今回の道徳で私は改めて「命の尊さ」を知ることができ、たくさんの人への感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。
私は6月14日に行われた遠藤先生の講話を聞いて三つのことに心を打たれました。
まず一つ目は、三年前に起きた東日本大震災の梶原裕太さんの答辞についてです。東日本大震災では多くの人が死んでしまい、人々に強い恐怖を与えました。そんな中で、階上中学校の梶原裕太さんが答辞でこのようなことを発表していました。「命の重さを知るには大きすぎる代償でした。苦境にあっても天を恨まず運命に耐え、助け合って生きていくことが私たちの使命です。」ここですごいところは、裕太さんの周りに死んでしまった人がいるにもかかわらず、天を恨まず未来に前向きな姿勢で立ち向かっているところです。いつまでも過去を嘆いてばかりでは前に進めないということを教えてくれました。
二つ目は、「がんばれば幸せになれるよ」の山崎直也君についてです。直也君はガンにかかっており、直也君のお母さんも苦しんでいました。ですが、そんなお母さんを励ましていたのは、一番苦しんでいるはずの直也君だったのです。直也君は死の直前にも「自分が死んでしまってもお母さんは暗くなってはいけない。明るく元気に生きなくてはならない。」というようなことを言っていたそうです。死の直前であるのにもかかわらず、最期までお母さんを気づかっていた直也君は大人だと思いました。
三つ目は、あいだみつおさんの「いのちのバトン」についてです。ここに「過去無量のいのちのバトンを受け継いで今ここに自分の番を生きている」と書いてあります。私たちは過去の人たちのいのちのバトンを受け継いでここに生きています。だから、過去の人たちのためにも、自分たちのためにも、未来の人たちのためにも絶対に落としてはいけないということを改めて実感しました。そして、これから生まれてくる人たちに命を大事にして欲しいと思いました。
世の中には、生きたいのに死んでしまうという人がいます。だからこそ、命の尊さを知り、未来に前向きに生きていきたいです。
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私には友達がたくさんいると思います。今までやってきた習い事での友達や小学校で一緒だった子、今学校で仲良しの子などを合わせると、150人くらいはいるのではないかと思います。竹澤先生は一人一人個性があるとおっしゃいました。私もそう思います。性格が似ていたり顔が似ていたりしている子が私の周りにもたくさんいます。しかし、一人一人違うところがあります。その一人一人の個性はかけがえのないものだと思います。だからその個性を尊重して大切にしたいと思いました。
ぼくが校長先生のお話をお聴きして感じたことは、主に三つあります。 |
今回は「自由と責任」について、中山先生に考えさせていただきました。まず、自由とは何でしょう。好きなようにすることです。クラスの意見を聞くと、自由は必要であると答えた人が大多数でした。では何が何でも好きなことをしていいのでしょうか。私は駄目だと思いました。友達の筆箱がほしいからって奪うのは駄目です。好きなことをする、つまり自由にも限度があります。自由とは、無制限に好きなことをすることとは違います。自由か自由でないかは見た目では判断しにくいです。心の在り方、心の持ち方しだいで自由であるかどうかは決まるのです。次に、責任とは何でしょう。自分に与えられた役割、任務を人として果たすべきことです。クラスの意見を聞くと、責任を果たしている人が大多数でした。責任には三種類あることを、今回の道徳で初めて知りました。一つ目は、自分自身に対する責任です。私の班で出た意見をまとめると、与えられた仕事を、きちんと最後までやるということでした。他の班ではその意見が次の二つ目の責任として出てきました。二つ目は、他者に対する責任です。
私の班では、約束を守り、思いやりの心を持つという意見が多数出ました。私は一つ目と二つ目は関係が深いと感じます。二つ目があるからこそ、一つ目があるのです。人によって、これは一つ目に入れるとか二つ目に入れるとかは変わるのだと思います。三つ目は社会に対する責任です。クラスで一番多かった意見が、税金を納めるということでした。今回のまとめをすると、自由と責任はどちらも必要であるということです。
