今回の授業で感じたことは、自分で思っていることと他人が思っていることは全然違うということです。
例えば今回の授業で行った「ジョハリの窓」のように自分が見せていると思っている自分と、他人が見ている自分とは異なっていました。
このように主観的な考えと他人から見た客観的な考えとではお互いに感じ方の違いがあるのです。同じ物を見てもそれぞれ感じ方は違うので、それぞれの意見があります。
だからそれぞれの違いを知り、それぞれを認め合わないと他人との関わりが持てなくなります。しかし、だからといって人の意見を聞きっぱなしではいけません。
自分をしっかりと持たないといけないと思います。それを持ちすぎると自己中心的な人になってしまうので、ちょうど良いように自分の考えと他人の考えをコントロールする事が大切だと思いました。
そして他人を受け入れられるようにすることも必要です。自分の持っている常識に他人をはめ込んでしまうのは良いことではありません。
その人には、その人の生き方があるので、その生き方を勝手に他人が否定していいものではありません。だから人を見た目や生活の習慣で判断していいものではありません。
そうしたことを意識していくことで他人を認めることができるようになり、器の大きな、心豊かなリーダーになるための条件の一つが身に付くと思います。
このようなリーダーになると行動はもちろん、周りの環境も変わります。やはり人は自分勝手に行動をする人をリーダーとして認めないし、そもそもその人の周りには人は集まりません。
周りのことをよく考えて行動する人がリーダーとして認められ、また人もその人の周りに集まってきます。そういう意味で人は優れた人と、そうでない人をしっかりと区別する力を持っており、自分がどちらの人間なのかは分かるはずです。
自分の行動を考えながらこれからを生活していきたいです。
「和を以て貴しとなす」というのは日本人に最も多く知られている言葉の一つだと思います。
第一回友人の多様性を受容するという内容で、武居先生の道徳の授業がありました。
先生のお話の中にありました聖徳太子の言葉が印象に残りました。何事をやるにも皆が仲良くやり、諍いを起こさないことが良いことだという意味です。
人々がお互いに仲良く、調和していくことが最も大事なことであるという教えです。聖徳太子が制定した十七条の憲法の第一条に出てくる言葉です。
「和の精神とは体制だけ取り繕った物ではなく、自分にも人にも正直に不満があればお互いにそれをぶつけ合い、理解し合うということが本質ではないかと思います。
「あなたの言い分もわかるが、相手の言い分も聞いてはどうか。お互いに認められるような議論をするべきだ」ということだろうと思いました。江戸取に入学して初めて出会った友人達です。
まだ全員の本質を見抜いてはいません。僕が本質を見抜く力を持っているとは思えません。これから、日々江戸取の仲間と過ごしていくうちに今まで見えなかった良い部分、悪い部分が分かってくるかと思います。
もちろん、意見の違いもあると思います。仲間と円満に、円滑にコミュニケーションをとっていきたいと思います。何かあったとき、何か思ったときには聖徳太子の言葉を思い出します。
人は決して1人では生きていけません。人と人、寄り添いながら生きていきます。
共感できる、共感できない等、全てを受け入れた上でお互いの意見を尊重しながら諍いを起こすことなく仲よくしていきたいと思います。
何歳になっても人とのつきあいは難しいものだと思います。そんな中でも仲良くしようと個々が考えていけば友達とも争いもなくなります。
大きく考えると戦争も起きないのではないかと思いました。新しく出来た友人、今までつきあっていた昔からの友人、皆の良い点を見つけて、良い所を見るようにしてみたいと考えました。
この4月での反省点、これを以前担任の先生がおっしゃっていたようにこれからの成長点ととらえ、将来恥をかかないよう立派な大人になれるようこれからも努力していきたいと思いました。
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私はこの講話を聞いて自由とは何かということを思いました。私も以前は自分の好きなことが好きな時にできることが自由だと思っていました。
しかし、アテネでは奴隷でないことが自由だと聞いた時に、やはり日本と外国では自由の感覚が違うのだなと思いました。
自由とは、「他から強制されたりせず自分の意志で行動すること」であり、無制限に好きなことをすることとは違うということを聞いて、とても納得しました。
