1組 「ルールについて考える」  Kさん

 我々が社会の中で円滑に過ごすためには、ルールというものが必要不可欠です。ルールによって社会の秩序であったり、その中での価値観であったり、均衡が保たれると思います。時崎先生が始めにおっしゃっていた、外国で犯した罪はその国で罰するということも、ルールを定めている集団それぞれに、別の価値観が存在するからだと思います。私たちにもっと身近なルールである、校則や条例というものは、文字となっています。しかし、文字となっていないものでも、守らなければならないものが当然あります。たとえば、友達を仲間はずれにしないとか、人が嫌がることはしないという、文字となっていないが、私たちが意識をもつべきことです。このようなルールも、社会を円滑にするためには必要だと思います。
 どうしてルールが生まれたのか、今まで考えたことがありませんでした。きっと、さかのぼると縄文時代や弥生時代の人々が集団で暮らし始めた時代まで戻るのですが、文字となって出たのが、日本でいうと、大宝律令の飛鳥時代です。その頃は、人の中で役人や農民など、位が決まっており、国の政治やそのための税も存在していました。とすると、なぜルールが生まれたのか、その根底には、やはり集団があるのです。人間に限らず、自然界の動物だって、たとえば、縄張りや食物に関するルールが存在し、互いに守りあって、均衡を保っていると思います。先生がおっしゃっていたように、
一人きりではルールは必要ありません。二人以上になったとき、互いに気持ちよく生活することができるように、ルールが生まれてきます。

 

     


     

 

1組 「友人の多様性を受容する」  I君

 私の社会に対する考えというものは、いろいろな場で人間関係さえあれば社会になると考えていました。しかし、社会というものはもっと大きく分けられるものだと知りました。社会は同じ仲間と共同生活を営んでいることで、社会が既にできているということについても知りました。
 社会には複数の人間をまとめていったり、守っていくためにも決まりがあり、その決まりによって社会がより良く動いていることに気付きました。私自身その社会の決まりの意味を深く考えること無く軽い気持ちで何度か社会の決まりを破ってしまったことがありました。しかし、社会においての決まりはなくてはならない、必要不可欠なものだと改めて認識することができました。なかでも「礼儀」がなければ、相手をあまり意識することがないため、みんなが自己中心的な行動をしてしまい、社会が機能しなくなってしまいます。
礼儀があり自己中心的ではない考えを持つようにすることで、自分が社会の一員であると思えてくるのではないかと考えます。また、社会にいる以上、個々に役割や責任が生じます。社会での役割をこなすことができなかったとしたら、そのことによって他人に迷惑をかけてしまうので、迷惑をかけないようにしなくてはならないという責任が生じると思います。私は江戸取の一員とて、役割をできるだけ早く見つけ、他人に迷惑をかけず責任も感じていけるよう自覚を持って日々行動していき、礼儀も念頭に置いて生活していきたいと思います。

 

 

 

9組 「ルールについて考える」  Tさん

 法律は破ったらそれ相応の罰を受けなければならないのに対し、ルールは破っても何もありません。だからなのか、公共の場ではルールを破る人が多いように思います。私はそんな人達を見ると、ルールを守っている自分たちが馬鹿らしく感じてしまいます。例えば、通学バスを待っている時、満員なのに列に並ばず乗ろうとしている人達です。私もそうすれば、こんなに並ばなくてすむのにとよく思います。しかし、みんながみんなそうしてしまったら道を塞いでしまいますし、時間もかかってしまいます。そこで何が起こるかというと、他の通勤、通学者やバスの運営に迷惑がかかってしまうのです。何も罰がないからといってルールを守らなくて良いというのではいけないと思いました。それはとても利己的な考えだと思ったからです。
 では、ルールを守るためにはどうすればよいのでしょうか。私が考える一番の対策は環境を作ることです。皆が守っている雰囲気を作ることが大切だと思います。やはり、身近な人や先輩達がそうしているのを見ると自分も守らなければという気持ちになると思います。
 今までルールというのは、厳しくて堅苦しいものだと思っていましたが、ルールがないといろいろな秩序が乱れてしまうことがあるとわかりました。また、
ルールを守ることで身の周りの環境が整うので自分のために良いこともわかりました。きちんとルールを守っていけるように心がけて、周りにもそう呼びかけできるようになりたいです。