どちらかに片寄ってはいけません。自由に生きながらも、責任というものを果たしていかなくてはなりません。今まで私は自由も責任もあまり考えたことがなかったので、今回の道徳はとても私にとって良い内容だったと思います。私はこれからいろいろなことに責任を持っていきたいです。
自由とは、「自分の意のままに振る舞うことができること」という意味でした。自由は大切であると僕は思います。しかし、それにも限度が必要です。自分が思うままに行動をすると、相手に迷惑になるからです。中山先生も同じようなことをおっしゃっていました。物事を判断する心である良心を鍛えあげなければならないという言葉を聞き、良心の大切さを学ぶことができました。
一方、責任についても学びました。責任と聞いて、すこし重くなる気持ちもありましたが、生活において責任を果たしているのか考え直してみました。クラス内での仕事、たとえば日直や係などできちんと責任を果たしているのかというと、黒板を消すのを日直なのに忘れるなど果たしていないことがたくさんあります。
また、自分自身に対する責任では、教科書をたまに忘れたり、次の教科の準備をし忘れたりなど、責任をきちんと果たせていないかもしれません。今回の道徳で一番大切なこととして印象に残ったのは、「自由か自由でないかは見た目では判断できない」ということです。
たとえば、中山先生が若い時のある生徒の話で、「高校に入ってから気持ちを新たにしていきたい」と言っていたのに、周りの生徒に合わせてミニスカートを履いてきた生徒がいたそうです。本当は嫌だけれど、他の人たちがミニスカートだから自分も合わせてミニスカートにするというのは自由ではないと僕は思いましたが、先生は、やめることもできるのにそれをやめないということはそれも自由であるかも知れないとおっしゃいました。ミニスカートを履くか履かないかは生徒の自由だからだということでした。これを聞いて自由とは見た目では判断のつかないことだと感じました。今回の中山先生の道徳をお聞きして、相手を思いやるという良心の心を育てていき、これから与えられる責任はすべて果たしていきたいと思います。自由とは判断がしにくい難しいものだと思いました。自由といっても限度を考えて、相手を思いやることができるような人になりたいと思います。
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国際社会で大切なことは「互いに助け合うこと」であることがとてもよくわかりました。特に食料自給率のお話は興味深いものでした。互いの国で不足している食べ物を補い合うというのはとてもよいことです。しかし今の貿易では自国の利益ばかりを優先させているように思います。輸出入を行えばお金が関わるのは当然ですが、それでは互いを尊重し合う関係は生じません。相手国の事情もよく考慮して貿易をすることが大切であると思いました。
授業のまとめでは、国際社会においても一対一の人間関係同様、相手を知り、理解することが重要であると教えていただきました。けれどもこれがなかなかできていないことのように感じました。人間は自己中心的に物事を考えやすいものだからです。
また「信頼され、信頼すること」も大切であると教えていただきました。信頼関係を築くには互いに尊重し合う姿勢が必要です。自分の方からまず相手を信頼するように努めれば、相手もそれに対し誠意を持って自分を信頼してくれるのではないかと考えました。
最後に「相手の気持ちを大切にすること」の重要性を教えていただきました。自分の言動が相手を傷つけているのではないかと考えることは友達との付き合いにおいても大切なことです。一人の人間の心無い一言が相手国の国民の感情を逆なですることはニュースを見ると頻繁に起きています。思いやりの心は国家間においても大切なものであるということに改めて気づくことができました。
今回の道徳ではまず国際社会の定義について学びました。国際社会とは「独立した国家が独立した国家を互いに尊重し合い、政治、経済、文化の分野で交流していく社会」ということでした。その中でも特に重要なのは経済ではないかと僕は感じました。
次に国際人として生きるための今の世界の現状について教えていただきました。日本の食料自給率は約40%で、残りは外国からの輸入に頼っています。特に小麦、大豆、とうもろこしの自給率は約10%台で、国内生産ではとてもまかなうことができません。日本は外国からの輸入によって支えられていると言えます。他国との交流において僕が思ったことは、確かに英語やフランス語など、ある程度流暢に会話ができることは必要ですが、それ以上に伝えたいという気持ちを持って会話することが大切であるということです。国際社会で生きていくためには積極的に相手と向き合うことが大切であることを学びました。