そして、考え方が変わりました。そして、自由は二種類あることも学びました。
自分がしたいことができることが自由だとすれば、周りに左右されてすることは自由なのかという例に出ていたような、「化粧・部活・スカート」などの問題はとても難しかったです。
相手の自由を認める思いやり、相手を尊重するということは、新しく学びました。もう一つは、責任ということについてです。
責任とは、自分に与えられた役割、使命、人として果たすべきことだと聞いた時に、私は納得しました。
以前私はアンケートを書いた時は、正直責任とは?という問いについて、自分の頭の中では何となく分かっているがうまく言葉にできないという感じでした。
しかし、この言葉を聞いた時に、私はとてもしっくりきました。
自分自身に対する責任・他者に対する責任・社会に対する責任と三つの責任を考えることで、何となくですが自分にも色々な責任があるのだと思いました。
そして、自己実現や自分を限らない、初志貫徹などの意味も自分の頭の中で一致しました。
私はこの講話を聞いて、自由と責任の意味を理解しました。
そして、自由の意味を考え直さなければならないなと思いました。私は今後の物の考え方にこの講話の内容を生かしていきたいと思います。
「自由と責任」という言葉は、今回の中山副校長先生の講話がなかったら、その意味をよく考える機会がなかったと思います。
自由の意味は人に迷惑をかけない程度にということは分かっていましたが、なぜそうなるのかは分かっていませんでした。
そのような知らないこと、考えていなかったことを、今回の先生の講話で考えさせられました。先生が講話でおっしゃったことの一つに「自由は見た目だけでは判断しにくいという側面もある」という言葉がありました。
自分はこの言葉を聞いて「なるほど」と納得することができました。そのような理解もこの講話でできました。自由という言葉を先生は僕たち生徒に教えてくれました。
これからも自由という言葉の意味も先生の講話も忘れずに生きていきたいと思います。皆の心には物事の善し悪しや「これはやっては駄目だ」と判断できる力がある、応用力があると言われました。
これは、自分で判断できる心が皆にはもうあると信じてくれたからこそ、それができると信じられたからこそ、言われたことだと思います。
それをできるかどうか、責任があると思います。その責任という言葉も先生がおっしゃってくれていました。
責任は三つに分かれていて、そのうちの一つ目は自分自身に対する責任、二つ目は他者に対する責任、三つ目は社会に対する責任です。
この三つの責任は実際にどれに当てはまるのか、班で話し合い、色々な意見を出していきました。
一つ目の責任では宿題、約束を守る、健康を保つなどの意見が出てきて、二つ目の責任には時間厳守、相手の目を見て話を聞く、などの意見が出てきました。
三つめの責任では、マナーを守る、仕事、環境を守るなどの意見が出てきて、様々な意見が出てきました。
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私は今回の松下先生のお話を聞いて、世界との関わりについて改めて考えることが出来ました。
私は毎晩ニュースを見ているので、今、世界でどのような問題が起きているのか、また、日本が世界とどのように交流しているのか、など、ある程度のことは知っていました。
しかし、今回の内容のように、日本が世界と関わったところで、どのような利点があるのか、また、どのようなことを得ることができるのかなど、このような詳しいことまでは、考えていませんでした。
そこで私は、日本と世界の交流や関わりについて、少し考えてみました。
日本と世界の交流の中で強く心に思ったことが二つあります。
一つ目は、日本が世界に助けてもらっている、ということです。松下先生のお話にもあったように、日本は食糧自給率が低いです。
人間は生きるために必要な「食べ物」の自給率が低いと言うことは、大変なことです。
それを世界の国々に助けてもらっているということは、とてもありがたいことだと思いますし、重く受けとめ感謝すべきことだと思います。
また、他にも助けてもらっていることはあると思います。それは、日本が災害などに直面してしまった時、世界の色々な人達が助けに来てくださったことです。
最近の災害でいうと、東日本大震災です。この時は津波が来て、とても悲惨でした。そのようなときに世界の人達は募金や手紙などで支援してくださいました。
とても心温まるもので、私は感動しました。このように、日本は、世界の国々、人々から色々と助けてもらっているということを知りました。