 

            

        

 

9組  「ルールについて考える」  A君

 私は社会の一員として、いろんな集団に属しています。まず、一つ目に家族があります。授業中に家族の何か手伝いをしているのかと問われていろいろと考えてみましたが、自分がやっていることは、時々している風呂の掃除くらいであることに気付きました。ただ助けてもらうだけでなく、少しずつ手伝いを増やしていかなければならないのではないかとも思いました。私は部活動ではサッカー部に所属していますが、怪我をして、夏休み前から練習に参加することができなく、自分では悔しい思いをすることとなりました。遅れた分を取り返すため、早くから練習に参加し多く練習をするようにしています。これからも努力を継続していきたいと考えています。また、私は家族・学校・部活という集団に所属するものとしての共通の責任として学習があると考えています。今、自学習を朝1時間・帰宅後2時間実践できるようになりたいと考え、学習時間を少しずつ増やしてきました。最初は厳しいものがありましたが、できるようになりつつあるので、目標達成を目指して頑張りたいと思います。そして社会に出て行くためにも、集団の中でコミュニケーションを大事にしていきたいと思います。常によりよいコミュニケーションを保ち、身近な人に不快な気持ちを持たないようにして、みんなが心地よく過ごせる環境を作る努力をしていきたいです。

 

 

 

10組 「友人の多様性を受容する」  Nさん

 今回のテーマについては色々なことを考えました。先生がおっしゃったように、日本人は、自分と違う性格の人がいると遠ざけてしまうことが多いと思います。クラスの人を見ても、同じような外見や言葉遣い、趣味の人が集まってグループになっていることがよく分かります。入学当初からこのような状態だったのであまり気にしませんでしたが、よく考えてみると、人は知らないうちに多様性を、グループをつくることによって遠ざけてしまっているのだと思います。そうだとすると、自分と似たような人しか見ないことによって、視野が狭くなっているはずです。だから、もし自分と違う考えや性格の人がいても、「個性があっていいな」と考えて、周囲の多様性を受け入れられる人間になりたいです。
 班に分かれてジョハリの窓をつくったとき、自分では思っていなかった「親切」という言葉を他の班員全員が書いていて、嬉しいと同時にとても驚きました。自分の気持ちが周りに認められた気がしました。また、時間をかけて人のほめるところを考えたことは今までになかったので、今回の道徳の授業でより人間性に関心がわきました。班員のことを考えているとき、ほめる点が沢山あって「良いクラスメイトに恵まれたなあ」と感じました。班員に教わった自分の知らなかった自分を今後の未来に役立てるようにしたいと思います。そして周りの多様性から良い部分を吸収して、人格を極めていきたいです。

 

     

     

 

10組 「友人の多様性を受容する  Yさん

 今回の道徳の授業で、友人の多様性を受け入れるためには、まず自分の性格や価値観をきちんと理解する必要があると感じました。日本人の特徴としても挙げられるように、私たちは考え方の違う人を受け入れようとしないことが多いと思います。しかし、それならば、私たちは自分自身の考え方について本当によく理解しているのかと聞かれると、自信を持ってそうであるとは言えないと思いました。今回の授業で、他の班員が思っている私の性格を知り、自分は友達やクラスメイトに、自分自身が知らない、または発見していない面を多く知られていると改めて実感しました。このことからも分かるように、私たちは、まだ、自分のことを完全に理解しているとはとても言えないと思います。また、普段の生活の中で、自分にきちんと向き合っているかどうか考えてみると、あまりそのような時間をとっていないことも分かりました。このようなことがあるから、私たちは相手の考え方や性格などを独断や偏見で決めてしまい、しっかりと向き合えないということになるのでしょう。しかし、相手と向き合い、相手の意見や考え方をしっかりと受け入れるということは、人とコミュニケーションをとるときに最も重要なことのひとつだといえます。今のうちからこのことを意識し、習慣化していくことで、将来、他人の考え方を受け入れることができる大人になり、自分と異なる文化の人々ともうまく交流できるようになりたいと思いました。