれたのに、自分がその挨拶に答えなかったら、そこで自分と相手との心の交流が途切れてしまい、また相手と自分との関係を悪くしてし まいます。挨拶は、「自ら・心を込めて・態度に示して」するようにしたいです。具体的には、相手に対する「感謝の気持ち」や「気遣いの気持ち」を持ち、頭を下げて挨拶をすることです。礼をきれいにすることによって、人を美しいと思わせることができるということも学びました。校門一礼や大ホールでの礼でも美しい礼をするように心がけていきたいです。
 最後に「言葉遣い」についてです。言葉にはその人の「人格、品格、教養、育ち」などが出てしまうため、言葉遣いが悪いと社会に出てから損をするということを学びました。僕は、きちんと相手に言いたいことが伝えられるように努力をしたいと思いました。そして何か物事を言う時には、一度考えてから言うようにして、言葉遣いには十分注意するように したいと思いました。礼儀の三原則にもありましたが、人に迷惑をかけない人に好感を与える人を尊重するということも意識しながら、様々な人と接していこうと思います。

 

 【5組】 いじめのない社会

 
今回武居先生のお話をお聴きして、いじめは絶対にあってはいけないものであると理解したとともに、相手(友達)のことを考えることの大切さを学びました。まず、いじめとは、たとえいじめている方はいじめているつもりがなくても、 いじめられている方がいじめられていると思えば、それはいじめであるということです。いじめている方といじめられている方の、ある出来事に対する感じ方は全く違います。そこが、いじめの一番怖いところです。いじめている方は、たいしたことはないだろうと思っているときが、一番いじめが起こりやすいときなのです。そうなったとき、いじめられている人を助けられるのは、周りの人です。周りの人が、いじめられている人の気持ちになって、その人の性格などを考えることができれば、そのようないじめはなくなる はずです。いじめには、いじめている方も悪いと分かっていながらいじめているケースもあります。そのような場合には、周りの人の勇気が必要です。その勇気を出すためには、やはり人のことを考えられることが必要です。このように、いじめをなくすために必要なことは、友達のことを考えられる心を持つことだと思います。 本来いじめる側にある人がこのような心を持てば、いじめは起こりません。いじめが起きた場合も、周りの人が思いやりを持っていれば、初期段階で止められます。つまり、みんなが友達のことを考えられる心を持つことが一番大切なことだと思いました。僕はこれから、自分のことだけで一杯一杯にならず、余裕を持って友達のことを考えていきたいと思います。そうすれば、いじめのことだけでなく、友達が辛いときに支えてあげたり、大変なときは応援してあげたりと、助け合うことができます。もし自分がいじめに気づいたとき、そのままにするのではなく、たとえ自分がいじめを止めることができなくても、何かできることをやろうと思う気持ちを持ち、行動する勇気を持てるようにしたいです。江戸取生みんなが楽しく毎日を送れるように、思いやりの心を忘れず過ごしていきたいと思います。このことは、これから社会人になっていったとき、絶対に生かされると思いますし、立派な社会人となる上で、必要不可欠なことだと思いました。

 【5組】 いじめのない社会

 僕は今回の武居先生の講話をお聴きして、相手の心情の変化に気づく、もしくは考える事が、いじめを防止する一番の方法だということに気づきました。先生が話して下さった通り、自分のクラスで起こりうることを考えたときに、「気づかないうちに相手の心を傷つけていた」ということが挙げられると思いました。そういうとき、何をすれば傷ついた人が不登校などになることを防ぐことができるのか、それは「相手と自分を置き換えて考える事」です。「自分は今こんなことを相手にしようとしているけど、自分がやられる側だったら、どんな気持ちになるか」といったことを、少しでも意識すれば、まず自分がされて嫌なことはしないと思います。しかし、これだけでは、まだだめです。なぜなら、「自分はされても何とも思わないことでも、実際に相手がやられると不愉快な気持ちになる」ことはあり得るからです。自分と相手がすべて同じように感じるとは限らないのです。そういうときには周りの人がそうと察したときにただちに止める、注意する、もしくはやられている側の守りに入るということが必要になってくると思います。また、やられている側も意思表示をするべきだと考えます。やられてばかりで黙っていては、気づきたくても気づけないことは十分あり得ます。だから、やられている側も、黙っているだけではいけないでしょう。つまり、いじめを防止するためには、クラス全員がお互いに周りを意識することが何よりも大切だということです。僕はそれをこれから実行していこうと思っています。
 