だから、その分、日本も世界のどこかの国が困っているときは、恩返しとして助けてあげたいと思います。
二つ目は、世界の中でいろいろな格差が生じているということです。この差とは、貧富の差、経済的な差、技術の差など様々なものがあります。
この中で、私は、貧富の差が一番激しいと思います。松下先生もお話ししていましたが、北半球と南半球では、貧富の差が一番激しいと思います。
日本は、北半球にありますが、日本の中でも貧富の差があると思います。けれども、日本は世界の中でまだ豊かな国ですが、貧しい国では、水も出ず、字をかける人が少ない、また、紛争が起きているなど、大変驚くことがたくさん起きています。
これには、とてもびっくりしました。だから、このような国には、募金をしたりして、援助をしていきたいなと思います。
これに関連して、困っている人達のために、人の役に立ったりする仕事をしていきたいと思います。
このように、日本は世界と様々な交流をし、関わり合っています。また、関わり合いながら助けてもらったりもしています。
私は、今回の松下先生のお話を聞いて、日本は色々な国に支えてもらいながら、今ここにあるということを知りました。これからは世界に恩返しをするつもりで活動していきたいです。
松下先生の講話をお聞きして、国際社会を生き抜くためにはお互いの国の文化を尊重し合うことが大切だと僕は思いました。そう思う理由は異国の人々とこれからは互いに接しながら生きていくことが当たり前になり、そのようなときに文化の違いによってぶつかり合いが起きないようにするためです。異国の文化に触れるために、江戸取で行われるオーストラリアの短期留学やアカデミックツアーに参加して、将来のために訓練していきたいと思います。 |
僕は今回、青野先生のお話をお聴きして自分も社会の一員であるという事がわかりました。今まで、社会とは大人の人達だけが関係があって、僕達、子供には遠く関係の無いものだと思っていました。
しかし、青野先生はお話の中で家族や友人も最小単位の社会とおっしゃっていました。つまり、自分にも社会の一員としての役割や、責任があったということが分かりました。
今までの自分を振り返ってみても、社会の一員としての役割を果たせていませんでした。そこで、これからは、社会の一員としての役割を果たせるように頑張りたいです。
また、他にも学んだことがあります。それは自分一人では生きられないということです。人は、お互い助け合わないと生きてはいけません。
今までは自分一人でも何とかなると思っていました。しかし、今の僕がいるのは、社会の最小単位である家族や友達がいたからだと思います。
そして、最後にこの授業で一番大切だと思ったのは江戸取生として自覚を持った行動をとることです。
今までは先生や親から、あれをやりなさい、これをやりなさいと言われてから物事を行ってきましたが、それではいつまでたっても、自覚をもって行動することにはならないので、気持ちを切り替えて頑張りたいと思いました。
その為にやるべき事は挨拶だと思います。最初は基本的な事を自覚を持って行った方が良いと思ったからです。今回、青野先生のお話とディスカッションを行い社会の一員としての役割を果たすことと自覚を深める事が重要だと思いました。
私は「社会」で生きていくために必要なものの中にある道徳が心に残りました。
なぜなら、「自らを律する」つまり「自分できまりをつくり、それに従って行動すること」なので江戸取は社会と同じような環境になっていると分かったため驚いたからです。
こういう環境で勉強できる事はありがたいと思いました。家族・友達でも「社会」ということは「社会の一員」になるのは一切難しいことではなく、生まれた時から一員なのだと感じました。
私は「社会の一員」になるのはかなり大変なのではないかと考えていました。しかし、私は「社会の一員」の意味を知ってとても納得しました。必ず自分の役割があるからです。
だから、学校でも係があったり委員があるのだと思いました。私は班の中で出た、「子供ではなく大人に」という意見にまた納得しました。「子供」だと自分のことしか考えずに行動しているが、「大人」だと周りの人々のことも考えて行動しています。
まだ私は「子供」の一面が残っているので自分も「大人」にならないと社会に出ていけないと思ったからです。私は人に親切にするということはとても良い事だと改めて思いました。
なぜなら、人に親切にされて損する人はだれ一人いないのではないかと思うからです。自分も人に親切にしてあげたいと思いました。私は大きい「社会」に立派になって出ていくために江戸取で勉強したいと思いました。