また授業では南北問題についても教えていただきました。北半球と南半球との経済格差はとても大きいということです。北半球は陸の面積が広いため、先進国が多く分布しています。それに比べて南半球は発展途上国が集中しています。また同じ南半球に位置していてもダイアモンドや白金といった地下資源が豊富な国もあり、そうした資源の乏しい国との格差、つまり南南問題も起きているそうです。僕は将来、青年海外協力隊に参加し、日本の技術を教えて貧しい国を救いたいと考えています。
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私が今回のお話をお聴きして学ぶことができたことは二つあります。
人間は常に社会の中で生きています。社会とは共同の生活を営む人間の集団です。つまり、私たち人間は複数の人たちとやり取りをしながら毎日生きています。社会の中でうまく生きるためには、まず人と人とのコミュニケーションが必要だと思います。
僕たちは今学校という社会の中で生きていますが、コミュニケーション力がなければ切磋琢磨できるような仲間はできないと思います。複数の人たちとやり取りしながら生きていく社会では、まずコミュニケーション力が必要です。
普段の友達との会話を大切にし、一つ一つ能力を身につけていきたいと思います。今僕は「家族」と「学校」という社会の中で生活しています。就職している大人たちからすれば、小さな社会かもしれませんが、それでも僕は「社会」の中で生きています。つまり、僕たちは皆社会の一員だということです。社会の一員であるという自覚と責任を持たなくてはならないということです。
たとえば私には「江戸取生」としての責任があります。江戸取生としてふさわしい行動をしなくてはなりません。一人が不正行為をすれば、それを見た人は個人名ではなく、「江戸取生が」とまとめられてしまいます。胸についている学校のエンブレムが、「責任」「江戸取生としての証」を証明するからです。長年先輩たちが築いてきた江戸取の名声を、たった一人や二人の行動だけで汚したくありません。一人一人が自分は江戸取生の一員であり、一人が崩れると全体に迷惑がかかってしまうという自覚を持ち、基本的な決まりを当たり前のように守っていくことが大切だと思います。
江戸川学園取手中学校に入学して、もうすぐ2か月になります。いろいろな人と仲良くなりました。その友達はふざけ合う友達ではなく、切磋琢磨し合える存在でなくてはなりません。それはこれから僕たちが社会で生きていくにあたって、とても重要なことだと、今回の授業を通して感じました。
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私は今回の道徳の授業で、ルールを守る事の大切さを学びました。法律は、日本で暮らす際にみんなが気持ちよく暮らせるように定められたものです。ルールも、スポーツで平等に戦うためにあったり、公共の施設で快適に過ごすためであったりと、どの場所でもみんなが気持ちよく過ごすためにルールはあります。
私は今までルールについて深く考えることはありませんでしたが、ルールはあちこちの場所にあるということが分かりました。私たちが通学に使う電車の中、ホームでもルールがあって、並ぶ時は二列に並ぶ、乗る人は降りる人を待つ、エスカレーターでは右側、左側どちらかを急いでいる人のために開けるなど、普段ごく自然にやっている行動がルールだということに気がつきました。
もし、並んでいるのに割り込みをしてきたり、降りるときにホームから人が乗ってきたりしたら、私は嫌な気持ちになってしまうと思います。しかし、時には、急いでいるために自分の気持ちを優先してしまって、列に割り込んで入ったり、降りる人を待たずに乗ってしまったりする事があるかもしれません。
しかし、いくら罰せられないからといっても、周りの人が嫌な気持ちになるという事には変わりないので、たとえ急いでいたとしても、自分がこうしたら、周りの人はこう思うだろうという事をきちんと考えれば、そのような行動に出ようとは思わないでしょう。
「一度ルールを破るとそれがくせになってしまう」という言葉も聞いた事があります。私は、周りの人のため、それがくせにならないために、ルールをきちんと守って生活をしていきたいと思います。そしてルールがある意味を考えて、周りの人の事を考えながら、自分も周りの人たちも気持ちよく過ごす事ができるような振る舞いをこれからしていきたいと思います。