 【6組】  文化の多様性

 今回の道徳のテーマは「文化の多様性」でした。今回の道徳の授業を受けて思ったこと・感じたことが二つあります。一つ目は、自分の文化を主張するということです。この自分の文化というのは、文化だけでなく意見や思ったことも同じだと思います。前にあった武井先生の道徳と、一番言いたいことは同じだなと思いました。よく日本は自己の主張をしない 、意見を言わない国とも言われます。思い込みというのもあると思いますが、やはり、あまり自己主張をしません。私もそうです。自分の意見を言いたい時もありますが、もし他の人に反対されたらどうしよう、バカにされたらどうしようと思ってしまい結局言えなくなってしまいます。
 この道徳のテーマ「文化の多様性」というテーマを通じて、日本の文化・世界各国の文化がありますが、お互いの国が尊重し合うだけでなく、普段の生活でも尊重だけでなく、主張することも大事だと学びました。
 二つ目は思い込みについてです。
道徳の授業でもあったように友達とのトラブルの99%が思い込みや偏見です。世界の文化にもありますが、その文化を汚いだとか、非難してしてしまうことがあります。その偏見や思い込みがいじめなどにつながっていってしまいます。私も前に思い込みで友達とトラブルを起こしてしまったことがあったので「思い込み・偏見をしない」というのは共感しました。それこそ、お互いを理解しあい尊重することがとても大事だと思います。色々な個性の人がいるからこそ、この世界が成り立っていると思います。私は、自分の意見を主張すること、一人一人の個性を大切にし、思い込みや偏見をなくすことをこの道徳で学びました。


 
【6組】 文化の多様性

 
私が小学生の時、同級生にマレーシア人の子がいました。彼女は給食の時、いつもお弁当でした。不思議に思って理由を聞いてみると、宗教上の理由で食べられないものがあるからと教えてくれました。日本の肉の処理の仕方では食べられないそうです。私は、宗教のことをあまりよく考えたことがなっかたので、この話を聞いて驚きました。今回の道徳の授業 ではこのことを思い出しました。他にもヒンドゥー教は牛肉を食べられず、日本で身近な仏教の精進料理でも肉を食べ ません。食文化でも色々な違いがあるのだなと考えました。宗教上の違いだけでなく、日本では生魚を食べますが、世界では生魚を食べる習慣があまりありません。ロシアでは、タコは怪物と思われているので普段食べないし、寿司のネタにもないと聞いたことがあります。日本の「納豆」「海苔」など、外国人には理解できない食べ物もあります。それから、「クジラ」については私も食べたことがありませんが、国際的に問題となって研究用の捕鯨しか現在は行われていないと聞いたことがあります。捕鯨は古くから行われてきた日本の文化の一つです。鯨の個体数を減らさないためでなく、鯨を食べるなんてかわいそうだという声もあるそうです。私は今回、食文化の違いから「文化の多様性」について考えてみましたが、食文化だけでもこんなに違うのだから、物事の考え方が沢山あるのは当たり前だと思います。お互いの文化を理解し、尊重し合うことが改めて大切だと思いました。また、自分の思い込みや偏見をなくすことも、これからは大切だと思いました。
 

 【7組】 家族について考える
 
 私は今回、遠藤先生のお話をお聴きして、改めて家族の大切さを感じました。そして、先生がおっしゃっていた「ゆりちかへ」という本を読んでみたくなりました。その本を、すぐに手に入れることはできなかったので、初めにその動画を見ました。「ゆりちかへ」を見た時、私が一番印象に残ったのは、「自分自身の命ではなく、まだ顔も見たことがない自分の子どもの命を優先するために、子どもを産んでから、自分の病気の治療を始めた」ということです。しかも、このお母さんの病気は、今すぐにでも治療を始めなくてはいけない「ガン」だったそうです。もし私が、このお母さんと同じ状況になったら、きっと、 「自分の命が一番大切だ。死ぬなんて怖いから、子どもはあきらめよう。」と、「ガン」が分かった時点で治療に専念すると思います。また、余命宣告を受けた後のお母さんが行った活動も、本当にすごいなと思いました。その活動とは、「ゆりちかへ」という本を作って売ることや、ボイスレコーダーに自分の生の声を入れたりすることです。とても、お母さんが、「ゆりちか」ちゃんのことを大切に思っていたということが伝わってきました。このお母さんが「ガン」で亡くならなければ、とってもいい<お母さん>になっていただろうと思います。
 私は、「お母さんが自分の命はなくなってもいいから、子どもの命が生まれて幸せに生きてくれればいい」という、このお母さんの考え方は、 すばらしいと思いますが、私の友達は、「子どもを産んでおいて、自分が死んでしまったら、その子どもがかわいそう。 「お母さんがいない子」として生きていかなければならないし、誰がその子を育てるのかという問題も生じる。あるいはその子どもは、 「自分が生まれたせいで、お母さんが死んでしまった」と いう一種の罪悪感を一生抱えたまま生きていくかもしれない。このお母さんは、結局子どものことを全然考えてないと思う。」と言っていました。確かに、そう言われてみればそうかもしれないとも思いました。評価は分かれるかもしれませんが、いずれにしても、私は、こ のお母さんはすばらしいと思っています。  
 