規則を守り、友達と行事だけでなく日々協力し合いたいと思います。そして日常では挨拶や公共の場でのマナーを心がけたいです。また、自分が担当する日直などの仕事を誰よりも一所懸命になしとげていけたら良いのではないかと思いました。
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今回の講話ではまず「ルール」と「法律」についての違いについて学びました。
ルールは文字になっていない場合がありますが、法律ははっきり明文化されています。法律は破れば罪を問われますが、文字になっていないルールの場合、破っても罪に問われることはありません。
だからといって破ってもかまわないかというとそういうわけではありません。罰せられない代わりに人から信頼されなくなってしまいます。ルールは「暗黙の了解」です。ルールは強制されなくても、人として当然守るべきものなのです。
人間が一人で生きているのならばルールは不要です。何をするにしても自分の好きなように行動してかまいません。ただし誰もいないので何もかも自分ひとりでしなければなりません。
二人以上、つまり集団で生活することになるとそこには関係が生じ、ルールが必要になってきます。他人が何を思い、何をしようとしているかを考え、対応しなければなりません。
相手の気持ちになって考える「思いやり」が必要です。自分中心に何でもしようとすると必ずトラブルが発生してしまいます。
しかし、そこにルールがあれば、互いの役割もはっきりし、何をすべきか、何をしてはならないかがわかります。ルールを作ることによって一人ひとりのストレスも減り、互いに嫌な思いをすることも少なくなります。
ルールがあり、それを皆が守ることによって私達は安心、安全に、快適に生活することができるのです。スポーツの世界にもルールはあります。ルールブックには競技方法や反則や違反行為について細かく定められています。
そしてルールを破れば退場、失格、反則負けになります。ルールがなければ、対等に戦うことができず、正しく勝敗を決することができません。
それではスポーツ競技の意味はありません。両チームが平等に相手を傷つけることなく正々堂々と戦うのがスポーツです。
そのようなスポーツと同様、日常生活においても互いにルールを守り、信頼関係を築いて平等な社会を築き、楽しく生活していきたいと思います。
「ルールについて」の講話をお聞きして、ルールの必要性や今後どのように生活していけばいいのかということを考えることができました。
たとえば電車内で、優先席を学生が独占して、お年寄りや妊婦の人に席を譲らないという光景を見たことがあります。その様子を見て、僕はとても悲しくなりました。
「もし自分が優先席を必要とする身体で、それでいて優先席を譲ってもらえなかったとしたら」と考えてみることが大切なのではないでしょうか。
「ルール違反あるいはマナー違反は、破ったら法律と同じように罰してもいいのではないか」という考えも、今の僕の頭の中には浮かんできています。
次にこれから僕達はルールやルールのある物事についてどうすればいいのかを考えてみました。ルールは相手も自分も嫌な思いをしないためにあるとお聞きしました。
そのとき僕は「常に他人に目を向けて行動するようにしよう」と決心しました。ルールは社会生活を営む上で、誰にでも、どのような時にでも必要なものだと思います。
また、ルールは一人ひとりの心を成長させるものであると感じました。社会には様々なルールがあります。僕もまだ知らないルールもあるはずです。学校生活の中においてもまだ知らないルール、マナーがあるかもしれません。
そのことによって先生方から注意を受けるかもしれません。できるだけそういうことがないようにルールやマナーをもっと学び、理解し、身につけたいと思います。
そしてもし注意を受けた時は素直に自分の行動を反省して、同じ過ちを繰り返さないようにしたいと思います。
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今回の講話で私が心に残った先生の言葉は、「人は一人で生きていくことは不可能である」ということです。
食事一つをとってみてもお米を作る人、野菜を作る人、水を作る人がいて、卵にしても、調味料にしても、自分一人では作ることができません。
誰かに頼らなくては生活できないのです。社会の中にいるということは、たくさんの人と関わるということです。自分だけが楽をして、周りの人に迷惑をかけたり、不快な思いをさせてはいけません。