僕は時崎先生の道徳の授業をお聞きして、ルールとは何かを考えることができました。ルールは自分の意志で守っていくものであると僕は考えました。
その場によって守るべきことやマナーは違います。しかし、自分が強い意志を持つことが大切です。「絶対にそのことをやり遂げる」「周りの人に親切にしよう」などといった目標を掲げた上でのルールだと私は思います。
その場によって対応を変えるのと、気分でやることを変えるのは全く違います。僕は状況判断ができる人間になりたいです。だから、まずは日頃から周りに気を遣って生活ができるようにしたいです。
そして、法律は明文化されていて、刑罰もあります。これは、守らなくてはならないものです。ルールとは違って場によって対応するということは法律では通用しません。
だから、ルールや法律を知った上で生活するということを心掛けていきたいです。小学校の先生にも言われましたが、学校は小さな社会に相当します。働けば給料がもらえるように、勉強を効率的にすれば、成績が上がることでしょう。
人に優しくしたら逆に自分が困ったときに助けてもらえるかもしれません。自分のためにではなく、人のために、人が幸せになれるようにする。これが、マナー、いわゆる学校の皆が幸せになるためのルールなのではないかと思います。
他の人やクラスメートを幸せにできるように努力していきたいと思います。
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私は今回の貝森先生のお話をお聞きして、公共心や公徳心を持って、公共交通機関では気をつけなければいけないと思いました。
今回の道徳のテーマは「公共心・公徳心を養うために」でした。研修旅行でも公共心についてはお話ししていただきましたが、それとは視点の違った内容であり、とても興味深いものでした。そもそも公共心と公徳心の意味も正確に知らなかったため、似たようなこの言葉にどのような違いがあるかもわかりませんでした。
意味をお聞きしたときにもそんなに違いがないのではないかと思いましたが、それは自分が社会で生きている社会人だという自覚がなかったからです。自分が社会人であることを自覚して、社会のための利益を考えることや社会生活を送るのに必要な守るべき道をよく理解していなければ、きっと大人になるまで気に留めなかったかもしれません。
社会とは人が何かをしようとして集まった集団のことです。僕は社会の事を勘違いしていて、大人の人たちが生活している世界が社会だと思っていました。そして社会の本質に気づいた後もまだ勘違いをしている事がありました。それはきっと僕が通っていた小学校という狭い世界にとどまっていたからだと思うのですが、社会は無限に作ることができ、世界や地球規模にまで広がっているのです。
グローバルな視点を持つことが社会を広げ、また、新たな社会を作り出すのではないかと僕は思いました。そして江戸川学園取手高校を卒業した後、地球にある様々な社会を引っ張っていけるような心豊かなリーダーになっていきたいと思いました。
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私は今回の道徳で識字率について知ったとき、驚きました。なぜなら日本は識字率が高いだろうし、インドは数学が得意なのだから、識字率は70%以上だろうし、他の国もさすがに40%は超えていると思っていたからです。しかし、インドとニジェールの識字率の低さを見て、私の「字を読めることは当たり前」という考えは覆されました。そして、同じ女子の中で3200万人の人が学校に行けていないことを知り、アフリカなどにおける学問の大切さを知りました。そしてナイジェリアのような事件がないようにして欲しいです。また、その人たちの分まで勉強できたらいいなと思いました。
僕は竹中先生のお話をお聴きして、今の自分の環境がとても恵まれており、それに感謝しなければならないと思いました。僕がたまたま日本という国に生まれてきて、私立の中学校に通っているという環境は全世界においても珍しいものだと思います。学校に行きたくても、貧しい人や戦争に巻き込まれて亡くなってしまうなど、勉強をしたくてもできないという人々が特に開発途上国に多く見られます。その人々のことを考えると、先進国に生まれていい環境で育てられ、良かったと思う反面、何か後ろめたさを感じることもあります。 |