 【7組】 家族について考える
 
 ぼくは、今回の「家族について考える」というテーマでの遠藤先生の講話をお聞きして、改めて家族の大切さや両親の苦労を知ることができました。僕は今まで家族がいるのは当たり前だと思っていました。しかし、遠藤先生がおっしゃった、「失って気づくことが多い」という言葉で、「家族がいなくなってしまったらどうしよう」と不安になりました。僕はすぐに両親に反抗的な態度を取ってしまい、いつも両親を困らせてしまっていま す。しかし、もし両親がいなくなってしまったら、自分には後悔しか残らないと今は思っています。両親がいなくなってしまってから後悔しても、もう遅いので、両親がいなくなった後に後悔しないように今から行動していきたいと思いました。そのためには、これから反抗的な態度を取らないことだと思いました。そして大人になったら さらに親孝行をしていきたいと思います。僕は両親にとても感謝しています。塾に通いたくても通えない子がいるのに、僕は小学4年生の頃から塾に通わせてもらうことができました。塾に通い始めた頃には、あまり勉強に集中できていませんでした。その時にお母さんに「塾に通いたくても通えない子もいるんだから、頑張りなさい。」と言われました。それで 僕は、そういう人たちの分も頑張らなければと思うことができました。江戸取に入ることができ 、改めてこの13年間、両親や姉に支えられて生きてきたんだと実感することができました。
 
 【8組】  働くことの意義

 「働くことの意義」というお話を聞き、仕事へのイメージががらりと変わりました。はじめは働くこと=自分の生活を営む、又はお金を稼ぐという イメージしかありませんでしたが、働けるということは本当にありがたいことなのだとわかりました。そのために も今、もっと一生懸命勉強に励んでいかなければならないと強く思いました。また、道徳やLHR、総合学習の時間などでの先生のお話や、社会人の方々のお話を聞く機会を大切にして 、自分の働きがいは何なのかを考え、自分の夢をさらに膨らませていきたいです。
 一方、将来なりたくないと思ったのは23歳を過ぎてからも仕事に就かずに経済的な自立ができないまま、無駄に人生を過ごすという生き方です。僕に愛情を注ぎ、この学校に入学させてくれた 両親に対して、そのような人生を送ってしまっては申し訳ないと思います。いつまでも人の世話を受けるのは恥ずかしいことであり、世話をしてくださった人に恩を返せな くなってしまうのは悔しいことです。これから様々な職業を調べ、楽しく仕事をできて一生涯やり続けられるようなやりがいがある仕事 を探したいと思います。そのためにも今の恵まれた環境で一生懸命に勉強して自分の夢の実現に向けてがんばり、両親を大切にしていきたいです。 

 【8組】 働くことの意義

 今回、竹中先生の「働くことの意義」をお聴きし、大切だと思ったことは「仕事の報酬」についてです。二人の石切職人の 話と日本理化学工業での話は、自分にとって仕事について深く考えるよい機会になりました。二人の石切職人の話を聞き、報酬というのは給料や地位など見える報酬だけではなく、仕事には人間としての成長という報酬があることを知りました。
 チョークなどを生産する日本理化学工業については、授業後、自宅でインターネットで調べてみると、この会社の81人の従業員のうち、60人が知的障害者で、その中でも28人が重度の障害者だそうです。 この会社には障害者一人ひとりの理解度に合わせた仕事があるそうです。この会社の話を聞いて、私も「やりたくないからやらない」という考えを捨てて負けないくらい頑張りたいと思いま した。今回、竹中先生の道徳をお聴きして働くことの大切さを感じました。仕事は給料をもらうと同時にメンタルを強くし、人間的な成長も 期待できる大切な営みなのです。マザーテレサの言葉のように、誰からも必要とされてないと感じることは本当に不幸なことです。私はこれからの人生は2人目の石切職人のように仕事の価値を見出せるようになりたいです。
 

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