たとえば、空き缶やペットボトルのポイ捨てです。以前、地域の人たちと一緒に、公園でゴミ拾いをしたことがあります。一番多かったゴミはペットボトルでした。
ポイ捨てをしても良いことはありません。掃除をする人も公園で過ごす人も、気持ちよくありません。この活動を通じて、一人一人の心がけ次第でみんなが気持ちよく過ごせる社会に変えていけるのだと思いました。
すべての人がルールを守らずに自分のやりたいように生活をしたらどうなるでしょうか。たとえば、自転車に乗りながらスマートフォンを見ていたり、道をふさぐようにして歩いたらどうなるでしょうか。
世の中が成り立ちません。自分の損得で行動するのではなく、世の中をよくするためにルールを守ることは必要です。そして、「思いやり」を持つことが大切だと思います。
どうすれば相手が気持ちよく過ごせるのか、どう言えば言った方も言われた方も不快にならないかなど、相手の立場になって考えることこそが気持ちのよい社会を作るために必要だと思います。
そのためのルールやマナーは生活していく上で必要なのです。しかし、ルールを守らない人や、楽をしたり自分だけ良ければそれでいいと思っている人がいるので、ルールやマナーを守ることが損をしているように感じてしまうこともあります。
人間、誰にでも楽をしたいという気持ちがあります。誰も見ていなければ少しくらいとか、みんなが違反しているから自分もしてしまおうと思いがちです。
しかし、あの時ポイ捨てをしなければよかったと思ったり、バスの中でお年寄りに席を譲ればよかったなどと罪悪感を持つくらいならば、最初から思いやりを持って行動したいです。
貝森先生の講話をお聴きして、今まで自分が公共心・公徳心に反する行為をたくさんしていて、周囲の人に迷惑をかけていたのだと改めて実感しました。
特に電車内でのマナーがよくなかったと思いました。電車内で飲食をし、出たゴミをポイ捨てしてしまい、たくさんの人に迷惑をかけたことがありました。
その2か月後にまったく同じ時間の電車内で4名ほどの高校生が優先席に座り、飲食をし大きな声でしゃべっていて、その時自分は「嫌だな」「やめてくれないかな」と思いました。
自分はいろいろな人にこのような気持ちにさせていたんだなと思って恥ずかしくなり、行いを改めようと思いました。
疲れて眠りたい人、静かにしていてほしい人、ゆっくり音楽を聴いてリラックスしたい人など、いろいろな人がいて、それぞれがお互いに迷惑をかけないように遠慮しているからこそ、電車で問題が起きないし、社会がうまくいっているのかなと深く思うようになりました。
もう一つ貝森先生がおっしゃっていた、「自分は社会の一部としてやっていけるようになる」ということについても深く考えることができました。
今まで社会については漠然としか考えたことがなく、貝森先生が「社会とはどんな場所か」という質問をなさった時はとても考えました。
大人になったらいける場所、閉鎖的な空間ではなく開かれた空間など、クラスの人たちの発言内容から自分の考えの浅さを感じ、クラスの人たちは自分より一回りも二回りも大人に近づいているのだなと痛感させられました。
公共心と公徳心を尊重し、他の人にも自分にも厳しい、規律ある進学校の生徒になれるように頑張っていきたいと思いました。
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私はこの授業を聞いて改めて学べることの大切さを知りました。
最初に世界の識字率のお話で日本は99.8%で、インドが58%、ニジェールが17%でした。そこで日本はとても恵まれている国だなと思いました。
インドが58%というのはとてもびっくりしました。しかしインドは授業の中でも出てきましたが、貧富の差が激しく、勉強ができない子もいるんだなと思いました。
そしてニジェールです。ここには学びたくても学べない子達がたくさんいるんだなと思いました。このような子達がたくさん世界にいます。
自分が学んだことをどんどん生かしていき、そういう子達のために少しでも役立てられたらいいなと思いました。
今回、竹中先生の道徳の授業を受けて思ったことは、先日の研修旅行中に貝森先生がおっしゃっていたように、世界の中で大学に行ける人がわずかだということです。
僕は小学生の頃、いつも学校に行くのが面倒くさく、学校に行ってもボーと一日を過ごしていました。しかし、今回の授業を受け、自分は恵まれている事を自覚しました。
また恵まれている中で、努力して恵まれている責任を果たしていきたいです。僕は今まで何に関しても「将来必要ない」と思い、音楽など授業を集中していませんでした。
しかし、今回の授業で僕は今は五教科以外でも将来必要になるので、今のうちから学んでいく必要があると思いました。もしかして日常生活の中から何か発明したり、発見したりするかもしれません。
しかし学力がないためそれを発表することができないまま終わってしまうかもしれません。また、将来の夢ができた時、どうやったら実現するのか知らなかったら、それもそのままで終わってしまうかもしれません。
学力は生きていくための手段や方法を手助けするものであり、また夢を実現するための道具だと思います。しかし、先生の仰る通り、今の僕の学力は無力だと思います。手助けする力をまだ備えていないと思います。
ずっとこのままであったらどうしようという不安になることがあります。その不安を解消するためには学び続けるしか方法はないと思います。一人で学び続けても限界があるため、発展していきません。
だから学校で学んで無力な自分を有力な自分へ六年間で変えていきたいです。
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私は道徳の授業で東日本大震災で家族の大切さ、命の尊さを改めて知りました。
私は東日本大震災のことを忘れたことはありません。あの日、私はお父さんと喧嘩しました。当時父の仕事が忙しくあまり構ってもらえなかったのでその日に口論になりました。
父親を「いってらしゃい」と送り出すこともせずにいました。父は茨城県沿岸部の工場で働いています。ちょうど津波のことが放送されていました。
それはもう波ではなく、何もかも無に返す茶色い怪物のように思えました。連絡を取ろうと電話をかけましたが、「ツーツー」という音と棒読みのメッセージが聞こえてくるだけでした。
朝の自分を呪いました。喧嘩別れしたことを、顔すら見なかったことを後悔しました。3月11日、連絡も取れないまま一日が過ぎました。体が不安で押しつぶされそうになりました。
やっと連絡が取れ、無事だったと分かったとき、安心と自分への教訓を胸に刻みました。「絶対に後悔をしないようにしよう。
いつ死んでも、いつ別れてもいいように。父を送り出すときも送り出されるときも最高の笑顔でいよう。」これは私の永遠の目標です。この後も後悔する出来事はありました。
「どうしてこんなことをしたんだろう」とたびたび思うこともあります。しかし最高の笑顔でいる事はまだ破ったことはありません。笑顔でいると前よりずっと家族が大事に思えてくるようになりました。
今もこの約束は実行しています。今回の道徳でお話を聞き、あの不安と後悔と絶望しかなかった3月11日は忘れないようにしたいと思います。
そして今後もいつ「もしも」のことがあっても後悔しないように家族に気遣うこと、最高の笑顔でいることを忘れないようにしたいと改めて決意しました。
僕は遠藤先生の話を聞いてとても感動して泣きそうになってしまいました。
自分は東日本大震災では学校で終礼をしている途中でした。帰るのが遅くなったり祖母の家にあるレンガの煙突が崩れたくらいしか被害はありませんでした。
だからその日だけがとても怖かった大震災であたような気がしていました。しかし震源の近くの人たちにとっては長い恐怖の時間だったのだと思います。
きっと震災で生き延びた人たちは津波を伝え続けてくれた人や、避難所まで連れて行ってくれた人たちに感謝して生きていると思います。
自分もこれまで育ててくれてきた人たちに敬意を表して生きていきたいと思うようになりました。他に、生きたくても生きられない人たちがいる事を先生は話してくれました。
僕は今、何も気にしなくても生きています。何か大事件でもない限り死にません。ですので、生きている事が普通と考えてしまっています。
しかし世界には生きていたくても生きていけない人たちがとてもたくさんいて、そうした中に自分たちはいるということをよく考えて与えられた時間を有意義に使うと決めて生きていきたいです。
また先生は命はかけがえのないものともおっしゃっていました。感謝の気持ちより要求や愚痴のほうが多くなっていませんか?という質問に、僕は要求や愚痴の方が感謝の気持ちより多くなっていると思いました。
これからは感謝の気持ちを持って多くの人と接していきたいです。この日、先生からとてもたくさんの事を学び、とてもたくさんの衝撃を受けました。
先生から学んだことをこれからの中学校生活、高校生活の先もずっと忘れずに歩んでいきたいです。
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